バックナンバー(00年7月〜8月)




佐藤学 『カリキュラムの批評』 (世織書房)
 教育改革国民会議とやらは予想通り迷走を始めているが、佐藤氏はデータに基づかぬ印象と思い込みの酒場談義と断じていた。体験を対象化して捉えることのできない人々が、寄ってたかって教育を壊していく。右も左も後ろも前も、およそ実証性に欠けた物言いしかできず、挙句の果てにいくつかの断片を無理やり剥ぎ合わせて教育施策がでっち上げられるから、いつも結果はばかげた張りぼてのようなシロモノになる(もちろんできるだけ安上がりに作られている)。
 とりわけ気にかかるのは、国民会議に限らないのだが、学校にのみかろうじて実現できるかもしれない公共性をどんどん危機に追いやりつつ、総体としては滅びてしまった地域や家庭の公共性幻想に子供を引き渡そうとする発想である。どんなに理屈をこねてみても、もう公教育にカネも手間もかけないという魂胆が見え見えで、実にいやらしい感じがする。
 佐藤氏の主張は進展する教育の私事化を乗り越えて学校に公共性を取り戻そうとする視点が明確であり、しかもそれは内外の教育事情をつぶさに研究してきた成果に支えられているから説得力がある。こういう論集を読むと、学者や経営者の肩書きを持っていながら実質的には役人か評論家だったり、現場の人間と祭り上げられながらあまりにも現場に埋もれてしまっている教師や親、といった人々の言説の声高な主張の恐ろしさを感じざるを得ない。

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田沼武能 『父の目1000日 赤ちゃん新発見』 (ごま書房)
 もう12年前の、女性向のシリーズの本なのだが、近所の図書館のリサイクルコーナーにあったのが目にとまって、もらって来た。田沼武能といえば、菊池寛賞も受賞している写真家で、子供の写真ではたいへんよく知られていると思う。子供の可愛さは言うまでもないのだが、衒いのない子供たちの姿を通して社会や時代が見えてくるのも確かなことである。さて本書は、五十過ぎの晩婚で授かった自らの子供を撮りながら、できごとや思いを綴った、いわば写真エッセイといった趣である。まず面白いのは、世界を飛び回る著名な写真家で、五十過ぎの大人である田沼氏であっても、父親としての思いや経験はなんら変わるところはないというほほえましさであろうか。『ボブ・グリーンの父親日記』を読んだとき、イギリスの皇太子と自分の息子が同じおもちゃで遊んでいることに感動してしまったり、紙おむつのブランドの品評でタクシードライバーと盛り上がったり、というようなエピソードに、たいそう共感したものだが、本書でもうちの息子と同じおもちゃを同じように相手にしているご子息の写真があったり、腹痛ややけどのときにまず頼りにするのが同じ松田道雄の『育児の百科』であったりすると、やはり何かうれしいのである。父親としての育児への考え方や取り組み方を話し合う機会というのはなかなかないせいもあろうか。切り取られた赤ちゃんのしぐさや表情も、自分の息子たちと共通する。この世に生まれ出てきた息子たちとの出会いの頃の思いをまた暖め直してもらった思いである。

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ラット 『カンポンのガキ大将』 (晶文社)
 子供はどんどん大きくなるので、子供の本棚の中身もどんどん入れ替えていかなければならない。もう読まなくなった絵本などは小さなイトコや友人の子供たちに喜んでもらえる。でも、どうしても手元に置いておきたい本もある。このマレーシアの作家の本もそうである。
 本書は、作者のラットの子供時代を書いた絵本なのだが、マレーシアの村やムスリムの生活が描かれている、というだけではない。川にスズ採取の機械があって、そのおこぼれを集める貧しい村人の暮らしがある。ラットの家は大きなゴム園を持っているが、そこにも買収がかかる。ラットは上級学校へ進むために、愛する村を出て行く・・・。現代のマレーシアの変貌もまた、子供の目から見えたままに描かれている。
 この続き、都会へ出たラットの物語もあるのだが、翻訳はされていないようで残念。なお息子たちは割礼の慣習にちょっとビックリドキドキしていたようだ。いまどきの子供たちは小さいうちから外国の子供たちと出会う機会が多く、海外体験のまったくない息子たちですら、これまでの友達に数カ国の子供たちが思いつくくらいだが、世界の子供たちがどんな暮らしをしているかを幅広く知るには、理屈ではなく、友達づきあいをするか、この本のように子供自身が活き活きと描かれたり語られたりする形で接するのが良いのではないだろうか。

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クロード.S.フィッシャー 『電話するアメリカ』 (NTT出版)
 テクノロジーが人々に衝撃を与えたり、逆に人々の熱望がテクノロジーを産み出したりするかのような議論は、聞いていて面白いが、心底納得させられることはほとんどない。客観的な証拠もないのに常識や思い込みで語られている仮説に過ぎなかったり、もともと証明不可能なものであったりするからだ。そこへいくと、丹念な社会史の方法は、それほど衝撃的な発見はないかもしれないが、説得的である。本書はアメリカにおける電話の普及に関する社会史研究で、かなりの大部だが、たいへん面白い。電話や自動車が、テクノロジーとして生まれ、事業化され、さまざまな偶発的なできごとや思惑がらみの政策とも絡み合いながら、人々とかかわり、時には摩擦を生みながら、落ち着くところに落ち着いていくプロセスが面白い。コンピュータやインターネット、携帯電話も、なにか根底から生活を変えてしまうものであるかのようなアジテーションが多いが、予言されたとおりになったことはきわめてまれなのではないか。政治もむやみにIT革命だなんだと騒ぐのではなく、過去のテクノロジーの普及の過程で見られたことをきちんと分析したうえで、政策を立てないと、結局公共事業に税金を垂れ流す従来のやり方と同じ、無駄遣いに終わるだろう。テクノロジーの使い手であるわれわれにとって、便利なら使うし、面白い使い道があれば使い倒すだろう。使わなければならないというレベルなら、仕方なしに慣れるのみであろうが。

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E.F.ロフタス+K.ケッチャム 『抑圧された記憶の神話』 (誠信書房)
 「抑圧された記憶」なるものが社会問題化していることは、ジョン・コートル『記憶は嘘をつく』(講談社)ウルズラ・ヌーバー『〈傷つきやすい子ども〉という神話−−−トラウマを超えて』(岩波書店)などで、すでに取り上げられているが、本書は記憶の専門家がこの風潮に巻き込まれ、自らが悪役に仕立て上げられていく過程を織り交ぜながら、こうした「抑圧された記憶」が一つのカルト現象になっている現実を突きつける。訴え、取調べや裁判のやり取りを丹念にたどりながら、カルトのみならず、宗教やカウンセリングの高い暗示性によって、幼児虐待や悪魔崇拝の記憶が「作られて」いく様がよく分かる。その恐ろしさ、そしてそれ以上に、その不条理に対して理を尽くして立ち向かうことの困難さには、想像を遥かに越えるものがある。それにしても、憎むべきモノゴトに対峙するために踏絵が作られてしまう現実は、われわれの身の回りにすでにいくらでもあり、他人事ではないのだ。

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ロバート・チャールズ・ウィルソン 『時に架ける橋』 (創元SF文庫)
 以前に『世界の秘密の扉』を紹介したことがあるが、本書はその2年後に書かれた長編。味わいは共通していて、時間旅行メインのSFなのだが、登場人物に厚みがあって魅力的、物語性も実に豊かだから、文庫本で500ページ超ながら、途中で止められない面白さがある。あまりにも小説として面白いので、典型的にSF的な出来事が起こったときに、うっかり忘れていて一本取られたような気になる。時代的な背景が自分と重なっている楽しみもある。これはお勧め。

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渡辺勝正 『真相 杉原ビザ』 (大正出版)
 以前にヒレル・レビン『千畝』(清水書院)という本を紹介した。私は某社の高校の『現代社会』の教科書作りをお手伝いしたときに、杉原千畝を見開き2ページ分のコラムで取り上げたことがあって、それが好評だったのだが、当時は杉原幸子夫人の『六千人の命のビザ』(朝日ソノラマ、現在は大正出版から新版)しかまとまった書籍がなかったので、後に翻訳されたゾラフ・バルハフティク『日本に来たユダヤ難民』(原書房)と併せて、格好の参考書と考えたのである。しかし、この『真相 杉原ビザ』によると、『千畝』は相当に問題だらけの本のようである。私自身には調査する能力はないが、本書で丹念に調べられ、指摘されている内容は、説得力があると思う。「真相」はお読みになった方々で判断されるべきであるが、昨今あたかも杉原を貶めるような言説が、さしたる根拠も示されないままにちらほらと聞かれるようでもあるので、本書はお勧めしたい一冊である。(本書を紹介してくださったM様、ありがとうございました)

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栗原彬、小森陽一、佐藤学、吉見俊哉 『内破する知』 (東京大学出版会)
 これだけの書き手が企画した知の組み換えの冒険シリーズの導入編、面白くないはずはない。ところで今、「組み換え」という語を変換していて、改めて本書の前書きを確かめてみたら、「組みかえ」とあった。この「かえる」というところにどの字を当てるかで印象がずいぶんと違ってくる。「組み換え」という語は今日明らかに「遺伝子」を連想させるが、そういうメタファを敢えて著者たちは避けたのかもしれない。そうなると、言葉といえば気になるのが「内破」である。これはいかなる意図か。implosion といえば外圧に対して内圧が耐え切れずにつぶれる印象があるが、あらためて辞書を引くと、これがまた集中する、あるいは統合するという意味もあるようだ。いったいに、彼等の知は内破したのか、はたまた統合したのか。
 しかし公害、公教育、公共の文学と言い得るであろう日本文学全集や大衆雑誌、そして公器であるところの新聞あるいは広くジャーナリズムの「起源」がこうして一望のもとに語られるならば、私にはすでに圧倒されるほどの公共の知の「組み換え」を求められる思いである。シリーズの展開が大いに期待されるとともに、大勢の執筆者の知の体系がいかにして「内破」しつつ「集中あるいは統合」していくのかがとてつもなく楽しみである。

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阿満利麿 『日本人はなぜ無宗教なのか』 (ちくま新書)
 いわゆる「日本異質論」はもとより、教科書的な「日本文化の特徴」に関して、日本の伝統的な宗教観やいわゆる「無宗教」が、ユダヤ=キリスト=イスラム的宗教と比較して語られることが多いのだが、私は従来からその様な見方には否定的だった。それは、大学の教養課程のときだからもう四半世紀も前のことになってしまう(!)のだが、宗教学の講義で創唱宗教と自然宗教というカテゴリを知り、また倫理学の講義で柳田民俗学や文化人類学のサワリを知ったときの興奮に由来する。その視点は、本書でも共通している。私は自分の講義ではさらに心理的視点から現代日本人はぜんぜん「無宗教」ではないと結論付けるのだが、本書では幅広く歴史的視点やフィールドワークからの考察が加えられている。そして、現代日本のすっかりやせ細った宗教観がもたらす深刻な問題を浮き彫りにしている。

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ウィリアム・ギブスン 『フューチャーマチック』 (角川書店)
 ベアを堪能したと思ったらギブスンである(幸せ)。さて私はいわゆるプログレッシブ・ロックが好きなのだが、プログレというと電子楽器を使うと思いこんでいる人がいるが、それは全くの間違いである。シンセサイザやらサンプラーやら、エレクトロニックな楽器など使わなくても、プログレッシブな音楽はいくらでもある。多分、プログレッシブな音楽の条件は、自由で突出した個性、緻密な超絶技巧、強引で根性のある構成力の三つだと思う。何よりもそれは音楽でなければならないのであり、この三条件が満たされればジャンルにかかわらずその音楽はプログレッシブだろうから。で、何が言いたいのかというと、サイバーパンク、あるいはポスト・サイバーパンクでも良いのだが、私にとって面白い小説の条件も、これとまったく同じなのだ。プログレにおける電子音楽のような小道具(これまで何度も言ってきた、ナノテク、バイオ、ネット空間などなど)を取りたてて強調して読んだり語ったりするのは、本質を見誤っている。いくらエレクトロニックなガジェットを使いこなして半端なビートを精確に刻んでみても、ゴミはゴミであり、ゴミが音楽になるわけではないのと同じだ。ギブスンの世界は、これ見よがしのCGだのSFXだのを使って描かれるような世界ではない。もちろん、音楽の世界で全くエレクトロニクスなしに製作しようというのではない程度にはコンピュータを使うにせよ、ぜひセットと実写で描ききってほしい、そういう世界である。つまり、『バーチャル・ライト』、『あいどる』、そしてこの『フューチャーマチック』と続いてきたこの連作、実に当たり前のように、生きた人間たちと、生々しい人間の社会の、存在論的物語なのである。今度の幕開けは、西新宿地下街のダンボールハウスに横たわるレイニーの元を、山崎が訪れるところから。あとはおなじみの人物や場所が次々と登場する。そしてなんとあの「あいどる」が・・・! すごく面白いよ! でもぜひ『バーチャル・ライト』から順番に読んでね!

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グレッグ・ベア 『斜線都市』 (ハヤカワ文庫SF)
 分裂したアメリカ、ナゾの巨大施設と結社、人工知能、ヴァーチャルなセックスの流通、急増する奇病と自死など、これでもかと投入されるSFなイヴェントやガジェットが、次第に骨太のドラマに収束していく緊迫感は壮絶。ナノテク、バイオ、ネット世界などは完全に咀嚼されて、セックスやホラーやアクションを構成する道具として物語に自然に溶け込んでいるところも文句なし。これは『ダーウィンの使者』より好きだ。ネタバレになるので曖昧になるが、某日本名作アニメの不幸バージョンとしても私には読めた。読みどころ盛りだくさんのポスト・サイバーパンク(と言うこと自体古すぎ?)の金字塔的作品。必読!

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ダニエル・G・エイメン 『愛と憂鬱の生まれる場所』 (はまの出版)
 心理臨床の現場ではともかく、心理主義と生物主義の対立は外野ではまだまだ続いているものと思われる。一般向けの啓蒙書の中には、あいかわらず極端な心理主義の本が目立つ一方、脳科学のブームに乗じた極端な生物主義の本もかなり増えている。心配なのは、何らかのケアを必要としている人が、いずれか一方の極端な信者になってしまうことである。
 その点、本書は非常に堅実なつくりになっている。書き手が医師であり、脳のSPECT画像が多用されているから、生物主義一辺倒かと見紛うが、クリニックでの臨床をもとに日常場面で活用できる豊富な認知行動技法が紹介されていて、援助を必要としている人が読んで十分に参考になり、すぐにも役に立つ本である。これはお勧め。

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フィリップ・K・ディック 『シビュラの目』 (ハヤカワ文庫SF)
 主としてディック60年代前半の、中期長編群を産み出していた時期に書かれた短編を集めたもの。さすがに堅実な書きぶりになっていて、ほとんどの作品はディックのひねりの効いた軽妙さが素直に楽しめる。地球規模の政治的イヴェントものがほとんどというのも、時代を感じさせて面白い。最後の表題作のみが75年の生前未発表作品。総じてディック入門としても勧められる作品集ではないだろうか。

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安彦忠彦編 『新版カリキュラム研究入門』 (勁草書房)
 新学習指導要領が示されて以来、学校現場ではとにかく「総合的な学習の時間」をどうするかで持ちきりである。本当はじっくりと構想して取り組まなければならないのだと思うが、限られた時間の中で独自性があり魅力的なデザインを仕上げるのはたいへんな作業であろう。しかし、こういうときだからこそ、改めて「カリキュラムとは何か?」という原点に立ち返ってアタマを冷やすことも必要だろう。「総合的な学習の時間」を、教科と絡めて企画するためには、まさにカリキュラム論が不可欠だからである。
 もちろん本書でも、情報、環境、国際理解という「総合的な学習の時間」につながるテーマが出てくるが、しかしあくまでもカリキュラム論として、それぞれの視点から課題を提示する形で論じられているのであって、ヒント集のようなものではまったくない。そして、やはり本書において圧巻なのは、カリキュラム研究史、カリキュラムの社会学、教師研究、評価研究といった、今日のカリキュラム研究の動向をまんべんなく、それでいて各論としては掘り下げて扱っている部分であろう。
 私自身は、いわゆる「心の教育」にかかわる内容がカリキュラムやテキスト・教科書や教室でどのように表出されているかに興味を持っているので、どのようにこの課題に取り組んでいくかを考えるときに、本書に示されているさまざまな視点や方法が非常に参考になる。教育研究書としては例外的なほどエキサイティング(^^;な本である。

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加藤典洋 『日本人の無思想』 (平凡社新書)
 たまたま読んだのに、政治家のいわゆる失言の扱いの違いを例にした書き出しは実にタイムリーだった。最初のほうは分かりやすいものの、やはり途中からけっこう難しくなってくるが、古今東西の多くの文献の読み込みもあるし、このテーマなのだから仕方がない。日本人のモノの考え方の特徴と言われてきたタテマエとホンネという二元論が、実はかなり新しいものであるということの実証から、公と私の意味の変遷、社会的なものはあっても公共的なものが見えてこない日本の現実に、私利私欲からの組みなおしで挑もうとするに到る過程が論じられている。解決の糸口に到るにはさらに踏み込みが必要とは思うが、ここまで広い視野から絞り込んで出てきた思想だけに、なかなかの迫力がある。

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アンドリュー・ワット 『彼らが夢見た2000年』 (新潮社)
 子どものころ、とにかく自分が大人になる頃にはすばらしい未来世界が訪れるものと信じていた。小学校に入る頃が東京オリンピック、6年生頃にアポロが月に着陸して、中学に上がった年に大阪の万博である。最初に記憶に焼きついた漫画は「鉄腕アトム」。たぶん、そのころの私の未来イメージに、アトムと並んで影響を及ぼしたのは、真鍋博画伯の描くイラストではなかったかと思う。理屈はともかく、画伯描くイラストが、夢のある未来像を膨らませてくれたと思う。
 さて、もちろん現実の世界にはアトムもいないし、真鍋画伯のイラストとは程遠いものになってはいるが、まあそれでどうということはない。きっとどの時代の人々も、未来に何らかの夢は描いていただろう、そしてそのほとんどがかなわなかっただろう、と思うからだ。それでも満足が行くとすれば、それは何かもっと自分自身に深く食い込んだところで何かが実現したからだろうと思う。それに、きっと私たちの世代は、失望に焦点を当てれば裏切られたということになるだろうが、夢としてはかなり大きな夢を見ることのできた世代だったのではないか。そして、情報通信の分野などいくつかの分野では、予想を上回る成果もあったのではないか、と思う。
 本書は、約百年前の、未来を描いたイラストを集めたもので、アイデアはもちろん愉快だが、色彩の美しいものも多く、大いに楽しめる。通信や交通に焦点を当てたものが多いのが頷ける。ほとんどそのまま実現しているので、今見ても当たり前の光景に過ぎないものもあれば、あまりにも素っ頓狂であきれてしまうものもあるといった具合。でも教育や食に関してはあまり楽しそうな未来が描かれていないのは恐ろしく、悲しい。

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