バックナンバー(97年11月〜98年3月)



木村周『キャリア・カウンセリング』(雇用問題研究会)

副題に「理論と実際、その今日的意義」とあるとおり、本書はキャリア・カウンセリングについての包括的な解説書である。少なくとも「キャリア」と言い「カウンセリング」と言う以上は、「理論」と「実際」と「意義」を押さえているべきであるのに、従来の関連書にはどうしてもどこかに不十分な点が見られた。本書は決して大事典のような本ではないにもかかわらず、資料とトピックス、さらに参考文献も豊富である。また高校、高専、短大、大学、専門学校、企業、・・・どの立場で読んでも役に立つ。

そもそもいわゆる「カウンセリング」のルーツの一つが職業指導であったことは、カウンセラーの間ではともかく一般には意外に知られていない。高校などでも生徒相談の担当者を進路指導の分掌に置くことが、広く行われ、しかも成功した例が多い。逆に言えば、カウンセリングが行われないような進路指導は、進路指導としては片手落ちなのである。単なる「就職斡旋」や「偏差値ランキング」以上の進路指導をしようと思ったときに、本書は基本的な考え方を巧妙に手ほどきしてくれる。広く読まれるべき本だと思う。なお同じ題名の本がいくつかあるから、ご注文の際にはご注意を(^^)。

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竹内整一『日本人は「やさしい」のか』(ちくま新書)

ことばの意味や使われ方が、世代によってずれてきていて、世代間のコミュニケーションがギクシャクして腹立たしかったりむなしかったりすることは、教師や親という立場では、よく経験することだと思う。でも逆に考えてみれば、そういうことばこそが生きている言葉である、と言うこともできる。どの世代にも必要な言葉だから、意味の変化に心動かされるのであろうから。「やさしさ」というのも、そういうことばの一つだろう。

本書の副題は「日本精神史入門」。第一章は現代のヒット曲に使われている「やさしさ」の分析から入る。私などはこの方面にはとんと疎いので、いささかめんくらってしまうが、ヒット曲を使ったのは単に一般の読者の取っかかりをよくするためではないことにすぐに気づかされる。尾崎豊の歌を「やさしさ」をキーワードに分析していくと、太宰治につながっていくありさまなどは実に説得力がある。ついで第二章では、古代から現代に至る「やさし」の用法が、豊富な引用とともに精緻に分析される。これらを踏まえて、第三章では「やさしさ」の倫理学が展開される。

今日、傷つきやすさ、そしてそれと裏腹の社交術としてのやさしさが取り上げられることが多いが、本書は、無常観を透徹したところに立ち現れてくる「やさしさ」に生き方の可能性を問い、共感としての「やさしさ」が人間の尊厳や自然との根源的なつながりに結びつくという手がかりを与えてくれる。

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飯田経夫『経済学の終わり』(PHP新書)

スミス、マルクス、ケインズの3人の経済思想を検証するというスタンスだが、『アダム・スミスの失敗』入門編とでも言うべき内容で、日本の現在の経済情勢を踏まえて論じられているので、分かりやすい。

アダム・スミスは、金もうけを不道徳なことと信じ込まされて、大土地所有者に支配されていた民衆を解放した。勃興期にあった商工業者を力づける考え方であった。しかし、金もうけを無条件に肯定する姿勢のみが抽出され、自己目的化することによって、いわば資本主義の「狂気」をもたらした。マルクスはこれを的確に批判したが、共産主義・計画経済の破綻によってその批判の的確さが忘れられている。ケインズ主義と福祉国家は、資本主義・自由経済を存えさせる大きな功績を残したが、大衆民主主義による財政均衡の破綻によって、その功績までもが葬られようとしている。こうして、筆者は経済学が「二百数十年の徒労」に終わったのではないか、と語る。

日本にはそれでも道がある、という意見を筆者は持っているようである。もともと日本は基本的には現在も豊かである、という立場に立っていて、だからこそ安易にアメリカ産の「規制緩和」論に乗っかってはいけないと主張する。が、製造業には目立った不祥事はない、というくだりは、大手メーカーの総会屋との関係が明らかになりつつある現在、一般論として通用するかどうかは微妙なところもある。失業率も、まだまだ低いとは言え、最悪の水準に来た。しかし筆者がほのめかしているように、「拝金主義」・「レーガン・サッチャー・中曾根主義」はダメなのであって「信頼」が生きるシステムがきわめて重要なのだという示唆に関しては、私もまったく同じ意見である。

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ウィリアム・ギブスン『あいどる』(角川書店)

原題は "IDORU" 、文字どおりニホンゴの"あいどる"である。最初の長編『ニューロマンサー』(早川SF文庫)でいきなり千葉を舞台にしただけのことはあって、最新作では舞台はズバリ東京。すでに偶像化されたミュージシャンが、最初は偶像であった"あいどる"と結婚しようとする一方で、その真相を確かめようとしたファンクラブの女の子は禁制のナノテクの運び屋に利用され、追い詰められていく・・・。アイドルにおたくに女子高生に秋葉原にラブホテルにポカリスエットに風俗のチラシ・・・と、現代日本都市文化のガジェットが巧妙に配され、大地震の洗礼を受けた近未来の東京を構成している(独楽回しの流行が意外にエキゾチック)。前作『ヴァーチャル・ライト』と共通する登場人物もいるが、あまり気にする必要はない。むしろ前作の舞台のサンフランシスコと同じように大地震後という設定の共通性、巻き込まれたとんでもないトラブルを気丈な女の子が乗り越えていく現実感と、サイバースペースと近未来都市の間を往来する人々の存在の曖昧さとの対比に、ギブスンらしさが出ている。電脳アイドルの設定が今どき新鮮味がないというような書評も目にしたが、そんなレベルのことはこの物語の構成要素の端緒に過ぎない。そこから先の、疾走感のある語り口とサスペンスに満ちた展開がとにかく面白い。

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野町和嘉『メッカ巡礼』(集英社)

著者はサハラ、ナイル、チベットなどの写真ですでにたいへん大きな業績をあげている人だが、この写真集はそれにもまして感動ものである。この写真集のことを知ったのは、『季刊民族学』に特集されていたからである。この季刊誌は国立民族学博物館のいわば広報誌で、いつもビジュアル的にすばらしい写真が多いのだが、それにしても「メッカ巡礼」は群を抜く、驚くべきものだった。野町氏は四半世紀もイスラム世界を取材するうちに、ムスリムになってしまった。そして、異教徒には入り込めない聖地巡礼の取材を、しかもサウジアラビアから依頼されて徹底的に行ったのである。

例えばこの写真集の表紙カバーの写真を見てみる。ああ、カアバ神殿ね、と分かる人は多いだろう。しかし次の瞬間、背景を文字どおり埋め尽くしている巡礼者たちの整然とした礼拝と、タワーフの人の流れに気づくと、私などは言い知れぬ何かの力に触れたような気がして、全身が粟立つのである。「世界史」の教科書に小さく写っているあの同じ神殿なのに、「こんな写真、見たことない!」のである。メッカやメディナの写真なのではなくて、ムスリムが生きるということの写真なのである。

サイイド・ホセイン・ナスルによるイスラームについての解説も充実している。イスラームに少しでも関心のある人にとっては、5,700円と決してお安くはないが、必携書であるし、あまり関心のない人にも「ぜひ見てみて!」と言いたい写真集である。

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ジョン・コートル『記憶は嘘をつく』(講談社)

この本は、下の『〈傷つきやすい子ども〉・・・』と同じようなテーマを扱っている。同じような引用もあるくらいである。しかし、先の本がジャーナリスティックで攻撃的な本であったのに対し、この本は格調高く、感動的な作品である。心理学者である著者の言葉を直接引用すれば、

(引用始め) ・・・私たちは、幼いときの記憶がいつごろのものであって、それが正確かどうかに興味をそそられるが、本当に重要なのは記憶に込められた意味なのだ。・・・ (引用終り)

人間の記憶がどのようなものであるかについて、著者は最新の知見と豊富な事例を挙げて分かりやすく説明する。そこでは確かに、先の本の主題でもあり、本書の邦題でもある「記憶が嘘をつく」ことが重要な鍵になっている。しかし、著者の主たる関心は、その先にある。それは、人々が記憶を自分の人生の物語として作り上げていくことの大切さなのである。

本書の原題は "White Gloves" 、著者の記憶の中に生き続ける、祖父の「白い手袋」である。著者の祖父はハンガリーのクラリネット奏者であったが、アメリカに渡ってからは家族を養うためにレンガ職人になった。その時に、楽隊の制服の一部であった「白い手袋」は、クラリネットとともにしまい込まれ、祖父は二度とそれを手にすることはなかった。このエピソードで始まる本書は、アルツハイマーにかかった著者の父親と釣道具のエピソードで終わる。著者自身や、家族の人々の、こうした物語のみならず、著者が研究している実に多くの人々の自伝的記憶が、暖かい目で取り上げられている。

こうしてみると、重厚で温かな本書の味わいを、邦題は台なしにしているし、巻末の町澤静夫の「解説」はあまりにおざなりである。センセーショナルなタイトルや有名人の名前で客を引くのは、ある程度は仕方ないにしても、本書の場合ちょっと落差が大きすぎたと思う。それだけこの本は、豊かな情感に満ちている。翻訳も良質だと思う。分類は「お勉強!」にしたけれども、学術的でありながら感動的な本というものもあるのである。

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ウルズラ・ヌーバー『〈傷つきやすい子ども〉という神話−−−トラウマを超えて』(岩波書店)

この本の前半は、フロイトのトラウマ理論の生かじりによるむちゃくちゃなセラピーまがいに対する批判である。フロイト自身早い時期に、クライアントのトラウマの「記憶」には、事実に反するものが現われることに気づいたことはほとんど常識である(と僕は思っていた)のに、このようなことに何故にこれほどまでに激しくプロテストしなければならないのか、というぐらいに、「トラウマ理論生かじりセラピーまがい」が横行しているらしいのだ(それに訴訟社会のアメリカで下手くそな「セラピーまがい」なんかやったら一発で訴えられるぞ、というのも常識だと思っていた(^^;)。本書にもこれへの批判者として登場するエリスやグラッサーの理論や技法の方が、僕などにはむしろ親しみがあるので、まずその辺が強烈であった。

とはいえ、日本でも、筆者の言う〈子ども時代〉に何ごとも原因を押しつけて、現在の自分に責任を持とうとしない発想を助長するような風潮は、なきにしもあらずであろう。本書の後半部分は、そのような社会的視点が語られ、こちらの方は一々頷かされる、筋の通った論考になっている。例えば、みんながみんな自分は「アダルトチルドレン」だと思い込んでしまう、なんてことがどうして起こるのか、といったことである。

なお、「トラウマ」は広く「傷」という意味で使うし、「こころの傷」という意味でもフロイト的な無意識への抑圧とは無関係に用いられている。そして、大災害や残酷な事件に出会った後のPTSD(心的外傷後ストレス障害)のケアを「トラウマ・カウンセリング」と呼ぶことがあり、こちらの方は、むしろ重要性が強まっている分野なので、くれぐれも本書で出てくる「トラウマ療法」と混同しないようにしたい。

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諸富祥彦『カウンセラーが語るこころの教育の進め方』(教育開発研究所)

先月に引き続いて、諸富先生の登場。そういえば『〈むなしさ〉の心理学』(講談社現代新書)という本も最近出されたようだ。「こころの教育」とはあまりにもタイムリーなタイトルなので、まるで文部省というか内閣ご推薦みたいな本か?などと誤解してはならない(いやむしろ逆に、こういう本を文部省も首相も推薦すべきなのだが(^^;)。理論部分は従来と同じく、実存分析やロゴセラピーの影響が強いと思う。本書が優れているのは、とてもコンパクトな本であるにもかかわらず、「むなしさ」をめぐる理論部分に加えて「人間関係能力」向上のための実践例と提案も豊富であるところにある。もの足りなければ、紹介されている人や著書に当たればよい。そういう意味でこれは、広い意味で教育に疑問や問題点を抱えている親や教師にとって、格好のガイドブックであると言ってよいと思う。

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ブルース・スターリング『グローバルヘッド』(ジャストシステム)

言わずと知れたサイバーパンクの旗手、スターリングの短編集。しかしこれを読むと、彼に「サイバーパンクの」という形容はもうとうに不要だったことを思い知らされる。彼の手にかかると、アメリカ人も、ロシア人も、ムスリムも、電話機強盗も、ロック評論家も、それぞれあまりにもそれらしい生き方を与えられながら、その存在する現実を少しずつねじ曲げられているうちに、とんでもない出来事の中を何気なく過ごしていて、それを読者は眺め続けることになる。このズレていく感じは、たとえばディックのような、現実が溶けていくような感覚とは違って、ズレてしまったそれがあくまでしっかりとした現実であるところに特徴があると思う。その典型が、バベッジ式蒸気計算機を中心とする蒸気情報ネットワークすら登場する、ウィリアム・ギブスンとの共作、あの大傑作『ディファレンス・エンジン』(角川書店)であった。

どれが面白い、とは到底言えない短編集である。どれを読み落としてもいけない。すべてを読むことで、すべてがばらばらになる快感が味わえる。絶妙。

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スティーヴン・バクスター『タイム・シップ(上)(下)』(早川SF文庫)

「タイム・マシン」といえば、もちろんH・G・ウェルズである。本書はその「続編」という設定で、ウェルズ以降さまざまな作家が取り組んだタイム・トラベルものSFのアイデアを踏まえ、かなりラジカルに展開する作品である。下巻の途中まではとにかくいったいどうなってしまうんだろう、というくらいに、話はどんどん広がっていく。そして、実にスケールの大きなオチにつながっていく。タイム・トラベルものとしては、アイデアの大きさと包括性で傑作だと思う。ウェルズファンには、ウェルズの作品からのさまざまな引用が楽しめる(らしい(^^;、後書きによると)。

余談めくが、「ウェルズもの」(というジャンルが成り立つかどうかは分からないが)としてはクリストファー・プリースト『スペース・マシン』(創元SF文庫)、ドラマ性の高いタイム・トラベルものとしてはコニー・ウィリス『ドゥームズデイ・ブック』(早川書房)が私の絶対のオススメです。

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高史明『生きることの意味』(筑摩書房)

調べてみたら今はちくま文庫にも入っている。僕が持っているのは「ちくま少年図書館」シリーズのもので、1983年の第25刷(初版は1974年)。社会科教師が勧める本の定番中の定番。僕もこの本をある学生に読んでくるように言おうと思い、読み返しているうちにやはり熱中してしまったので、今更ながらではあるがここに書いておこうと思ったのである。

前に読んだときは多分、まだ独身のうちだったと思うが、今は自分にも息子が二人いるので、「父」の思いがとても切ない。もちろん、自分は恵まれた環境にあって、父親としておかれている物理的条件は比較にならない。しかし「父」や「兄」や、もちろん著者本人が「かわいそう」だとか、そういうことではなく、彼らの思いそのものが、あらゆる読み手にしっかりと伝わる。そういう本である。

ところでかの学生に渡して感想を書くように言ったときの条件は、「要するに差別や戦争はいけないことだ、というオチにしない」ということである。もちろん、民族差別や戦争の悲惨を軽視しているわけではない。ただ、単に本一冊を読んで感想文を書くように言っただけでは、「差別や戦争はいけないと思います」で終わってしまうことが多い。そのことは踏まえた上で、その奥に何を読み取るのかを問わないと、この本を読んだことにはならないと言いたいのである。僕はよくこういう条件付きの出題をするのだが、このやり方を研究会などで発表すると「押し付け」だと批判する人が多い。それはもちろん、その通りなのである。時間をかけて、じっくりと、あらゆるテーマに取り組ませることができれば、このような方法を僕も採らない。採る必要がないからである。採らなくても「奥にあるもの」に気づくだろう。けれども、そういう条件が整わないところで、なるべく多様なテーマに触れ、かつある程度読みを深くするには、何か条件を提示したほうがよい、というのが僕の方法論である。

・・・と、ちょっと話がそれてしまったが、何はともあれ、学生さんにはぜひ読んで欲しい本である。

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布施英利『美術館には脳がある』(岩波書店)

著者は芸大で芸術学を修め東大で養老孟司のもとで解剖学を研究したらしい。雑誌論文等を大幅に加筆修正してまとめたものだが、タイトルからもうかがわれるように「唯脳論的美術論」とでもいうべきものになっている。

例によって私の個人的経験だが、学生時代に「仏像の見方」の講義をとった。なぜそんなものをとったのか、今となっては思い出せないのだが、スライドを見ながら仏像の作りについて丁寧に解説してくれる講義で意外に面白く、高校教員になってからは修学旅行で奈良・京都を回ったときにそれが案外役立ったのを覚えている(もうずっと行ってないなあ・・・)。いっぽう私は本書でも取り上げられているマルセル・デュシャンがなぜか好きで、これまた大学に当時デュシャンの解説などで知られていた美術評論家の東野芳明が講演にやってきて、デュシャンの「大ガラス」を読み解くのを聴いたこともあった。その時以来思っているのだが、「唯脳論」からすれば美術や音楽は脳で創作され脳で見聞きするのだから当たり前なのだが、美術や音楽には見方や聞き方が「分かる」ということが確かにあって、それが「分かる」と世界が変わることがある。これはすばらしい体験である。この本も、そういう体験の片鱗を味わわせてくれるものであると思う。面白かったです。

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國分康孝『エンカウンターで学級が変わる・中学校編』(図書文化)

「構成的グループ・エンカウンター」とは、簡単に言えば、グループで取り組むいろいろなエクササイズを実施して、グループ体験を分かち合い(シェアリング)、自己理解や他者理解を高め、よりよい人間関係を作り上げていこうとするものである。開発的カウンセリングとして、その高い効果が注目され、研究も多く、最近ではよく知られるようになったが、その紹介と普及に貢献されたのが國分先生である。

本書は國分先生の監修、片野智治先生の編集でまとめられた、中学校の学級担任向けのガイドブックであるが、もちろん高校や高専でも多少のアレンジを加えるだけで十分に利用できる(第一章で概説を書いている片野・岡田両先生も、高校の先生である)。小学校編もある。またより広く応用的なエクササイズを多数収録した Part 2 も発行された。

概説を理解した上で、インストラクションとシェアリングに十分配慮することが重要であるが、一つ一つのエクササイズはだれにでもできるようなものが多いので、ホームルームや合宿・研修、保護者会などがマンネリで、何か新鮮なネタを探している先生方には、ぜひお勧めしたい(実施にあたっては学生相談室もご協力します)。私自身、4学年の「心理学」の講義で、エンカウンターの実習を(ほんの少しだけだが)するときに参考にさせていただいている。また、まとまったエンカウンターの体験をしたい学生さんはご相談ください。宿泊研修などもあります。

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フィリップ・K・ディック『ライズ民間警察機構』(創元SF文庫)

この小説は、初めてディックを読む人には決して勧められない。それどころか、そもそもストーリーが完全に破綻している。しかし、ファンにとってはこたえられない作品で、娯楽向きの文庫本でよくぞこんなものを出してくれた、というほどとんでもない作品である。いきさつは解説に詳しいが、もともと雑誌の表紙絵に合わせた内容(!)の中編を依頼されて執筆した、まったくの原稿料稼ぎだけのための作品があって、その長編化を依頼されて書き足したものの編集者の気に入らずお蔵入り、しかしさらに大幅に加筆・修正を繰り返しながら途中で放棄、著者の急死によって未完成のまま残され、それに新発見の断片やらスラディックによる加筆やらが加わって・・・、要するに、分量は相当量まとまっていて、話の筋はおおむね分かるのだが、一つ一つのエピソードのつじつまはかなり合わないままの未完成作品なのである。本作のいわば別バージョンが、かつてサンリオSF文庫から翻訳されていた『テレポートされざる男』である。・・・それにしても死後ここまで書誌学的に興味をもたれるSF作家は他にいないのではないか。私の論文も書きかけでほったらかしだったり、断片やデータは溜まっているのにまとまらないものばかりだが、こっちは誰も興味を持ってくれないよなあ(ちゃんと仕上げろよ>自分)。

物語の展開、登場人物の特徴や名前、小さなアイデアやガジェットは、まさにディック調。ディック自身、ここから他の小説に転用したアイデアがいろいろあると言っている。長篇化のときに書き加えられた部分は、主に現実崩壊感覚に満ちた個所で、これはもう中期以降のディックの小説の醍醐味である。面白いことに、これに巻き込まれていくと、小説としての破綻がかえって心地よい浮遊感覚を増していくことに気付く。まさにこの継ぎ接ぎの小説の構成が、小説の中で設定されているパラレルワールドの重なりに加えられていき、読み手は書かれていることを越えた無限大の可能性、書き手が死んでしまったために確定されないままの物語をさまざまに語らせ続けることができるのである。そういう意味では、この破綻した小説の存在そのものが画期的であるといえる。

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佐藤達哉『知能指数』(講談社現代新書)

ビネの知能検査は、もともと発達の遅い子どもを早期に発見して、適切な教育を施そうとして作られたものだった。それは恣意的に「頭のよさ」を決め付けることを防ごうとしたものであるし、また知能は不変のものではないのだから適切な教育によって発達を促すことが重要と考えていた。しかし、すぐに知能検査は一人歩きをはじめ、さまざまな差別を正当化するための道具として使われる・・・。本書はその過程を、豊富なエピソードや図版を紹介しながら論じている。著者の専攻の一つは「心理学論」である。心理学そのものを専門家以外にもわかりやすくクリティカルに論じる本書は、重要な一冊である。

人間の見方を根本的なところから考え直すためにも役に立つ本である。エピローグの学生の話は、ほんとうに感動的である。

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ルイス・シャイナー『グリンプス』(創元SF文庫)

これはちょっと変わった味の小説だった。世界幻想文学大賞受賞作でかなりの大作。1960年代ロックのいわゆる「幻の名盤」を作り出してしまうことのできる能力に目覚めた、30代後半の主人公の話。前半はドアーズやビーチ・ボーイズの幻の名盤が出現する、一風変わったタイムトラベルもの、というところ。しかしジミ・ヘンドリックスの延命に失敗するあたりから、主題は主人公の癒しに移っていく。解説を読むと、もともと二つのアイデアを一本にした作品ということである。1950年生まれのシャイナーの自伝的要素もある。

僕(58年生まれ)は、60年代ロックは後追いで結構聴いてはいるが、「音楽室」に書いたように、70年代のプログレ者である。ドアーズやジミヘンはそこそこ聴いたが、ビーチボーイズはほとんど聴いていないので、本書に出てくるようなエピソードは新鮮だった。詳細な巻末の訳注や訳詞も楽しめるし、特に若い読者には親切。しかし、60年代のカウンターカルチャーを世代的に共有していないので、ウッドストックであれオルタモントであれ、醒めた目で見ざるをえない歴史的事件であるという現実は、どうしても主人公の思い入れから読者である僕を一歩引かせる。

後半はほとんどが家族(とりわけ父と息子)と癒しの物語になる。ハッピー・エンドであるが説得力があるし、嫌みなところもない。読後感としては、ベビーブーマー世代の生き方を考えさせられたところが一番大きく、前半部を支えたアイデアが最後まで突き抜けていくような、わりと単純なエンターテインメントとして読める話も読みたかった、という思いが拭い切れない。しかしながら、かなり熱中して読めたことは確かである。世代は違うが、年齢は僕と主人公はほぼ同じであり、おかれた環境はまったく違ってもライフサイクル的に立ち向かうべき課題は本質的なところで共通するせいもあろうか。

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J.O.アームソン『アリストテレス倫理学入門』(岩波書店)

私の卒論は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』だった。卒業後十年以上経ってから、ある機会に私の一回り上の先輩、某大学の倫理学の教授と、卒論の話になった。「和田さんは、何やったの」「ニコマコスです。読むだけで大変でした」「そんなに長くもないでしょ?」「そうですが、何せギリシア語が・・・」「え?原語でやったの?そりゃ大変だ」「・・・?」どうも、卒論は必ずしも原書を通読するまでの必要はなかったようなのです。そんなことは当然の前提、私もとうに知っていると思っておられたであろう指導教官と話し合うよりも、はるかに多大な時間を西洋古典学のゼミや特講に紛れ込んで費やして、おのれの浅学菲才を嘆きつつ、卒論でアリストテレスをやるまでの古代ギリシア語の力を身につける道の遠さに、あっというまに過ぎた学部時代・・・。もちろん、専門もあれこれと移ろっている今となっては、あれほど苦労した古代ギリシア語やラテン語は、どこかに飛んでいってしまいました。しかし、私は古代ギリシア思想が今でも大好きです。ちなみにうちの長男(10歳)に「お父さんが大学で勉強したのは、ギリシアの哲学なんだよ。ソクラテス、プラトン、アリストテレス・・・」と説明したら、彼は友達に「僕のお父さんは大学でソプラノテストを勉強した」と説明していた。うーん何だそりゃ。

しかし本書を読むと、言葉や文化の違いを可能な限り乗り越えるために、原語の意味を探りながら読んだことの重要性が説かれていることに、まずうれしくなる(ただ、それに取り組むには私はあまりに非力だったのだが)。そして久しぶりにニコ倫を読み返しながら、本書のようなガイドブックがあれば、また新しい、あるいは深い解釈が、当時の自分にも可能であったろうか、などと思い返してみたりもする。ちょっとセンチメンタル。

というようなわけで、本書は「ニコマコス倫理学」を読みながらひもとくべき本である。そうすることによって、両者の味わいがいっそう増す。もともとアリストテレスはプラトンに比べて「面白い」と感じるのが難しいので、こういう本は初学者には欠かせない本であるといえるでしょう。

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