バックナンバー(00年4月〜6月)




クリストファー・プリースト 『イグジステンズ』 (竹書房)
 映画がらみの本をもう一つ。クローネンバーグの脚本をプリーストがノヴェライズした作品。クローネンバーグの映画は実際に見ることはほとんどないのだが、プリーストは私の大好きな作家なので、ちょっと期待して読んだ。脊髄直結のゲームマシンの世界が現実と入り混じるというアイデアにはあまり新鮮味はなく、最後のどんでん返しまで引っ張るのは多分、映像の力なのだろう。SFXアクションとして映像を想像して読めばそれなりに楽しめるのは確かだが、プリーストの作品として読むのは、正直なところ、ちょっときつい。

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K. W. ジーター 『ブレードランナー2』 (ハヤカワ文庫SF)
 原作と、映画と。その双方が、それぞれ独自のあり方で偉大であるというのは、なかなかないことだと思う。あの2001年もその条件からははずれ、かろうじて私に思いつくのはソラリスくらいである。それにしても、ブレードランナーの評判はあまりにも大きいので、その続編なるものが、原作者を失って、果たして成立するかどうかというのは、なんとも大きな疑問だった。
 しかしここにジーターという手だれの書き手がいたことは、奇跡のような状況だったかも知れない。ディックとのつながりもさることながら、その職人芸のような作風が、電気羊が強力わかもとを反芻しているかのような味わいの続編を編み出した。
 もちろん、ジーターは非常にうまいので、ディックのように書きぶりの危うさがそのまま存在の危うさを指数級数的に増していくような妙味を生み出すことはないのだが、それを物足りなさととらえそうな気持ちをぐっと押さえさえすれば(そうする気のない人は、読んで貶すよりは最初から読まないほうがよいでしょう)、デッカードはじめ登場人物はすぐに読み手の中に入り込み、あの映像の記憶とともに動き出し、読み手を大いに楽しませるだろう。

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椎名誠 『みるなの木』 (ハヤカワ文庫JA)
 息子が通っている学校の校長先生が、椎名誠の高校時代の恩師という縁で、学校の講演会をお引き受けいただいて、とても楽しいお話を伺うことができたことがあった。私は「国分寺書店」以来長らく愛読していたし、「本の雑誌」も欠かさず読んでいた。しばらくなぜか読まなかった時期があるのだが、先日、ふらりと立ち寄った図書館で、久しぶりに『もだえ苦しむ活字中毒者の味噌蔵』を途中から読み耽ってしまって、また取り付かれたかもしれない。この作品集も、出張のお供を物色中につい目に入ってしまって買ったのだが、大いに楽しめた。異世界を描く作品は、ジャンルSFにもずいぶんあるのだが、椎名誠の描く世界は、何かしら自分が夢で出会ってきたような親しみがあるのが不思議である。どうしても自分としては「幽霊」「漂着者」「対岸の繁栄」などのオチのあるものや、「突進」のように展開が勢いのよいものを、特に面白く感じてしまうが。「漂着者」は椎名版ソラリス、「突進」は椎名版走る取的とでも言うべき面白さだ。

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ジョーエレン・ディミトリアス 『この人はなぜ自分の話ばかりするのか』 (ソニーマガジンズ)
 私は選択の「心理学」の講義を持っているが、「他人の心が読めるようになりたい」という動機で心理学を選択する学生さんも毎年少なからずいる。必ずしもそういう話ばかりしているわけにもいかないので、そういう学生さんにはこの本を薦めることにしようと思う。副題が「こっそり他人の正体を読む法則」、原題が "Reading People" 、まさにそういう本である。著者の職業は、心理学者でも医者でもなく「陪審コンサルタント」。これは裁判の陪審員の採否を決めるとき、クライアントの要請でアドバイスを与える仕事である。著者はその第一人者、まさにギリギリの状況で人を見分けてきたその的確さは、アメリカの裁判の世界でも折紙付き。こういう本を読むと、かつてのデカルトの指摘を思い出しつつ、とりわけ学者の書いたもののお気楽さを感じさせられないでもない(^^;。でもこの人間観察法は、いたって実用的である。私も仕事柄、たいがいのことは思い当たるが、何箇所か「これは気づかなかった!」とひざを叩くようなネタも。なかなかおもしろいけれど、学生さんたちがこれを参考にして私の様子を観察するのも困るかも(^^)。

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上尾信也 『音楽のヨーロッパ史』 (講談社現代新書)
 あとがきにもあるけれども、学校での音楽教育を振り返ってみると、音楽はバッハから始まったような感覚を持っていたが、西洋史の中ではバッハなどほんの最近のヒトだ。大きな歴史の中ではまた、音楽は芸術というよりは現実の政治と密接に結び付いてもいる。国旗国歌の問題は、そういう音楽の様相をあらわにしたことも否めない。本書は、詳細な歴史とのかかわりの中で音楽の文字通りの「役割」を論じていて、あらためて音楽とは何かを考えさせられる。

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國分康孝・中野良顕 『教師の育てるカウンセリング』 (東京書籍)
 学校とカウンセリングとの関係を捉えなおす上で今までになかった、必須の書。臨床心理士としてではない学校カウンセリングの必要性を明確に説いているし、また抽象的なお題目に走りがちな「心の教育」を、開発的カウンセリングの視点から具体的に位置付ける上でも大いに参考になる。外国の例も扱われていて、カウンセリングと学校・教師との関係を相対的に捉えることもできる。

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グレッグ・ベア 『ダーウィンの使者(上)・(下)』 (ソニーマガジンズ)
 DNA、ウィルス、進化あたりのネタは、SFの世界ではもうよほどのことがない限りインパクトを与えることはできそうにない、と思わせたのは、ほかならぬベアの『ブラッド・ミュージック』だった。もうこのネタだと何が起こってもおかしくないわけであって、生じる出来事をいかにしてもっともらしく見せるかが、作家の技の見せ所。ベアがあらためてこれらのテーマに挑んだこの大作、緻密な取材と構成でそこは難なくクリア、話の展開は見事だし、登場人物も魅力的だしで、たっぷりと楽しませてくれる。ちょっと半端な感じの落ち方もベアらしさかもしれない。

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西原理恵子・鴨志田穣 『アジアパー伝』 (講談社)
 続いてこちらは、西原理恵子とその夫で報道カメラマンの鴨志田穣の夫婦合作ドキュメンタリー・エッセイ&コミック。小林紀晴の「アジアン・ジャパニーズ」を読んだときに、日本に帰れなくなった日本人のことを私は知ったのだが、こちらはそういう人生やできごとばかりがぎゅうぎゅう詰まっていて、ものすごく恐ろしくも悲しい。恐ろしいというのは、たぶん自分の生きている世界がほんの薄紙一枚でそちら側と隔てられているに過ぎないことから来るのだと思う。悲しいというのはそれでいてなおその薄紙一枚がとてつもなく大きな違いをもたらしていて、自分は決してそちら側には行くまいと怯んでいることに気づかされることから来るのだと思う。すごく可笑しいところもあるのだけれど、どちら側にいたとしても結局、たいがいのことは笑って済ませるしかないということに気づいて、またふとやりきれなくなったりもするのだ。。

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西原理恵子 『できるかなリターンズ』 (扶桑社)
 やはり買ってしまいました、『できるかな』の続編。笑いと涙と驚きと緊張の作品集。ところで私は高専に勤めているのだが、高専と言えばNHKのロボコンというくらい、「ロボットを作る」というのは密かに人気のあることらしい。西原チームがロボット相撲に参加する、というのが最初のテーマで、これがまた「何でそうなるの?」という展開がいつもながらすごい。たとえばこの話の流れでなぜ高須クリニックがでてくるのか、とかですね(^^;。他にもいろいろ。こんどの付録はちょっと難しそう。 

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グレッグ・イーガン 『宇宙消失』 (創元SF文庫)
 一言で言えば、量子力学SF。バブル、モッドといったオブジェが面白いので、前半かなりいけるのだが、ネタバレになるのであまり詳しく書けないが量子論が人間的な要素と触れ合う展開になるので、いずれもが中途半端に思えて、奇想天外ではあるがやや腰砕けに感じないでもない。もっとも、この後に傑作『順列都市』が書かれているのだから、本書はその前哨とすれば十分納得のできる作品である。

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竹下節子 『カルトか宗教か』 (文春新書)
 フランスで比較文化学を研究しカトリック史などを専門とする著者によって、現代のカルト事情やカルトの見分け方などについて分かりやすく書かれた本。私も授業でカルトを扱うが、もっとも気を遣いながらなかなか手ごたえが感じられないのが、カルトのカムフラージュの扱いである。カルトに入るつもりで入る者はまあ普通いないのであって、それがカルトだと思わないで入るのであるから、カムフラージュと見分け方について多くの章を割いた本書は、カルトにはまりそうになっている若い人に勧められる参考書でもある。フランスの実情も詳しく、参考になる。

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ロバート・J・ソウヤー 『フレームシフト』 (ハヤカワ文庫SF)
 これは傑作である。スリル、サスペンス、ロマンス、現代史、バイオテク、人間愛、家族愛、マッドサイエンティスト、超能力、などなど盛りだくさんの素材が、みごとに料理されている。遺伝子工学の問題を、きっちりと科学的に押さえながら、ここまで重厚なドラマに織り込んだ作品は、多分、他にはないと思う。楽しみながら考えさせられる、すばらしい小説である。お勧め。

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ロバート・チャールズ・ウィルスン 『世界の秘密の扉』 (創元SF文庫)
 難しい名前も覚えにくいが、この作者の名前もなかなか覚えられない(^^;。超能力者として生まれた姉妹たちやその息子が、それまで避けつづけてきた、自分たちを脅かすものと向き合い、戦う。超能力と並行世界という古典的なSFテーマだが、端正な描写と奥行きのある人物像で、じっくりと読ませる作品になっている。長女のカレンとその息子のマイケルの、成長と自立の物語としても読めるし、親子や姉妹間の葛藤も考えさせられる。

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柄谷行人 『倫理21』 (新潮社)
 帯の宣伝文句や、扱われる問題だけを見れば、ありがちな教育論や戦争責任論と誤解されかねないが、これはカント倫理学のラジカルさを分かりやすく論じ、その思考を現代の日本の状況に摘要した作品である。たぶん、倫理的に考えることや、もちろんカント倫理学を、知り、使うためには、現在最良のテキストではないだろうか。権利や義務を無定見にあげつらい、真の自由が脅かされる現在、自由と責任の本質に迫る本作の思考は重要な仕事である。たいへん平明に書かれているので、読み終わるまではあっという間だが、繰り返し読んでは現実の問題群にあてはめて考えたくなる本である。必読。

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J. ハーバーマス 『近代 未完のプロジェクト』 (岩波現代文庫)
 現代の思想家としてはもっとも影響力がある一人といってよいであろうハーバーマスの、ドイツ統一以降の情勢下での政治論集。私には必ずしも現代ドイツの情勢が分からないので、最初のうちは非常に読みにくい感じがしたが、読み進むにつれて大いに納得させられ、ある種の興奮を覚えた。ハーバーマスが取り組んでいるのは、わが国の政治・思想状況にも極めてよく呼応する問題群なのである。私がずっと感じている、最近のいわゆる「自由主義史観」の主張に対する違和感(いわゆる「自虐史観」によってゆがめられた歴史認識を解放するというあたりは、煽情的な言葉遣いに不快感はあるものの、いま少し客観化すべき側面があることは分からないではないという気にさせられるが、しかし誇りがもてるような歴史教育を、というあたりになると、どこが自由主義なのか、むしろかの煽情的な言い回しにこそ本来の意図があるのではないかと思えてくるという)は、ドイツにおいてはもっとも先鋭的に事件化しているわけで、その状況に対してハーバーマスが様々な出来事をとらえて批判を加えているこの論集は、たいへんに刺激的である。民主主義とは何かをきちんと考えずに、集団性によって誇りを支えさせようとすることの胡散臭さは、イデオロギーの如何を問わず同じであることに、あらためて気づかざるを得ない。これは歴史の問題なのではなく、社会心理学の問題である。なお三島憲一先生の翻訳も解題も、実に懇切で理解を助けてくれるところがありがたい。

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