バックナンバー(00年10月〜12月)




ロバート・J・ソウヤー 『ゴールデン・フリース』 (ハヤカワ文庫SF)
 長らく品切れだったソウヤーの処女長編の翻訳がようやく増刷。宇宙旅行都市計画の一万名あまりの乗員をのせた宇宙船を制御する知性を持ったコンピュータの一人称で語られる。そのコンピュータが一人の女性乗組員を殺すところから物語は始まる。自殺を偽装されたその死に疑問をもった元夫が謎解きを進めていくうちに・・・、という話。何せ犯人であるコンピュータが語り手で、しかもその意図が重層的に隠されているという、それだけでもじつに巧妙な仕掛けに加えて、登場人物はコンピュータによって残酷に解析されていくし、異星人コンタクトの伏線もあって、面白さは申し分ない。謎解きも落ちも良くできている。あとはこの後はどうなったか、ということだろう。

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デニス・ダンヴァーズ 『天界を翔ける夢』 (ハヤカワ文庫SF)
 仮想世界での永遠の生を圧倒的多数が選ぶ時代、現実世界に残る青年が陰謀に巻き込まれる。アイディアにはそれほど新鮮味がない。確か星新一の短編で、あの世との連絡が取れて、しかもなかなか良いところだというのが分かって・・・というのがあったように思う。伏線もある程度は予想がついてしまうし、登場人物がやたらと饒舌なのにも最初のうちは辟易する(むしろ脇役のジョナサンやローレンスがなかなか良い味を出していると思う)。しかし、私もあんがいティル・チューズデイが好きだったりするので、登場人物にエイミー・マンが重なったりもして、そうこうしているうちに大団円に。

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デビッド・ノブズ 『レジナルド・ペリンの転落』 (マガジンハウス)
 これは面白かった。中年サラリーマンがだんだん壊れていくのだが、壊れ方がとても正しいので、家族も同僚上司もその状況にきちんと適応していくところが愉快。読み手もハラハラするというよりは期待でドキドキするだろう。もうすでにみな程よく壊れていたので、レジーもこれでおさまるべき所におさまったのであろう。破天荒でほほえましい、愛の物語である。

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小沼純一 『サウンド・エシックス』 (平凡社新書)
 音楽評論としてはなかなか興味深く読めた。音楽と場、署名/宛先、身体、消費などの取り合わせは納得のいく課題と展開なのだが、これらひとつひとつの提起がタイトルの「エシックス」に響きあって来ないのが歯がゆい。それについては著者自身が最後に言い訳をしてしまっているが、いくら新書という小著ではあっても、結論が「『聴く』ことによって捉えてゆく、考えてゆくことが音楽の倫理」というのでは、いささか物足りない。エシックスは多様でよいのだが、個々の問題提起を著者なりに纏め上げた一つのエシックスを披露して欲しかったと思う。しかしながら、現代音楽をめぐる言説については、初心者の私などにもわかりやすく、実例も豊富で大いに役立った。

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ホーマー・ヒッカム・ジュニア 『ロケットボーイズ(上)・(下)』 (草思社)
 映画化もされた話題作で、あまりにも面白くて上下二巻イッキ読み。50年代アメリカの田舎の炭鉱町の子供達が、米ソの衛星打ち上げ競争にも刺激されて、自分たちでロケット開発に挑む話。主人公である著者は、やがて実際にNASAで働く技術者になったわけだが、これはそういう成功談、あるいは昨今みだりに使われるような「ものづくり」(だいたい漢字で書けるものをわざわざひらがなで書くことが流行ったら、そろそろ生臭さが漂ってくる)に主題があるわけではなく、やはり主人公の成長物語だから面白いのだ。好景気に沸くとはいえ、炭鉱町の環境が必ずしも良いわけではないし、アメフト選手こそヒーローという雰囲気では、彼らは変わり者である。馬鹿にされたり、いじめられたりもする。無教養で粗暴な大人達も多いのだが、読んでいてつくづく思うのは、魅力的な大人もまたたくさんいることである。マッチョにあこがれる青年には、もちろん荒くれ男達が相手になってくれるが、変わり者の彼らに何かと手助けをしたり、かばいだてをしたり温かく見守ってくれる大人達がちゃんといる。炭鉱の監督である主人公の父親と、組合の指導者のように、幼馴染であり、好敵手であり、意見も考え方も対立するが、お互いのことが良く分かっているような、そういう大人達は、子供達のことをそれぞれのやり方で、たいそうよく面倒を見ているのである。だから、広い意味で教育に問題があるとすれば、もちろんそれは大人の問題である。まともにものが考えられて話し合える個性的な大人達、子供達が好きで面白がりの大人達がたくさんいれば、かなりの悪条件の中でもぬきんでてくる子供達は必ずいる。しかし、そういう大人達がいなければ・・・。

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イタロ・カルヴィーノ 『むずかしい愛』 (福武書店)
 カルヴィーノは『木のぼり男爵』がワタシのかつての愛読書なので、翻訳が出るたびに付き合ってきたつもりだったのだが、先日、自分の本棚をつくづく眺めていて、最近ほとんど読みなおしていないことに気づいた。そう気づくや、無性に読みたくなってきたので、手始めにこのオムニバス短編集を紐解いてみることにした。愛をめぐる12の冒険がつづられていて、一つ一つにそれぞれの人物の思いが濃厚に練りこまれている。その冒険は、一人一人の心の旅である以上に、一つ一つの世界をひっくり返してはその意味を探り続ける営みでもある。通いなれた道、見慣れた風景、ありふれた仕草、不随意に呼吸する空気、そういったものごとを、これといった理由もきっかけもないのに、ふと裏返してみたいという押さえがたい衝動が描かれている。それはおそらく、カルヴィーノが読みたくなる瞬間にも生じているのだろう。

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西原理恵子 『怒涛の虫』 (双葉文庫)
西原理恵子 『サイバラ式』 (角川文庫)
いつもの「煮詰まったときは鳥頭」、文庫2冊1000円弱でスランプ脱出。比較的初期のコミック&エッセイの文庫化、内容はわりと上品なほうでは? 漫画はしみじみ来る小品が多いです。子供や犬に泣かされます。救いのない話を救うのは西原さんの存在です。

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ポール・ヴィリリオ 『電脳世界』 (産業図書)
 なんだか安っぽいサイバーパンクまがいのようなタイトルだが、対話によってヴィリリオの思想を分かりやすく引き出している。ヴィリリオは都市計画研究者にして哲学者、電脳世界を歴史的かつ地理的に位置付けて、「速度」をキータームに抵抗する。私なりにヴィリリオの抵抗を解釈すれば、「それはやはり起こっていることである」ということから逃がされてしまうことへの抵抗ではないか。この一見主体的な逃避=実は権力による放逐が、安逸ではなくて脅威であることを認める必要があるのは、その認識がないと変革を生むことができないからだ。取り組むべき問題を見出させてくれる重要なテキストである。

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トニー・アトウッド 『ガイドブック アスペルガー症候群 親と専門家のために』 (東京書籍)
 アスペルガー症候群は、高機能自閉症や広汎性発達障害の名で語られることが多いので、その実際についてなかなかイメージが作れない。そのために、アスペルガー症候群の人あるいはその親が、自分あるいは子供にその可能性があると結び付けることができにくいところに最初の問題がある。最近ようやく認知度が高まった学習障害(LD)や注意欠陥・多動障害(ADHD)に比べて、なかなか理解されないのはそのためではないか。もっとも、それ以前に自閉症そのものがまったくの誤解にさらされたままであることをおいては語れないのだが。
 本書はとにかく分かりやすいし、症例と診断のみならず日常的な対処法やQ&Aが豊富で、役に立つ。LDやADHDと同様に、アスペルガーの場合も「何ができて、何ができないか」を心得ることが、親や周囲の人間、本人にとってもいちばん大切なことである。障害のゆえにできないことは、本人のせいではないのだから、まわりが無理強いすることではないし、本人にしてみれば深く落ち込むようなことではない。できることを伸ばせばよいし、できないことについては、あまり困らないように、そういう場合に役に立つ対処法を身につけるようにするのがよいのである。もちろん、言うは易く行うは難いが、それでも基本的な姿勢と取り組むべき課題がハッキリと見えてくるのが本書である。

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ロバート・シルヴァーバーグ編 『SFの殿堂 遥かなる地平@・A』 (早川文庫SF)
 これは前代未聞、SFのまさに殿堂入りというべきいくつかの傑作シリーズの「続編」あるいは「外伝」の競作集。私はダン・シモンズのかの「ハイペリオン」四部作の名前を見て即買い。他にもベア、ホールドマン、ブリン、ル=グィンなど錚々たる面々が、それぞれのシリーズの関連作品を書き下ろしている。やはり私の趣味はシモンズとベアだが、歌う船や無眠人も楽しめたし、他の作品もそれぞれさすがに強者というか曲者揃いで読ませる。ただ個性の強さは続けて読むには案外やっかいで、頭の切り替えに一休みしながら読むのがいいみたい。

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WHO編 『WHOライフスキル教育プログラム』 (大修館書店)
 小学校や中学校の学習指導要領の「道徳」は、大枠としてはなかなかよくできている。日ごろ、高等学校公民科の学習指導要領の「何でこうなるの?」的な分からなさに憤慨している身からは、たいへんよく練られたものになっていて勉強になる。教育ナントカ会議が小学校は道徳・中学校は人間・高校は人生だの寝ぼけたことを言っているが、彼らは小中高生の包括的な実態、道徳や倫理の指導要領や授業実践を踏まえてものを言っているのだろうか。
 その道徳だの人間だの人生だの言っている間に、こういうテキストを読んでほしいと思う。なぜなら、期待する効果を実際にもたらすには、自己表現やコミュニケーションがうまくいくにはどうすればよいか、という観点から学習する必要があるからだ。ここには、「よく生きる」にはどうしたらよいかを学習させる具体的な指針と手立ての例示がある。徳目を並べ立てたり偉い人の人生講話を聞かせたところで、そこに現実的な関心がない限りダメなのだということに気づかない(気づこうとしない?)彼らは、何を画策しているのだろうか。

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越智貢・土屋俊・水谷雅彦編 『情報倫理学』 (ナカニシヤ出版)
 選挙がある。投票率が低い。選挙ぐらい行こうよ、という話になる。・・・こういうことが選挙のたびに繰り返されるのだが、最近、どうもこの流れが気に入らない。この前提には、誰かの名前を書いて、投票箱に入れるだけ、選挙はだれにでもできること、という思い込みがあると思うのだ。民主主義だの権利と義務だの、チョット気まぐれで投票するだけで国政は変わるだの・・・待て待て、それ以前の問題が巧みに隠されているぞ。
それは何か、と問うならば、パソコンのことを考えればよい。今も私は、キーボードをかなりいいかげんなタッチではあるが、毎日のことゆえ軽快に叩いて、文章を綴っている。出来上がったら推敲して切り張りして、転送して公開する。・・・なんでもないことではある。「ネ、やってみれば簡単でしょ?」だの、「まあとにかく、やっちゃえばどうってほどのことでもないのよ!」と、かなり無責任に、メール利用やサイト公開を人に勧めてきた。でも、こういう形でのコミュニケーションに関心がない人はいるし、また関心がないわけではないがこの一連のプロトコル・・・表現したいコンテンツを実際に表現し、それをネットワークに載せていく手続き・・・を習得するつもりがない人もいるのに気づくまで、そんなに時間はかからなかった。確かに彼らも、だれか私以外のもっと優秀なセールスパーソンに勧められれば、この世界にのめりこむかもしれないのだが、いやいや必要に迫られて入り込みはしたものの、最低限のお付き合いしかしないのではないだろうか。消費生活、モータリゼーション、携帯電話などなど、だれもが本気でのめりこむわけではないのだから。
 だからおそらく、選挙もそうなのだ。「名前を書いて、箱にいれるだけ!」なんてよく言えたもので、やはり何がなんだかわからない理屈で、どこのだれだか知らないやつの名前を書くなんて、何でそんなことわざわざするのだ、ということではないのか。なんだか分からないけど、パソコンをいじらされ、よくよく仕組みも分からないのに、あてがいぶちのようにサイトを公開させる初心者セミナーのような構図が見える。もちろん、それであれば、インターネットのほうが政治よりは面白そうな感じはするだろう。そういうところで「どうしたらちゃんと選挙できるか」という初心者セミナーは、本来、公民科教育が引き受けなければならないところなのが、この話の痛いところである。
 情報倫理にせよ何にせよ、よくよく気をつけていないと、「情報」やら「生命」やら「環境」やら目新しい(というのももう過去の話だろうが)ネタに月並みな徳目を無自覚にくっつけていかにも新しいモノにみせかけた体裁だけという場合がある。その点、さすがに「叢書・倫理学のフロンティア」シリーズの一冊である本書に収められた諸論はヒネリが効いている。それでもケース論的な論文はどうしても状況依存的にならざるを得ないので、読み応えがあるのは「責任と情報倫理」、「情報モラルの教育」、「情報媒体の変化と教育方法論」といった、倫理学的に情報化の諸断面を読み解いた論文ということになる。私としてはやはり、上に長々と書いたような、情報格差の問題が一番深刻に思えているのだが、それは決して新指導要領によって実施される情報教育や、ITなんたら政策で講習を受けさせて解決する性質のものではないと思う。自己表現とコミュニケーションの発達が基本であろう。そしてそれがなければたぶん、情報も生命も環境も政治も経済も息づくことはできないはずだ。

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R.M.ロバーツ 『セレンディピティー』 (化学同人)
 セレンディピティとは、セイロン(スリランカ)の昔話にちなんでつけられた語で、思いもよらないことから大きな発明や発見をすることである。著者はさらに、目的を持って追究していたことが思わぬことで解明される場合を擬セレンディピティとしているが、その両方を取り上げて、一般向けの読み物として書かれた本である。化学者の書いたものだから、化学ネタが多いのは確かだが、考古学などもでてくる。
 心理学の分野でもこの種のいわば「ひらめき」がどこから来るのかについての研究はいろいろなされているし、ケクレのベンゼン環の発見は夢分析でもエピソードとして取り上げられるほどだ。しかしそれはさておいて、これは科学者(だけではないが)のドラマ集であって、それはもう面白い人やモノがたくさん出てくる。いろいろなところで思わぬ役割を果たしているこぼれたコロジオンや割れた温度計の水銀、ノーベルはもとよりグッドイヤーやパパニコローらの浮き沈みの激しい人生も衝撃的。マリー・キュリーは白血病で亡くなったが(ウラニウム鉱石ピッチブレンドを溶かしては鉄の棒でかき混ぜていたというのは、その動作を想像するとシロウトには東海村の事故が思い出されてしまう)、レントゲンが長生きできたのもまたある偶然だった。サッカリンもLSDも、ついうっかり摂取してしまったことで発見されているのも面白い(それで死んでしまった学者もいるのだろうが)。
 巷にはたくさんの発想法の本があふれているが、本書を読めば、やはりよほどの幸運に恵まれない限りは、セレンディピティをつかむためにはそれ以前のさまざまな蓄積があることが分かるだろう。脳にはさまざまな部位に情報が散在していることが分かってきているから、右脳がどうとか海馬がどうとかあまりにも雑なやりかたでよい発想が浮かぶようになるとは思えない。

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サリ・ソルデン 『片づけられない女たち』 (WAVE出版)
 子供のADHD(注意欠陥・多動障害)については最近話題になることが多くなったが、大人の女性のADD(注意欠陥障害)に焦点を当て、一般向きに書かれた本書は、タイトルにピンときたら手にとって読まれることを勧めたくなる一冊。もっとも、ジェンダー的に女性に不適応感が強いだけで、男性でも思い当たる人は読むと良い。実生活に結び付けてケースが取り上げられ、また薬物療法は当然ながらそれ以外の心理療法や環境調整についても、実際に即して説明されているから、分かりやすくかつ実用的である。ただし残念ながら、翻訳書である以上、わが国の現実には必ずしも適合しないところに歯がゆさがある。とりわけ、LD(学習障害)やADDを持つ人に対してとられる学校や職場での特例措置が法的に定められているところなどは、彼我の違いを痛感する。ところで、翻訳者も、自分はもしかするとADDではと思って診断を受けてみたらアスペルガー症候群であったとのこと。そのようなケースはかなり多いので、ADDに限らずこの種の最近になって取り上げられるようになった脳機能障害については、本を読むだけではなく、専門家の診断を個別に受けることが必須である。

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永瀬隆・吉田晶編 『カウラ日本兵捕虜収容所』 (青木書店)
 シドニーオリンピックが始まったばかりなのだが、たまたま読んだこれはオーストラリアのカウラにあった捕虜収容所で発生した日本人捕虜の大量脱走事件についての証言集。著者らが企画した“カウラ「事件」・映画と証言の集い”をきっかけにまとめられたもの。日本人捕虜が増えたので一般兵士を別の収容所へ移送することが伝えられた後、1104名が脱走を試み、うち231名が死亡、105名が負傷、オーストラリア側も死者4名負傷者4名を出した。類似の事件は前年にニュージーランドでも起こっており、一方イタリア人など他国の捕虜にはこのようなことは起こっていない。収容所での待遇は非常に良く、編者の一人である永瀬氏が解明に取り組んでおられるクワイ川捕虜収容所での逆の立場での処遇を考えると、天国と地獄ほどの違いがある。それでは何が脱走を引き起こしたのか。要因やきっかけは一つではないかもしれないが、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を始めとする、当時の日本軍人を縛りつけていた思想教育が根底にあって、大きく働いたと思われる。カウラに限らず捕虜になっていたことを恥じて、恩給の手続きもできない人が今でもいるのである。脱走自体が自殺行為だったとはいえ、中には首を吊って果てた者までいたのであり、死そのものを目的としたものであることが分かる。この悲惨で凄絶な振る舞いを、例えば戦前戦中の教育や日本人の愛国心や公共心が優れていたとする考えを述べる者たちはその証左のひとつにでもするだろうか。私には思想の問題ではなく、社会心理の問題として、単なる、しかしもっとも邪悪で巧妙な集団心理操作を示すに過ぎないと思われる。他人を操作する欲望にかられたものに権力が与えられるとどうなるかの見本である。それに対して、逃亡捕虜を紅茶と焼き立てのスコーンでもてなしたウィア夫人の姿に、私は区別なく人間を人間として遇することのできる人々に共通の偉大さを見る。私たちが学ぶべきことはこちら側にある。

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