バックナンバー(03年1月〜3月)




吉村昭 『夜明けの雷鳴―医師・高松凌雲』(文春文庫)
 高松凌雲は徳川昭武に随行してパリ万博をはじめ欧州を回るが、その間に大政奉還となり、フランスに滞在して最新の医学を学ぶ。やがて帰国した彼は、榎本武揚らとともに函館戦争に向かうが、パリで出会った貧民病院の理念に共鳴していた彼は、敵味方なく診療し、やがて政府軍の勝利が確実になった後も、病院を捨て身で守る。敗戦後はしばらくとらわれ、ひどい扱いを受けるが、やがて開業医となってからは同愛社を設立、寄付を募って貧しい人々の無料診療の輪を広げる。医師として優秀であるのみならず、その信念の貫き方が徹底している。
 こういう時代の変わり目には、「どちらにつくか」ということにばかり目が行きがちだが、どちら側にあっても、品格や信念のある人々がいて、そういう人々の出会いが、勝ち負けにかかわらず生き続けていくことを思い知らされるようなエピソードもたくさん出てくる。また、西洋医学とその精神を、自らの武士道に融け合わせていった彼の生き方から、福沢諭吉や内村鑑三や、あの時代の優秀な知識人たちが、日本と西洋の何をどのように組み合わせようとしていたのかについて、単純な「和魂洋才」としてではなく、より詳しく分け入って考えていく必要も痛感した。

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金谷武洋 『日本語文法の謎を解く 「ある」日本語と「する」英語』(ちくま新書)
 かつて『日本語に主語はいらない』を紹介したが、本書はその続編にあたる。といっても、前著の内容をわかりやすく追いかけているので、いきなり本書に当たっても大丈夫。日本語の「は」の役割で確実に目からうろこが落ちるはずだ。「日本語の基本文は3つ」、「クリスマスツリー型の英語と盆栽型の日本語」、「日本語のスーパー動詞「ある」」、などなど、とにかくその主張に沿って日本語を読めば、いちいち「なるほど!」の連続である。自動詞と他動詞、受身と使役の構造からいわゆる「ら抜き言葉」の本質にも迫ろうとする。今後の展開も楽しみだし、また時折顔を出す日本語教師としての著者の素顔やケベックの暮らしなども興味をそそる。

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川島隆太 『高次機能のブレインイメージング』(医学書院)
 神経心理学コレクションの一冊。脳の活動を画像として捉え研究する手法はよく知られるようになったが、本書はその最新の成果について、関連分野の人間にもよく分かるように書かれたガイドブック。画像の写真が多いのみならず、CD-ROMつきでHTML形式で整理されたいへん見やすく、動画もある。この分野の本を読むと、それでもなおあまりにも多くのことが分からないままであることが分かるのだが、それでもなおたとえば教育分野への応用としての「学習療法」の研究など、的確な実用的成果も少しずつ上がってきているようで、頓珍漢な似非科学書がベストセラーになる現状から見ても、脳科学の最新の成果を紹介する良書には今後も期待していきたい。

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スティーヴン・バクスター 『プランク・ゼロ』(ハヤカワ文庫SF)
スティーヴン・バクスター 『真空ダイヤグラム』(ハヤカワ文庫SF)
 とにかく(文字通り)スケールが(文字通り)桁外れに大きな、バクスターのジーリー・クロニクル短編集二分冊。年代記風の構成になっていて、AD3672年からAD5億年(!)くらいまでの話。既発表の長編の関連エピソードや、アイデア勝負の短編、さらに後半ではシリーズの謎解きの鍵になるような作品群もあって、いつのまにか重力定数10億倍の世界やら中性子星の内部やらバリオン宇宙の崩壊やらに立ち会っているような気にさせられてしまう(マジで)。イーガンと並んで、文科系にも思い切り楽しめる理科系SF。

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三浦佑之 『口語訳 古事記 完全版』(文芸春秋)
 古事記研究の第一人者による、古事記の口語訳である。これまでにも口語訳はいろいろとあって、私も日本思想の授業ではかならずプリントにして読ませていたが、本書はかなり思い切った訳になっていて、来年度はこれを使ってみたい気にさせる。なにせ、口調が「〜じゃ」なのである。もともとが語りによって記述された古事記を、その成り立ちを含めて口語訳したという趣旨である。また、かなり大胆に注釈者による文章への挿入が試みられている。1ページくらいの語り部の独白が挟まれていたりする。もちろん、どこを補ったかについては脚注に明示されているから、混乱することはない。こうした工夫は、賛否両論であろうが、敢えて読みやすさ、わかりよさを意図してのことと、私としては敬意を表したい。挿入箇所については、いささかうるさく感じる部分もないではないが。脚注も資料も解説も豊富で、今後ガイドブックとして重宝しそうな一冊である。

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伊藤俊治 『バリ島芸術をつくった男』(平凡社新書)
 バリ島を訪れたことのある人なら、ヴァルター・シュピースの名は必ず耳にしているだろう。不思議な雰囲気のバリ絵画や、ケチャを今ある形に構成したのが、ドイツ人のシュピースであることは有名である。そのシュピースの生涯とその芸術について、詳しく知ることのできるのが本書である。シュピースはモスクワ生まれで、裕福で芸術的環境にも恵まれていた。第一次大戦のときは敵国人としてウラル地方に抑留された経験もある。モスクワ、ベルリンなどで舞台芸術や絵画、映画制作にその才能を開花させていくが、アムステルダムでオランダ領東インドの美術に触れてインドネシアに渡り、ジョグジャカルタの宮廷楽長を経てバリに移り住む。それ以降、精力的にバリ芸術に取材し、参加しながら、また新しい芸術的創造に向かっていく。しかし第二次大戦で敵国人として収容され、セイロンに移送中に日本軍の爆撃を受け死去している。とにかく、数奇といえば数奇な運命であるが、その前向きな好奇心と参加意欲、そして創造性には、驚かされるばかりである。芸術論としてもわかりやすいが、なんといってもますますシュピースの人柄には惹かれるばかりである。

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斎藤美奈子 『趣味は読書。』(平凡社)
 このサイトのポリシーが「趣味は音楽鑑賞と読書」と言い切ることであり、またつい最近、感想に取り上げた本が300冊を越えたと報告したばかりであるから、もうこのタイトルでは読むしかないでしょう。文芸評論家の著者がいわゆるベストセラー本をあえて読み、評するという趣向だが、まずその読書人たるものの分析から入っていて、これがわが身に照らしても面白い。ベストセラーを生み出すのは氏の分類では「善良な読者」のカテゴリーである。氏はもちろん、このカテゴリには属さないので、ベストセラーは普段は読まない。それをあえて読んでみよう、というのである。
 取り上げられている本は多岐にわたる。私が取り上げたことがあるのは中島義道とハリーポッター、それに金持ち父さんの3冊。取り上げてはいないが読んだことのあるものがほかに数冊。いずれもさすがプロの本読みの視点が、鋭いものの軽やかに現れていて、いわゆる善良ではない読者としてはその分析に胸のすく思いがしたり、気づかなかったことを指摘されてちょっと悔しかったりと、大いに楽しんだ。いやしかし、『鉄道員』が怪談話だったとは知りませんでした。

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山本敏晴 『世界で一番いのちの短い国』(白水社)
 シエラレオネに派遣された「国境なき医師団(MSF)」の青年医師のリポート。MSFの運営の仕組みや、参加者のありのままの姿が描き出されていて、これがシエラレオネの現実や任務の困難さとコントラストをなしていて、深刻であるのに読み物としてはめっぽう面白いものになっている。疥癬にかかってローションを塗りたくった時の出来事や、「脱衣麻雀」の話などに爆笑しながらも、南アフリカで人種差別の現実にかたくなに抵抗した一人の少年が、そのアフリカでこうして医師として命がけの活動をするまでの道のりを(あまり面白くて忘れそうになるが)考えさせられる。また、医療における教育やマネジメントの役割の大きさにも気づかされる。

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ロルフ・デーゲン 『フロイト先生のウソ』(文春文庫)
 私のような立場のものでさえ思うのだが、最近ニュースなどで耳につく「心のケア」、一般に広く知られるようになってきたADHDやPTSD、アダルトチルドレンが流行ったり、なんとか「症候群」がもてはやされたり、と、どうもこうした概念が濫用されているような気がしてならない。本書は、心理学や脳研究に関する記事で心理学会から科学出版賞を贈られたことさえある、ドイツの科学ジャーナリストが、心理学の「常識のウソ」を徹底的に洗い出したものである。実証的な研究の成果だけに基づいて判断する限り、広く信じられている精神分析や心理療法のほとんどの効能はみごとに否定される。教育やマスメディアの影響も、驚くほど小さい。フロイトの無意識、センセーショナルな多重人格など、まったくのまやかしである。瞑想などうたたねとなんら変わりはないし、右脳型と左脳型などというタイプはあり得ない。フロイトは徹底的に叩かれているが、ユングなどはほとんど相手にさえされていない。いやこれはもう、痛快そのもの。心理学を(少なくとも)生業(の一部)としていながら、そんなことを言ってよいのか、と思われるかもしれないが、このサイトで感想を紹介してきたこの分野の本のリストを見ていただければ、私のスタンスもだいたい想像していただけるだろう。まあすべてが著者の言う通りとまで言いきるつもりはないが、現時点で、より確からしい研究成果に基づいて判断する限り、ほとんどはおおむね妥当な見解であると思う。私のような折衷主義のカウンセリングも、もちろんこの文脈からは否定されてしまうが、経験的に現実対応と医療との連携を常に意識して仕事をしてきたつもりで、その方向は正しいという気にはさせてくれた。まあ、これからもせいぜい謙虚な立場で、クライアントをサポートしたいと思う。

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筒井康隆 『カメロイド文部省』(徳間文庫)
 筒井康隆自薦短編集5【ブラックユーモア《未来》篇】である。本当に久しぶりに筒井康隆を読んだのは、教育書を物色して書店の棚を流しているときに、タイトルの「文部省」が引っかかったからである。自薦短編集のシリーズが出ていたことも知らなかった。「たぬきの方程式」などは読んだことがあると思ったら、巻末の対談で言われているように著者のマンガで読んだのを思い出した。ドタバタだけあって、設定が今の常識に当てはまらないものだと、かえって退屈するが、タイトル作のように常識のほうが設定を超えてドタバタになっているという、何をかいわんやの状況自体が可笑しかったりする。一番面白かったのは「うるさがた」。

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栗田亘 『漢文を学ぶ(一)』(童話屋)
 300円ほどの小冊子、「小さな学問の書」シリーズの一冊。著者は「天声人語」2000本を書いた人。漢文の一節が17ばかり引用され、そこに2ページあまりの解説がつく。皮肉のこめられたもの、ユーモアたっぷりのものなど、さまざまだが、新聞の看板コラムを担当してきたわりには、気負いがなくて、逆におそらくそういう人でないと、あれを毎日のように書き続けることはできないのであろう、と気づかされる。  読んでいて、新しい考察も生まれる。たとえば韓愈の「一視同仁」。相手によって分け隔てなく、また獣や鳥にも等しく接する、となれば仁と言いながら慈悲やアガペーでもある。これらの「愛」の概念の「違い」をしばしば強調することがあるがこうしてみるとむしろ、「愛」としてどこが「同じ」 なのかについてこそ、もっと深く考察すべきなのではないだろうか。また、福沢諭吉のエピソードが何ヶ所か出てくるが、彼の発想をもう一度洗いなおしてみたいという気もしてきた。  小さく、薄く、値段も安い本なので、ぜひ多くの方が本書を楽しんでくださるよう願っている。

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中島義道 『働くことがイヤな人のための本』(日本経済新聞社)
 わたしがこの本を読もうとしていたら、題名に気づいた小学生の次男が「おとうさん、働くのがイヤなの?」と驚いたように言うので、「そりゃー、遊んで暮らせたらそんなラクなことはないよなー」と言ったのだが、なんだかひどく心配させてしまったようだ。もちろん、本書は「働くことがイヤ」な人を勇気付けるような内容ではまったくない。それどころか、生と死の不条理にとことん付き合わされる。でもたぶん、フツーに「働くことがイヤ」な人は、こういうタイトルの本は読まないだろう。本書のターゲットは、ただ「働くことがイヤ」な人ではなく、「働くことがイヤ」なのにこんな本を読んでしまう人なのだ。
 この本の感想は、何度も書き直している。内容が難しいからではなくて、とにかく考えさせられてしまうからである。4人の架空の人物に問いながら著者が語るスタイルで、しかも「よく生きる」ことについて述べるくだりもあるものだから、ソクラテスやプラトンを思わせるところもある。わたしはそれほど生と死の不条理に絡めとられたことがないので、著者とかみ合わないと言い切れそうな気もするのだが、それでいて複雑な思いのまま頷いたり首を傾げたりして、付き合ってしまう。読み終えた今も、納得できないような、でも共感もしたような、そういう気分である。だから、感想もまとまらないのである。
 著者が開いている「無用塾」に来る者たちは、「カウンセラーのもとで世間的な解答をもらって満足できる問題ではない」ことを直感していて、断じて解決してはならない問いであること、死ぬまで問い続けなければならない問であることを知っているという。「人を殺したい」「自殺したい」という問いに「なぜ」と問い続け、「なぜなら」と答え続け、涙を流す人もいれば罵倒する人もいるが自然に任せるという。これは、カウンセリングの分野ではグループセラピーや論理療法、特に非構成のエンカウンターに通じる。もちろんまともなカウンセラーは「世間的な解答を与える」ような仕事をしているわけではないのだが、昨今のカウンセリングや薬物ブーム、もっと一般的にも「癒し」ブームなどを見れば、そういう見方をされても致し方ないだろう。医者や臨床家にもいろいろいるのだが、対症療法的な対応が求められる風潮があるし、非構成はいわゆるエビデンスがはっきりしないので論文にもなりにくいし、プロフェッショナルであればトラブルが生じるとやっかいなのであろう。だから、そういう場がないことは、結局、著者が指摘するとおりである。このあたりに、哲学の出番は確かにある。

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鎌田慧 『「東大経済卒」の十八年』(講談社文庫)
 小学校6年生、つまり『働くことがイヤな人のための本』を読もうとしているわたしのことが心配になった次男と同じ歳に、学校で「将来なにになりたいか」を書かされたのを思い出した。学者、教師、紙芝居屋というのが、わたしの3つの答えだった。友達が組み合わせが面白いと言ってくれたので、記憶に残っているのである。今の仕事は、ちょっぴり学者っぽい教師で、こんなホームページを作っているのは紙芝居屋にあこがれていた代償かもしれない。いい大人が会議や学会でパワーポイントではったりかましたプレゼンしているのなんて見ていると、みんなが紙芝居屋になったようでちょっと可笑しい。案外わたしの未来を見る眼は確かだったのかもしれない。
 たまたま、「仕事」に関する本を立て続けに読むことになったわけだが、本書には、1970年、ちょうど団塊世代の「東大経済卒」が、40歳を越えたあたりで、さまざまな分野でどう働いているか、次々と登場するインタビュー集。金融・製造・官庁から流通、パチンコまで、さまざまである。わたしは1980年、東大文学部の卒業なので、本書を読むとき、もちろん学部の違いは比較の仕様がないが(わたしのいたところが就職に縁のない講座なので)、このちょうど10年という違い、そして当時の年齢がわたしの現在と重なるというあたりがまず興味深いし、また本書が出てからさらに10年余り、今の彼らはどうしているのだろう、という思いもまた湧いてくる。もうなくなってしまったり倒産した企業もあるからである。
 しばしば世代論で強調されるのだが、われわれは「団塊」と「新人類」の狭間の世代なのだそうで、なんとなくイメージがぱっとしないらしい。それに対して、この10年先輩たちは、戦後の貧しさから高度成長の豊かさまでを駆け抜け、裏腹の矛盾に突き動かされて学生運動に走ったり巻き込まれたりしたという、イメージを結びやすい世代である。確かに、本書を読むと、そういう時代背景がさまざまな形で影響している。
 しかしながら、当たり前の感想だが「やっぱり、人それぞれだなあ」というところに落ち着くのは、圧倒的な売り手市場で軽やかに就職先を選び、しかもなんだかんだといわれても多くは優れた能力や根気があって、それぞれに成功しているように見えても、時代の変わり目、そして40歳という人生の折り返し点にふと立ち止まるときに覗く人間性は個性的だからである。わたしも40歳を越えたあたりから、自問自答を繰り返しているが、わたしにもそういう個性や人間性があるのかどうかが、ちょっと気になったりもするのである。

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