バックナンバー(03年4月〜6月)




宮本常一 『忘れられた日本人』(岩波文庫)
 近頃声高になってきた新保守主義的な言説を聞くたびに、日本の伝統とか日本人の生き方とか、そういった類のことをあまりにも決めつけて、紋切り型の道徳のお題目を唱えているのばかりが耳について、たいがいイヤになってしまう。そういうときに思い出すのは南方熊楠であったり柳田國男であったり、そして何よりも『土佐源氏』をはじめとする、宮本常一の聞き書きである。1960年発表の、『土佐源氏』所収のこの『忘れられた日本人』、そのタイトルが今日さらに意味深く感じられる。日本人なら忘れずに読んでおきたい一冊である。
 まあ結局のところ、いつでもどこでも、真面目でよく働く人もいれば、ちゃらんぽらんで身を持ち崩す人もいる。世が移り、生活が変わり続けるのはいつものこと。そんな移り変わりの風景のなかに繰り返される人の営みには、貧しさやきびしさの反面、温かさや鷹揚さが入り混じっている。そういう面白くも哀しくもある日本の伝統や日本人の生き方であれば、私は好きであるし、そこから学ぶこともたくさんある。
 とはいえ、その日暮らしで外の世界に出て行くことも少なく、行き当たりばったりの騒動やセックスが楽しみともなれば、いまどきそこらのコンビニにたむろするちょっとヤバそうなにいちゃんねえちゃんの姿も重なっては来ないか。あれが先祖がえりであれば、あれほど日本人らしい姿はないのかもしれない。新自由主義、新保守主義の世の中が作り出す、まさに忘れられた日本人の伝統でもあろうか。

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道田泰司・宮元博章(文)・秋月りす(絵)『クリティカル進化論』(北大路書房)
 これは面白い。面白くてためになる。秋月りすのマンガ『OL進化論』を練習問題にして、クリティカル・シンキング、要するに批判的思考を鍛えていこうという構成。進化はシンカーthinkerとかけている。マンガのくすぐりを楽しみながら、そこに物事の見方や考え方がどう現れているかがわかりやすく説かれていく。心理学の入門書と応用編に実用書が合わさったような、お得な本。

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佐々木毅 『よみがえる古代思想 「哲学と政治」講義T』(講談社)
 今回はギリシア関係で二冊。本書は、名著『プラトンの呪縛』に先立って、一般向けのカルチャースクールで行った哲学と政治についての講座の内容をもとにまとめられたもの。ギリシア・ローマの哲学と政治との関係を、わかりやすい語り口で解き明かしている。歴史や哲学について、簡明でありながら深い読みが示されていて、政治と哲学のかかわりの変遷がくっきりと描かれている。第一線の学者が、決して程度を落としたりしないで、最高の内容を誰にでもわかりやすく説くという、贅沢そのものの本。古典古代自体の概説書としても読める。

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塚田孝雄 『ソクラテスの最後の晩餐 古代ギリシア細見』(筑摩書房)
 ギリシアの文学作品で花が咲きそよ風が吹き小川が流れ、というような美しくのどかな光景を描いたのは、イオニア地方か南イタリア・シチリア出身者によってかかれたもの、という指摘など、はっとさせられる。アテネを中心に幅広くギリシア人の暮らしが見えてくるように構成されていて、アカデメイアに入学した学生を主人公にして風俗習慣を描いてみたり、暦や祭りの話題なども詳しく扱われていたり、興味深い話題が多い。とにかく面白い本である。気が付けばこの著者も、佐々木毅先生同様東大法学部の出身で、民間企業に勤めていた人のようだ。哲学畑の専門家よりも、周辺の人の書いたものが楽しめてしまうようだ。

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相川充 『人づきあいの技術 社会的スキルの心理学』(サイエンス社)
 ここのところあまり心理学の本を紹介していなかったが、勤め先の授業で夏休みに読書課題を出すときに、このサイトで紹介したものも参考にとURLを教えるので、少し新ネタを補充しておかなければならない。もしここを読んでいる学生さんがいたら、ほかも覗いていって、ついでにBBSにでもひとこと書き込んで行ってくれたりするとうれしいなあ。さて、本書の扱う内容は、最近かなり注目されている分野。ソーシャル・スキル・トレーニング、いわゆるSSTは、人づき合いがどうしてもうまくいかないという人に、カウンセリングやコーチングから援助するときに有効なものである。本書でも述べられているが、SSTというとすぐに型どおりに行動するマニュアル人間を作るという非難が浴びせられるが、一般的には日常生活の中で何気なくできていることができない人に、うまくいくきっかけを上手に与えることなのであって、自動車の運転や鉄棒の逆上がりを最初に指導するのと同じようなものである。いったんできるようになれば、後は練習しだいで自分でどんどん上手に、臨機応変に行動できるようになるのである。もちろん本書はノウハウ書ではなく、内外の研究に目配りしながら、社会心理学および臨床心理学の視点から社会的スキルの全体像を把握できる好著。対人葛藤の解決方略と解決率など数値で示されるものもあれば、面接法や行動観察法の具体例などもあって、示唆されるものは多い。

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桜井茂男 『学習意欲の心理学 自ら学ぶ子どもを育てる』(誠信書房)
 自ら学ぶということは、学習指導要領でも重視されていながら、その実際の方法についてはなんとなくはぐらかされることが多かった。一番無責任なのは、子どもに任せておけば自分のやりたいことをやるからいいんだ的な発想で、そんなことなら結局は学校も教師も要らない。やるべきことは二つの側面がある。字が読めなければ読書の楽しみは得られないから、まず字を読めるようにすることは絶対に必要である。しかしそれ「だけ」ではうまくいかないかもしれない。読書の楽しみを想像できないと、字を読めるようにする訓練に耐えられないかもしれないからだ。たとえば絵本の読み聞かせは、自分で読めたらいいなあ、と思うきっかけになるかもしれない。この後者の側面が、著者が行っている「内発的動機づけ」の研究である。カンタンに言ってしまえば、「どうしたらやる気が出るのか」ということである。本書には、内外の研究と、著者自身の研究が具体的に紹介され、たいへんわかりやすくまとめられている。自ら学ぶ子どもを育てるという副題であるが、自ら学ぶ大人になるにはどうしたらよいかというヒントもいっぱいである。専門書とはいえ著者の人柄がにじむ親しみのある書きぶりで、ついつい読む気にさせられるのはテーマにかなっていてさすがである。

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伊藤完吾・小玉石水 編 『決定版 尾崎放哉全句集』(春秋社)
 私は俳句などまったくの素人である。とうの昔に、職場旅行で、俳句の好きな先生方に少しだけ指南していただいたことがあったが、それきりである。もっとも、そのときに俳句は5・7・5ではなく、「休み」も数えれば8・8・8で考えればよいのだ、と教わったのは目からうろこの落ちる思いだった(不正確だったらすみません)。  で、もう一つ俳句で目からうろこが落ちたのは、この尾崎放哉という、まったく知らなかった人の、「入れものがない無い両手で受ける」とか「墓のうらに廻る」とか「咳をしても一人」とかいう、自由律の作品である。宮沢章夫のエッセイの中に何度か出てきたので、興味を持ってこの句集を買ってきた(句集なるものを買ったのがそもそもはじめてだ)。ワープロで横書きにして、これらの代表作だけをこう書いてもぴんとこないかもしれないという不安もあるが。自由律というのが俳句の世界でどういう位置づけなのかもまったく分からないし、たぶん放哉の生き方から出てくるものもあるのだろうけれど、ことばの力やふくらみを、五感の刺激として受け止めさせる俳句のはたらきがびりびりと伝わるというか、短いことばが私の全身をやさしくではなく、息苦しく包み込む感じだ。「肉がやせてくる太い骨である」、「李が咲いた足が立たぬ」・・・、コトバが重い。日本語ブーム、音読ブームのような世相にあって、もっとも重さを感じるコトバだ。

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A.C.クラーク&S.バクスター 『過ぎ去りし日々の光(上)・(下)』(ハヤカワ文庫SF)
 バクスター作品の翻訳は品切れが多く、クラークとの共作の本作は貴重かもしれない。著者のあとがきにもあるように、本作のアイデアの一つはボブ・ショウのスローガラスである。私はたまたまショウの短編も、長編化された作品(サンリオ文庫)も読んだことがあるのだが、とりわけ短編は印象に残っている。そのスローガラスのアイデアをSF的に拡大していくということになると、こういう使い方になるのだろう。ハード部分に加えて、父子を中心とする家族の葛藤ドラマの部分が面白いのだが、終盤の社会進化テーマの部分になると、理念的な部分に納得しないうちに話だけが先々に進んでしまって、いささか物足りないというか、正直なところ白けてしまう。が、まあ進化を超高速でさかのぼる部分など迫力あるヴィジュアルな要素など楽しめるポイントはいっぱいあるので、損した気にはなりません。

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中一弥(構成 末國善己)『挿絵画家・中一弥 日本の時代小説を描いた男』(集英社新書)
 挿絵にも時代小説にもまったく関心がない私だが、なぜか書店で惹かれて手にとって、読み始めたら止まらない。中一弥とは、今92歳になっても現役の、おそらく時代小説の好きな人には大変よく知られた挿絵画家であるらしい。三男は有名な作家の逢坂剛、というのも読んでから知った(とはいえ、その逢坂剛も読んだことがなかったりする)。どうも、自分の世界と重ならないところで、その道一筋、というような人の話にはついつい引き込まれるところがある。
 大阪で貧しい家に生まれ、視力もよくなく、印刷工場で働いているうちに看板描きの仕事に出会う。看板絵の仕事が下火になるころ、挿絵画家の小田富弥の絵が気に入り、弟子入りを願いでて受け入れられ、やがて挿絵画家として認められ、今日に至る。画家や作家、新聞や出版業界の様子、日常の物事や家族のあれこれが、率直に語られていて楽しませる。奥様を亡くされたことや戦争のこと、三人の息子さんたちのことなどのエピソードには、感動したり考えさせられたり。豊富な挿絵の数々も、こうして改めて見ると、実に味のある、面白いものだと思う。昭和期の大衆小説の世界の豊かさ、つまり銭形平次やら鬼平やら梅安やら、私は読んだことはないけれどもテレビの時代劇では子供のころよく見ていた作品が、一枚の挿絵とともに新聞や雑誌に連載され、それをいかに人々が心待ちにして読み、親しまれていたかを考えると、今の出版や新聞の文化的な厚みはどうなのか、テレビドラマがこれらに取って代わったといえるのかどうか、私たちの物語性の嗜好はどうなっているのか、あれこれと思い巡らさざるを得ない。
 ところで、同じ集英社新書とはいえ、下記の本に出てくる「自動販売機」が二つ、ここに偶然に登場するのである。一つは弟子仲間としばしば散歩に出かけた上野公園にあった体重計で、「僕らはそれをカンカンと呼んでいましたが、あるとき僕が、中野さん、あれに乗ってみい、と言ったんです。そしたら、十六貫もあった。」中野さんとは、後に結婚する相手だが、中氏は大柄な彼女をしばらく十六貫と呼んでからかったという件がほほえましい。もうひとつは、その二人が結婚してはいったアパートで、「アパートにはガスが引いてあって、十円入れると使えるようになっていました。」こういうことがあるので、脈絡なくいろいろな本を読むのはやめられないのである。

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鷲巣力 『自動販売機の文化史』(集英社新書)
 まだ息子たちが二人とも小学生だったころだと思うが、何かで上野に行ったとき、ホームのミルクスタンドで3人でビンのコーヒー牛乳を飲んだことがある。そのとき、猛烈に懐かしさがこみ上げてきた。自分が小学生だったころ、父親に連れられて電車で出かけると、よくこうしてコーヒー牛乳を飲んだのである。父は決まって、「コーヒー牛乳はほとんど牛乳は入ってないんだぞ。砂糖ばかりで、からだによくないぞ」と文句を言って、自分は普通の牛乳を飲みながらも、私にはコーヒー牛乳を飲ませてくれた。ふだん、ジュースやらなにやら甘いものを飲む機会はほとんどなかったし、外で立って飲食する習慣がなかったこともあって、たまのお出かけのときに駅で立ち飲みする冷たいコーヒー牛乳は、なんとうれしく、おいしかっただろう。
 それがいまや、人口一人当たりにすれば圧倒的な自販機普及国の日本では、大人も子供も自販機で飲料を買い続け、飲み続けている。タバコや酒の自販機など、ごく普通に考えれば子供の飲酒喫煙をとうぜん拡大させるものが平気で置かれる。かといって、自販機そのものを悪者にすることはできないわけで、そこにわれわれの文化が「モノやサービスを売る」ということをどう考えているか、タバコや酒を売ることと子供たちの健康と、どちらが大切だと考えているかがよく現れている。本書は自販機の歴史から始まり、その普及と国際比較、そして比較文化的な考察も含め、自動販売機から見た現代史となっていて興味深い。特に、初期の自販機のからくりや、販売されるものの流行り廃りなど、なるほどと思わせる。さて現在は携帯電話と自販機の連携があれこれと試されているようであるが、一方ではネット通販などの新しい流通も爆発的に拡大しているから、本書を手がかりに、大衆消費社会の中で「モノやサービスを売る」という行為あるいは様態そのものについてあれこれと考察してみるのも楽しい。

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ウェンディ・ローソン 『私の障害、私の個性。』(花風社)
 高機能自閉症者の自伝。結婚し、子育てをし、離婚して、42歳でようやく正しい診断を受け、大学に入る。子供時代には悲惨な目に遭い、成長とともにさまざまな困難に出会い、克服できたものもあればできないものもある中で、それでも一つ一つ前に進んでいく生き方がすごい。多くの無理解に苦しむが、理解や親愛のある人々との出会いにはほっとさせられる。自閉症スペクトラム障害は人口の1%ほどの割合で現れるにもかかわらず、これまでほとんど正確な診断が下されてこなかったから、学校でも多くの子供たちが困難に直面し続けている。本書はそうした子供たちへの理解を深める上でも、読むべき一冊である。さすがに専門家の杉山登志郎の解説は短いながら誠実である。しかし、この邦題にはまったく不満である。これでは本書の特性があまりにも一般的な決まり文句の中に埋もれてしまう。原題は "Life behind glass" といい、まさに二つの世界の狭間で生きなければならない著者の思いが込められているのに。

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馬場啓一 『華屋与兵衛謎の生涯』(夏目書房)
 和食系のファミリーレストランの店名に使われていて、握り寿司の創始者という由来を知った華屋与兵衛だが(ちなみにその店のうどんはおいしいと思うが寿司は・・・)、その生涯はあまり知られていないらしい。この小説は、だからおそらくほとんどの部分、特にその生い立ちなどは著者の創作なのだと思うが(違ったらごめんなさい)、これが面白い。若狭から出てきた身寄りのない子供が、あわやの危機をすり抜けつつ、やがてチャンスをつかみ、名声と富を築くのだが、幕府の奢侈禁止に、負けを承知ですべてを賭けて立ち向かうあたり、著者のダンディズムにも重なり合って、痛快であるとともに、人間のプライドについて考えさせられもする。

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マイケル・パトリック 『名画にしのびこんだ猫』(河出書房新社)
川浦 良枝 『しばわんこの和のこころ』(白泉社)
デニス・トラウト&トム・カレンバーグ 『ペンギンのペンギン』(リブロポート)
 猫は人間をどこか小ばかにしているところがあって、魔性を見られることもあるにせよ、それが猫の可愛さ面白さである。『名画にしのびこんだ猫』は、ラファエッロの「サン・シストの聖母」から幕を開ける、奇想天外な画集。絵の面白さに笑ったところで、一枚一枚のコメントを読むとこれがまた蘊蓄とユーモアでじっくり楽しませてくれる。ゴッホやムンクあたりは当然として、モンドリアンやらデュシャンやらにどう猫が絡むのかがお楽しみ。私はクリムトがたいへん気に入りました。訳者柳瀬尚紀の後書きにも爆笑。
 猫に比べると、やはり犬は大真面目である。あまりにも素直に、和のこころを柴犬が説いていく『しばわんこの和のこころ』。ここにも猫が出てくるが、シテが犬ならワキは猫、ということだろう、可愛くてまじめな猫はあくまでアシスタント。好評で続編も出たようだ。楽しい実用書には違いないが、柴犬のまじめさが訴えかけてくるものがちょいと気にはなる。
 それで行くと、犬も猫も超越し、時代を超えた生き物はやはりペンギンということになるのではないか(強引)。しばらく前にブームになったり、安定した人気?を保っている存在であるが、『ペンギンのペンギン』を超えるペンギンものは出ていないのではないか。訳は谷川俊太郎。今は中公文庫になっているらしい。ところで西原理恵子のマンガでは、西原の出身地の漁師町では勝手につれて帰ってきたペンギンが野良ペンギンと化して暴れまわっているという話なのだが。

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