バックナンバー(02年04月〜06月)




ジュリー・M・フェンスター 『エーテル・デイ』 (文春文庫)
 また歯医者に通っているのだが、麻酔をかけられて削ったり抜いたりは慣れっことはいえ、もちろんときどきは痛い目を見ることもあるので、ついつい足が遠のいて、虫歯が悪くなっていたりする。麻酔が存在しないころ、外科手術を受けることがどんなに大変なことであったか。手術がいやで自殺した人が少なくないというのも分かる。もっぱら気晴らしや見世物として使われていた笑気ガスやエーテルが、外科手術の麻酔に使えると気づかれるまでに数十年間かかっている。そして、その「最初の一人」は誰かを巡って、生々しい争いがおこり、それらの人物はいずれもあまりよい死に方はしていない。麻酔という人類の福音は、アメリカが医学界にはじめて成し遂げた大きな貢献であったが、政界や医学界の争いを巻き起こした。医学が金と深くかかわっていく端緒もわかる。当時は医者は儲かる仕事ではなかったのだ。
 脇役もエマソンやら(ちょい役だが)オルコットやらが登場し、19世紀のアメリカ社会の一断面が生き生きと描き出されているのも楽しい。

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ダン・シモンズ 『鋼』 (早川書房)
どうしても読んでしまうダンシモンズの新刊は、ハード・アクション。シリーズ化されるらしく、登場人物の背景などにまだまだミステリアスなところもあって、それがかえって展開に奥行きを与えている。ただでさえ登場人物のすべてに一癖も二癖もあるというのに。パートナーを殺した相手を殺したために服役し免許を取り消された「元」探偵が主人公で、マフィア・ファミリーの利権がらみの事件を、荒っぽく解きほぐしていくのだが、どんでん返しに次ぐどんでん返しで、息つく暇もない面白さだった。続編に大いに期待。

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坪井由実、井深雄二、大橋基博 『資料で読む教育と教育行政』 (勁草書房)
基本的には大学生向けのテキストであろう。教育基本法に問題があるのではなく、その理念が十分に実現されていないところに問題を認めるというのが著者たちの立場である。よって資料の解説もそういう方向で書かれている。しかしながら、資料の量や質が非常に充実しているので、これを手がかりに文献をあさることで、各自で実証的な考察が可能になるであろう。そういう手がかりとして、あるいはちょっとした調べものにもたいへん重宝する本である。

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伊藤公雄、樹村みのり、國信潤子 『女性学・男性学』(有斐閣アルマ)
副題はジェンダー論入門。文章がよく練られており読みやすく、引用資料や統計資料も豊富。しかも樹村みのりの書き下ろし漫画が3本挟み込まれて、効果的な構成になっている。テキストには違いないのだが、これなら手に取った学生はつい読んでしまうのではないだろうか。ジェンダー論初心者には文句なしにオススメできる本。

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イアン・バンクス 『エスペデア・ストリート』 (角川書店)
 書店で見かけたときになんとなく名前に見覚えがあって、手にとって解説を読んでみると、SFも書いているとある(作品リストを載せるぐらいの親切を期待してはいけないのだろうか)。後で調べてみると、『フィアサム・エンジン』をここでも紹介したことがあったのだった。『フィアサム・エンジン』は作品構造に今ひとつ乗り切れなかったのだが、この普通小説はすんなりと作中に溶け込んで楽しむことができた。「ちょっとプログレなイギリスのロックバンドの作詞作曲兼ベース」という、かなり憧れるタイプの主人公の、成功から破滅、そして再生の物語。時代が共通しているのでディテールも楽しめるし、脇役も舞台設定も凝ってはいるが親しめる。テーマがテーマなので、麻薬にセックス、死や退廃も重要な素材ではあるのだが、根っからの悪人は出てこないしオチも暖かいので、主人公の外見の描写とも呼応して、フランケンシュタイン博士の怪物のヴァリエーションを思わせる。

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国立教育政策研究所編 『生きるための知識と技能 OECD生徒の学習到達度調査(PISA)』 (ぎょうせい)
 教育改革論議について考えるときに、まず参照すべき資料のひとつが、この調査報告である。ただしいきなり異議がある。PISAはあくまでも「生徒の学習到達度調査」なのであって、現在のわが国の文部科学省謹製のジャーゴンである「生きる力」に結びつけるようなこのタイトルはいかがなものか。
 それはさておき、まずこの調査、問題がとても面白い。自分でもやってみたくなる問題ばかりの学力調査というのは珍しい(笑)が、本来そうあってほしいものではある。これらの問題は、単にカリキュラムの目標がどれだけ達成されたかを測るのではなく、持てる知識や経験をどのように活用する力があるかを見ようとするもので、読解リテラシーを中心に、数学的リテラシー、科学的リテラシーを調査している。たとえば、社員にインフルエンザ予防接種を無料で受けられるお知らせのイラスト入りの文があって、そこに書かれていることはどれかを選ばせるなどのほかに、親しみを持たせるスタイルにしたかったのだがうまくいっているか、あるいは、ある語句が誤解されやすいので削除したほうがよいといわれたがどう思うか、などの設問がある。
 正答率は国際比較されていて、概して日本はトップグループに属している。文部科学省は、いわゆる「学力低下」批判に対して反論する根拠に用いるであろう。ただ、この調査結果を、わが国の学校教育の成果を肯定的に捉える根拠とするのであれば、現状で大いにうまくいっているのであるから、なぜ新しい学習指導要領が必要なのか、とも言えてしまう。これまでの「ゆとり」路線の延長線上にあるといわれながら、総合学習の大幅導入と教科内容・時間の削減はあまりにも大胆な改革だからである。
 また、標本抽出や同時に調査されている学校や生徒の意識も併せて読むと、読み解かなければならない課題は非常に多い。層化変数が「設置者」と「学科」であるが、その後の国際ルールの適用(学科内で35人の生徒を無作為抽出)が困難として、学科内での学級の無作為抽出を行っている。調査の受諾率(最初の依頼で82%、代替では半分以下)としては、国際的に見ても良いほうではあるが、ここでの手続きや受諾傾向(国際ルールで85%以上)自体にも、標本の精度を高度な統計的手法で補ったといえども、単純に国際比較ができる程度まで信頼してよいかについては、留保して見なければならない(もちろん、方法としては現実的な限界を考えればこれ以上のものはないと言えるので、その点を非難しているのではない)。
 学校や生徒の意識面も、多くの考えるべき題材がある。わが国では、読解力と両親との文化的コミュニケーション機会、クラシックな文化的所有物、家族の教育的支援などに関連が認められていて、アメリカで大きく関連している物質的な豊かさなどは関連していないし、家族の教育的支援はマイナスの相関をもつ国がほとんどなのも興味深い。自分の勉強をする時間、読書などもまったく当然に関連している。これでいくと、家庭の文化的雰囲気や教育への関心が、学習到達度と相関していると考えられる。学校間分散が明らかに大きいという結果も出ている。
 こうしたさまざまな情報をどのように集約するか、なかなか楽しみの尽きない読み物である。それにしても、なぜ教育改革は、その時々の有識者の集まりでの雑談の中から作り上げられてしまい、このような調査結果をもとにして考えられてはいかないのであろうか。そのちぐはぐなところが、限りなく歯痒くもあり、腹立たしくもある。

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山岸真編 『90年代SF傑作選(上)・(下)』 (ハヤカワ文庫SF)
 アンソロジーの感想というのも書きにくい。編者並に90年代SFを読み漁っていたのなら、その編集の視点について語ることもできるでしょうが、私はあくまでも気まぐれな一読者として楽しんでいるに過ぎませんし・・・。そこで、とりあえずもっとも面白いと感じたベストテンを挙げてみた(というか、リストアップしてみたら十篇だった、ということなのですが)ところ、三つのグループに分かれることに気づきました。
 第一のグループは、以下の5編。 イアン・R・マクラウド「わが家のサッカーボール」 ・ダン・シモンズ「フラッシュバック」 ・エスター・J・フリーズナー「誕生日」 ・ジャック・マクデヴィット「標準ローソク」 ・ナンシー・クレス「ダンシング・オン・エア」 。これらは、道具立ては違ってもいずれも夫婦や親子など「家族」を深く考えさせる作品です。先鋭的な状況設定を用いることによって、現代的なテーマを際立たせる、SF小説ならではの作品です。私はコテコテのハードSFよりは、この手の話にとても弱くて、もうコロッと感動してしまいます。
 次のグループは3編。 マイク・レズニック「オルドヴァイ峡谷七景」 ・グレッグ・イーガン「ルミナス」 ・ロバート・リード「棺」 。これらの醍醐味はとにかくスケールの大きさ、です。アプローチの方法はまったく違いますが、世界観そのものが問い直される快感がたまりません。
 最後に、2編。 コニー・ウィリス「魂はみずからの社会を選ぶ」 ・ジェイムズ・アラン・ガードナー「人間の血液に蠢く蛇−その実在に関する三つの聴聞会」 。これらは「もうひとつの歴史」モノ。どちらも、とても気の利いた作品、と言えるのではないでしょうか。コニー・ウィリスの深刻なテーマや重厚な作風には惹かれてきたところですが、このようなユーモアたっぷりの短編も見逃せません。
 というようなわけですが、90年代は長編としてハイペリオン4部作というSF史上に残る破格の傑作が出てしまったのですが、やっぱりSFは中短編も面白いぞ、と確信を深めるに足る作品集でした。

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金谷武洋 『日本語に主語はいらない』 (講談社選書メチエ)
 学校で習った国文法、結局どうもすっきりしなかった。受験勉強としては一通りこなしたけれども、ニホンゴの上達にはさっぱり役立たなかったと思う。翻訳の手伝いをしたときなども、意味の通じる日本語に書き直すのに、国文法などはまったく考えたこともなかった。しかし、そうも言っていられない仕事がある。本書の著者はモントリオールで日本語教師をしている人で、外国語として日本語を学ぶためのテキストがまた、このわれわれが学校で習った国文法で作られているため、いかに役に立たないかを痛感して、「学校で教えられる」国文法の定着の過程と問題点を、論争史と文法的論理によって明快に解き明かす。三上章の文法を正しく評価し、そして結果として「『は』はコンマである」などの、見事で役に立つ訳し方を導き出す。目からウロコが何枚も落ちていく本である。

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上垣外憲一 『雨森芳洲』 (中公新書)
 息子の歴史の参考書を見ていたら、この名前に出会ったのだが、どうもあまり覚えがない。自分が学校で歴史を学んでいたころには、あまりポピュラーな取り上げ方はしていなかったのではないだろうか。儒学者で対馬藩にあって朝鮮とたびたび行き来し、交易や通信使のもてなしなどに活躍、朝鮮語を駆使し朝鮮の文化にも通じていたという。さっそくこの本を読んでみた。人物的に朝鮮通信使から高く評価されていたことや、深い文化理解を通じて民族の平等を説いたことなどが、今日の評価につながったのであろう。しかしまた、同じ木下順庵門下でありまがら、新井白石のように幕府中央で活躍できることを願いつつも果たせず、また対馬藩でもそれほど出世できず、その境遇を受け入れる境地に至るのは八十も過ぎたころであったというあたり、芳洲の人柄がけっして禁欲的でまじめ一筋の聖人君主ではなかったこともわかった。華々しさもなく、悩ましくあっても、自分をごまかさない仕事振りの値打ちというものに思い当たらせてくれる。

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M.デイリー&M.ウィルソン 『人が人を殺すとき』 (新思索社)
 タイトルはセンセーショナルだが、内容は堅実で学術的なもので、進化心理学によって殺人という行為を理解していこうとするものである。とにかく地道に膨大なデータを集め、ごくまっとうなやりかたで統計的に解析するという、いたって正統的な研究方法が(それが本来あたりまえなのだが)、殺人という行為の意味を明らかにしていく過程は鮮やかである。そしてそれが鮮やかであればあるほど、もともと矛盾する理由付けで殺人という罪や殺人者を管理しなければならない社会にあって、どのようにその矛盾を飲み込んだらよいのか考えさせられることになる。さらに、訳者が指摘する日本の殺人における「例外的な」傾向の分析が待たれる。また暗数の問題も気になるところではある。

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春日武彦 『病んだ家族、散乱した室内』 (医学書院)
 著者はケアの現場に深くかかわり続けてきた精神科医師であって、多くの一般向けの著書もある。本書はまさに現場向きの書で、ケアの現場で働く者が「家」「家族」に出会うときに必ず戸惑うさまざまなできごとに、しり込みしないで取り組めるような配慮がある。あえて「実用篇」と銘打たれた「精神病を理解する」の章も然りで、その語り口にはまさにさまざまな深淵の縁に立ってきたからこその暖かさとユーモアがある。たとえば精神分裂病の頻度を「慢性関節リウマチの頻度の二倍以上」と説明してから、満席の日比谷スカラ座なら何人、新宿コマ劇場なら、歌舞伎座なら、という喩えなど絶妙である。この調子だからこそ、実用的な意味だけでなく、こういう仕事に生きることについて勇気付けられるという意味でも、大いに役に立つ本ではないだろうか。

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ノーム・チョムスキー 『9.11』 (文芸春秋)
E.W.サイード 『戦争とプロパガンダ』 (みすず書房)
 世界貿易センタービルおよび国防総省を目標とした、ハイジャック機による体当たりという想像を絶するテロは、その後のアメリカによる対アフガニスタン戦争、さらにはアメリカがテロリスト国家とみなす国への侵攻の可能性に、突破口を開いてしまった。もちろんアルカイダは、2001年にアメリカが公式にリストアップした28のテロリスト集団のひとつ(ちなみに、オウム真理教もそのひとつ)であるが、仮にアルカイダの犯行であるという十分な証拠があるにせよ(それすらもいまだに明らかではないが)、タリバン政権打倒のためにアフガニスタンに侵攻することが当然のごとく帰結するかのような理屈のあからさまな矛盾を、なぜきっぱりと指摘し難くなっているのか。ニカラグア侵攻ですでにアメリカそのものが最大のテロ国家であることを、国際司法裁判所も事実上認定していたし、パレスチナやスーダンで起こっていることに、アメリカが直接の責任を負っていることを否定する根拠はまったくない。単純に、死者の数で比較するならば、今回のテロはまさに桁外れに小規模なものである。にもかかわらずアメリカがかくも堂々と正義の大将を演じていることの胡散臭ささならば、わが国にいても感じることはできると思うが、その犯罪性をきちんと批判し糾弾する声があまりにもか細いことが恐ろしい。
 出自からすればまったく立場の違う、しかしアメリカを代表するという意味では共通の二人の学者が、それぞれに語る言葉は、だから非常に重い。アメリカの犯罪を、ごくごくありふれた、公開されたデータだけでも十分すぎるほどに糾弾できることを繰り返し説き続けるチョムスキーの論旨は、いたって明快である。加えてサイードは、にもかかわらずイスラム諸国の政権の腐敗ゆえに世界を味方につけられない現実を厳しく見つめている。

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