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最近の更新(16年3月〜17年3月)


パオロ・マッツァリーノ『エラい人にはウソがある 論語好きの孔子知らず』(さくら舎)
 副題をよく見ないと何の本かわからない。中崎タツヤの絵で装丁もしゃれているから、「孔子に学んでホントに大丈夫?」とでっかく書かれた帯が付いていなかったら、得体のしれない著者名(正体は日本人の大学の某先生)もあって何これ、という本である。
 私はこのところ孔子について調べているので、著者の言うところは非常によく分かる。だいたい孔子の伝記らしい伝記はないし(今から2500年前の人なのだから当たり前だ)、孔子の生い立ちをもっともらしく書いてある本はだいたいは司馬遷の「史記」世家が主なネタだから、歴史学的な確からしさもない。しかもその「史記」ですら、孔子にとって都合の悪そうなことも書いてあるくらいである。さらにそれをしばしば補って引かれている「孔子家語」に至っては、もう全く当てにならない・・・。
 まあ、ごくシンプルに考えてみても、本当に出世したかも不確か(多分していない)な理屈屋の役人が50半ばで就活の旅に出て、誰も雇ってくれず、結局飛び出した祖国に還ってくる話など、けっこうみじめと言うか身につまされるわけで、それをありがたがって祭り上げる人たちもいい気なもんだ、といったところだが、結局中国では孔子の言葉をさらにどんどん肉付けしていって、朱子学あたりになるともうまるで別物の、しかし学問的な体系づけは一見もっともらしくできているものに化けて(基本がコレだから砂上の楼閣だと言ってしまえばそれまでの話ではあるが)、それが日本の江戸時代の学問所に採用され、教育勅語の道徳的基礎にもなるのだから、西洋のキリスト教に匹敵する影響力ではある。どちらもその始祖の生い立ちは曖昧なものであるが(繰り返すが、そんな2000年以上も昔の人物の生い立ちなど確かめるすべはないので当たり前なのだが)。明治末に発売された「ポケット論語」がベストセラーになり、渋沢栄一がさんざん持ちあげたことでブームになった孔子の思想(みたいなもの)が、いまでも影響力を持っているのは、書店に行ったりネットでググれば明らかである。
 ただ、著者も言うように、虚飾をはぎとってシンプルに「論語」を読めば、かなりブレブレでダメダメでヘタレなところも見せる孔子の人間像が浮かび上がり、そんなおっさんの声を本音なのか戯言なのかと思いめぐらしながら付き合う楽しみはなかなかのものである。「論語」を編纂した恐らく孔子の孫弟子辺りの人たちも、孔子を祭り上げるつもりならいくらでもやりようがあったろうに、そのダメ人間臭さを伝えるエピソードもほどよく入れ込んでいるあたり、やはり著者の見立て通りと思う。
 著者の言う「論語教」に洗脳されている向きには、通過儀礼として読んでおくべき一冊ではないだろうか。

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菅野完 『日本会議の研究』(扶桑社新書)
 話題の本であるし、私も出てすぐに買って読んだつもりだったが今奥付を見てみると5月20日第三刷である(初版第一刷は5月1日付)。中身の恐ろしさについては、時間も経ってしまったしもうここでは書かない。しかし、出版差し止めの判決には驚いたし、それ以上にマスコミがそれに対して戦う姿勢をあまり見せていない(ようにみえる)ことの方が恐ろしい。裁判官の見識が疑われるところなのだが、原告側の申し立ての中の一か所のみを取り上げ、しかもそれが実に瑣末なことにしか思えない表現の箇所であるところが、暗に「これくらいなら削除してもよいでしょ、事を荒立てないで収めて下さいよ」的な気がしてならず、司法はいったいどうなっているのかと暗澹たる思いに駆られる。実際、その箇所の表現をもっとあたりさわりのないものにしても、本書の価値はまったくと言ってよいほど影響を受けないであろう(実際、その箇所の36文字を削除して販売されている)。それだからこそかえって、不安を覚えるのである。これくらいは空気を読んで妥協して下さいよ、ということの積み重ねがどのような事態をもたらすのか、私たちは痛いほど知っているはずなのだが。

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原武史『滝山コミューン1974』(講談社文庫)
 私は給水塔が好きなのだが、給水塔ファンには団地ファンも多く、私も団地住まいを何箇所か経験しているので、いろいろとネットで調べているうちに、この本に出会った。私と著者とは世代的には大体同じなので、背景となる社会情勢や教育事情は共通する。安保闘争後の70年代の空気がどのようなものであったかについては、案外伝わりにくいのである。ただ私は小学生時代の大部分を武蔵野市で過ごし、千葉市で卒業しているから、地理的には近いが、実態はかなり異なっていたことが読んで分かった。ちなみに舞台となる滝山団地ではないが、私は結婚の前後に同じ市内の東久留米団地に住んでいたから、そういう親近感はわいた。
 東久留米市立第七小学校は、もともと地元の子供たちが通っていたところに、滝山団地ができて、大幅に児童数が増えた。小学校と新来の団地ママたちが作り出していったものが、著者が言う「滝山コミューン」である。そこに持ち込まれていたのは遠山啓の「水道方式」と、全国生活指導研究協議会=全生研が提唱する「学級集団づくり」であった。本書では、著者が身をもって味わった「学級集団づくり」が生み出した小学校の状況を、リアルに描き出している。班活動の競争、相互批判や粛清、演出された感動。学園のいじめをテーマにしたフィクションドラマなどに見られる装置は現実のものとしてあったのだし、子供たちを支配し、お気に入りを上手く使って集団を思い通りに動かすことに快感を覚える教師たちの姿は、思想の如何を問わない。全生研の活動はやがて下火になっていくが、そこにうごめいていた欲動はいまやいわゆる「新自由主義」教育やあの「神道の学校」に居場所を見つけている。
 それにしても著者はよくあの時の出来事を記憶し、曖昧なところを取材し、再構成して行ったものだと感心する。それだけのショックを受けていたのだろうし、受験塾に通うことで相対的な視点を持っていたこともあろうが。私の場合も、のんびりした武蔵野市の小学校から、6年になる時に千葉市の新設校に転向し、その厳しさと、新設校の意気込みの裏の封建的な古臭さとのギャップに辟易したことで、ようやく自分なりの相対化ができたのだが、6年間同じ学校に通っているということは恐ろしいことである。
 息苦しい内容であるが、父親譲りの鉄道好きである著者の、ちょっとしたエピソード、特に開業したての武蔵野線に乗ったり、我孫子駅の弥生軒で駅そばを食べたり、というあたりには、自分の生活圏に近いこともあるが、ほっとさせられる。

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永井義男『本当はブラックな江戸時代』(辰巳出版)
 暇があれば時代劇チャンネルで「鬼平犯科帳」や「剣客商売」を見ている妻に、結局付き合って自分も楽しんでしまうのだが、まだこうしたそれなりに品格のある原作にのっとって作られたドラマはよい方だ。やたらと江戸時代を持ち上げたり、ただのトンデモ話にすぎない「江戸しぐさ」が道徳の教科書に入ったりと、遠山なんとかとか暴れん坊なんとかのトンデモ時代劇バージョンの江戸の町イメージに、さらにクールジャパンのうわついたラベル貼りばかりの現状にはうんざりだ。江戸の庶民の暮らしの現実を読みやすいエピソードで綴ってくれているのが本書の面白さである。江戸で働くということがどれだけブラックで、江戸で暮らすということがどれだけ危険で不衛生で、つまるところ江戸時代を生きるということがどれだけ厳しかったのか、よく分かる。

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山田純大 『命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民』(NHK出版)
 アメリカ留学中にスピルバーグの『シンドラーのリスト』を観て感動し、杉原千畝を知り、「命のビザ」を受け取った後のユダヤ人たちはどうなったのだろう、という疑問から、日本にやってきたユダヤ人たちの滞在期間を延長し、無事第三国に送り出すために尽力した人物、小辻を追うことになった著者は俳優さん。アメリカ、日本から、さらにイスラエルにまで取材し、多くの人々と出会い、小辻の業績を一冊の本にまとめた。素晴らしい仕事である。マーヴィン・トケイヤーとの偶然のつながりをきっかけに、ご遺族に信頼されて、取材を重ね本書を書きあげる。
 小辻は神官の家に生まれながらキリスト教に改宗し、牧師となってアメリカに留学、旧約聖書とユダヤ教を研究して博士号を取得。帰国後はいったん教職に就くも病気で失職、「聖書原典研究所」を開設するが圧力を受けて閉じたところへ、満鉄総裁の松岡洋右に請われて、満州のユダヤ人コミュニティの調査員として大連に渡る。帰国後、敦賀から神戸にやってきた大量のユダヤ人たちのために、杉原ビザの十日間という滞在期間を延長するために奔走する。終戦後も様々の苦労を経てユダヤ教とに改宗し、かつて救った人々と再会する。
 あらすじとしてはそうなるのだが、驚くべきエピソードや、意外な人物との出会いなど、まさに波乱万丈である。ハルピンで終戦を迎えた小辻一家が、今度はユダヤ人たちに救われるなど、まさに感動である。
 本書を読むと、戦前から戦中の日本とユダヤ人とのかかわりがこんなにあったのだと驚くし、松岡洋右の人となりについても、見方が変わってくる。素晴らしい人々や、感銘を受ける言葉に満ちた本である。

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児美川孝一郎 『キャリア教育のウソ』(ちくまプリマー新書)
 私には息子が二人いて、別々の中高一貫校からそれぞれの大学に進んだ。長男は理系で大学院まで進み、希望の企業に就職して、会社にも仕事にも満足していたが、趣味で続けていた音楽活動との両立ができなくなり、結局、音楽の道を選んだ。二男は勉強は振るわなかったが、ピアノを続けていたことから音楽教育に進学、教員免許は取ったものの、大学時代になって初めて本格的に学んだ声楽に遅まきながら魅せられ、いまだ修行中である。
 息子二人いてどちらも音楽の道に進むというのは、親としては予想もつかなかった事態である。私も弟と二人兄弟だが、二人とも普通の勤め人であり、結婚して子供も二人ずつ生まれ、(今のところ)離婚も転職もせず定年が近づいているというのは、それだけで親は我々兄弟に感謝してほしいと思うほどだが、かといって息子たちの選んだ道を否定する気もまた全くないし、育て方を間違ったとも思っていない。できる限り応援したい。心配ではあるけれども。
 鮮烈に覚えていることがある。もう数十年前、教員になって最初に赴任した商業高校にで、職業適性検査が行われた。返ってきた結果を見て愕然としたのは、ほとんどの生徒の「適性のある業種」が「土木・建築」であったことである。いったいぜんたい、一般事務職を希望する女子が多いところに、この検査結果をどう受け止めさせたらよいのか、非常に悩んだものである。結局は、あくまで参考だから、と言ってすませたものの、やった意味がどこにあるのかわからない。考えてみれば自分も高校生の時にそのようなテストを受けたような記憶もぼんやりあるのだが、進路決定に参考にした記憶は全くない。
 立場上、「キャリア教育」をやらなければならないのではあるが、どうすればよいのかは、本当のところよく分からない。本書でも批判されているように、現場で行われている「キャリア教育」は、アリバイづくりのようなレベルのものではないかという気がしていた。それに対する回答としては、要は型にはまったキャリア教育のウソやワナにかからずに、いつ訪れるか分からない変化に備えようといったところか。どうも生煮えな感じではあるが、きっぱりとしたタイトルでキャリア教育の専門家自身がキャリア教育を批判するという構えは気にいった。

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伊藤祐靖 『国のために死ねるか』(文春新書)
 不思議な本だった。  帯に「ぜんぶ現実! 驚愕のリアリティ!」とあって、海上自衛隊の特別警備隊(いわゆる特殊部隊)を創設した人物の記録である。実際、非常に面白くて、あっという間に読み終えてしまうのだが、それは会話文が多く読みやすいからでもある。ノンフィクションで会話文が多いことをリアリティと取るかどうかとなると、読者としては気をつけなければならないところである。著者はまさにそこにいて会話をしていたわけだから、再現性は高いのだろうが、読み手は会話文を読むと自分なりに相手の人物像や状況などを想像で補って構成して読んでしまう。だから、自衛隊をやめて行ったミンダナオ島でのラレインとのやり取りや、フラッシュバック的に挿入されるリムパックでの出来事などが、私にとってはあまりにも異世界の話だからであろうか、もうほとんど映画を見ているような印象にしかならなくなってしまうのである。
 ところで、本書を読み終えた翌日、たまたま三谷幸喜のエッセイ(三谷幸喜のありふれた生活:817「荒野のガンマンは寡黙」2016年9月15日 朝日新聞)を読んだ。三谷は黒澤明「七人の侍」と、それをもとにしたジョン・スタージェス「荒野のガンマン」を見比べて、七人のキャラ付けについて論じているのだが、ガンマンの過半数が寡黙キャラであることから、次のように述べる。

寡黙でも自己主張ははっきりしている荒野版七人。ブリンナーもクールで、「みんな大人なんだから好きなようにするがいい」的な、達観が垣間見える。チームワークで見せる侍たちとは、かなりイメージが異なる。これがお国柄なのか、ガンマンと侍の違いなのかは、僕には分からない。

これには唸ってしまった。まさに、本書で述べられていた、彼我の特殊部隊の特徴ではないか。
 海上自衛隊と陸上自衛隊の違いなど、興味深い読みどころも多いし、憲法論については論を異にするけれども、国家と国家のために戦う人たちとの関係を考えさせられる稀有な本であることは確かであった。

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土田健次郎訳注 朱熹『論語集注』1〜4(平凡社東洋文庫)
 必要があって朱子学について少し調べなければならず、となるとまずは『論語』を朱子はどう読んだのかということで、本書に当たるほかはない。ひもといてみて先ず驚いたのは、朱子のことではなくて、訳注者の土田健次郎の仕事である。もちろん、訳が正確で読みやすいのはありがたいが、それ以上に、いちいち伊藤仁斎の『論語古義』及び荻生徂徠の『論語徴』からの引用が示されていることに、研究者としての実績と誠実とを観て、感謝と感動を覚えずにはいられなかったのである。  例えば、私が下村湖人『論語物語』を読んでいつも思うのは、公冶長篇第三章の「瑚l」はどう読むべきかということがある。岩波の金谷注よりも下村解釈はかなり辛辣である。そもそも「君子は器ならず」であり、また公冶長篇あたりに出てくる子貢の描かれ方は確かに好意的ではないのだが、さて朱子はどう解釈したのだろうか。これが「君子の段階にはまだ至ってはいないが、貴重な器ではあるということであろうか(其亦器之貴者歟)」と、あやふやな解釈であった。これだけでは肩透かしであるが、土田注は、まず仁斎が聖人の徳は日用の道具であるという解釈から、子貢を戒めたと取るのに対して、徂徠は仁斎が間違っていて、聖は大宗伯(典礼祭礼長官)の徳であるから瑚lはこれに当たろうと言っている。ふうむ。ほめているのかけなしているのか、結局はどちらとも取れるのか。ただ『論語物語』の書きぶりはいささか感傷的すぎるという印象を持っても、間違いではなさそうである。  また、述而篇第二章の、「黙してこれを識し、学びて厭わず、人を誨えて倦まず」の後の「何有於我哉」。金谷注は「私にとっては何でもない」がしっくりきていなかった。朱子注は「私はどれを持っていようか(どれも持っていない)」という反語、ただしそれは謙遜だというのである。仁斎は「これら両者の他に何が自分にあろうか」。徂徠は先の三つは順番に関係しあっていて結果的に「学ぶ者が特に力を入れなくても自然にそうなる」。ぐるりと回って金谷注の意味が徂徠の説明で腑に落ちた。  パラパラと気軽に読むだけで、これまで何となく引っかかっていたことや、逆にあまり深く考えもせずに通り過ぎていたことに、光が当たっていく。気軽に読むには少々高い本ではあるが、私からすればこれは大変な価値のある本だ。

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ルチャーノ・デ・クレシェンツォ 『疑うということ』(而立書房)
 仕事に必要な本を探していて、しかしその仕事にもちょっと行き詰っていて、たまたま書棚にあって目にとまったこの本を、そう言えばこれはサッと読めて面白かったはずだ、と思いだして取り出して、読み始めたらもう止まらない。クレシェンツォはもともとIBM勤めのビジネスマンだったのに、作家としても成功した人物で、深い哲学的素養とセンスで気の効いた文章を書く人なので、この120ページほどの小著は楽しく読めて、しかしとても考えさせられる。5つのエッセイからなるが、圧巻は第二章の「偶然と必然」か。モノーの『偶然と必然』を引き合いに出しながら、65歳の誕生日を祝う侯爵夫人の晩さん会を舞台に、占星術師、司教、謎めいた技師たちが語り合う。終盤のエピソードが楽しい。第三章「エントロピー」は、ナポリからミラノに転勤してきた自分を主人公に、どこからがフィクションなのか分からない、そして内容としては前章の続きのような会話が繰り広げられ、いささか唐突に終わる。読み終わって仕事に戻る時には、行き詰っているということを少し引きで見ることができるようになっていた。それではかどるわけではないけれど。(で、探していた本はまだ見つからない・・・)

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マイケル・ピュエット&クリスティーン・グロス=ロー『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(早川書房)
 日本語版の題名がもう何匹目の柳の下のドジョウで、もはや手に取って見る気にもならなかった(原題は"The Path"(道)である)。にもかかわらず、本書をひもとくにいたったのは、ある日本の中国哲学の研究者の話で紹介されたからである。その先生は昔、実際にピュエット教授のゼミに出ていたことがあって、教授は学生にレポートさせ、討論させるだけで、自分ではほとんどしゃべらなかったので、これはすばらしい、自分もいずれこのようにやりたい、第一、楽ではないか!と思ったのだが、いざ自分がやってみるとそうはいかなかった、と言うことであった。あの何もしゃべらなかったピュエット教授が、ほとんどしゃべりづくめの講義で大人気、というのがまず意外だったという。実際、経済学やコンピュータサイエンスに次ぐ、第三位の人気講義だという。
 というわけで、実際に読んでみると、非常に素晴らしい、東洋思想の入門書になっていた。日本にいるとどうしても高校倫理のスタンダードから入りがちなそれぞれの思想を、先入観のない独自の切り口から説き起こしていくので、新鮮である。
 とにかく凄技だと思うのは、たとえばリンカーン、ルーズベルト、レーガンのやりかたを、老子に例えている。このあたりは共著のグロス=ローの手腕かもしれないが、日本人の私が読んでも、こんな見方があるのかと非常に面白い。そのようなハッとさせられる視点があちこちにあって、古代中国思想に改めて目を向けるというよりは、結局それは洋の東西の差異の話ではなく、根本的なものごとの見方の問題であり、人間としての生き方の問題であることに気づかされる。
 最後に書かれているように、東洋思想は西洋で都合よく改変され、利用されてきた。ピュエット教授の講義を受ける者たちにも、そのような動機がないとは言えないだろう。しかし本書を読む限り、東洋思想を学ぶことの真の道に引き戻されることは大いに期待できる。ところで、私が本書を読むきっかけとなった東洋哲学の先生は、東大でも中国哲学を学ぼうとする日本の学生がほぼいないという現実も語っていた。人文教養軽視の風潮であろうか。今のところ、日本語で読める中国思想史のテキストとしてもっとも信頼のおけるものは、おそらくアンヌ・チャンの『中国思想史』(知泉書院)であろうが、それがフランス語からの翻訳であるというのも、日本の伝統を思うとこれからがおぼつかない感がする。

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本間龍 『原発プロパガンダ』(岩波新書)
 中越沖地震後のいつごろであったか、ついでがあって、柏崎刈羽原発の見学に出かけたことがある。附属の展示センターのようなところや原発内部を案内され、広報資料やDVDなどが配られた。そうした費用はまさに「原発プロパガンダ」の一部であっただろう。ネットが今ほど普及していなかった頃、仕事柄、資料が必要で問い合わせると、いくらでも送ってきた。反面、教科書などの原子力発電問題の記述に対しては、関連団体からのチェックは、遠回しに表現しつつもしつこかったように聞いている。元広告代理店勤務の著者は、電通を頂点とする広告代理店が、原発の安全神話を作り上げるためにどれだけメディアに食い込み、原発村から利益を吸い上げているかが、うんざりするほどよく分かるように書いている。電力会社の広告費は、いくら支出しても電気料金に上乗せできる。まして政府広報などは税金である。自分たちが払う税金や電気料金で、自分たちが原発の安全神話を信じ込まされているという図式である。アメリカでは同業他社の広告を引き受けることができないという規制があるので、寡占化が起こることがないというのだが、日本では寡占どころか独占になりかねない状況である。広告代理店問題は勿論テレビや新聞で扱われることはあり得ない。独立のネットメディアにその気概はあるのだろうか。

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テッド・コズマトカ 『ボーン・アナリスト』(ハヤカワ文庫SF)
 久しぶりに、あっという間に読み終わったSF。あまり「アナリスト」に重点があるわけではないなあと思ったら、原題は"Prophet of Bones"だった。ご丁寧に「骨を読み解く者」とまで副題もついていて、邦題のズレが増幅していることもあるのだが、現代そのものも途中からはあまり中心的なテーマではなくなっている。反進化論が勝利したもう一つの世界設定は目新しくはないし、その中でもそれほど矛盾や葛藤が深い主題になっていないのだが、そこが伏線に絡むところが、あまりSF的ではないのだが、ストーリーとしては新鮮かもしれない。読後感としては帯にあるテクノスリラーという側面が強く、後半ではほとんどアクションものになっていくあたり、思っていたのとは違っていたが、終盤にかけて解き明かされていく伏線もよくできているし、ラストの突き放し感もなかなかのもので、続編を期待させる。

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中室牧子『「学力」の経済学』(ディスカヴァー21)
 「経済」をくっつけないとまともにデータをもとにして議論しようとしない「教育」政策の愚を、分かりやすく説いたベストセラー本。統計学や心理学でもよく知られている事例から、最新の研究まで、(当たり前だが)データをもとにして紹介されている。教育の仕事をしていれば、すぐにでも役立つ内容も、たくさん示されている。
 「経済」がくっつくと強いのは、「基本的なモラルをしつけの一環として親から教わった人は、全く教わらなかった人より年収が86万円高い」(p.95)のような話が極めて分かりやすいからで、小学生と親に学歴と年収のデータを用いて算出された教育の収益率を知らせると、知らされないグループより有意にに学力が高くなったというマダガスカルでの実験(p.107)などが示されると、少人数学級編成よりもはるかに効率が良いという判断は容易に付く。ただし学力が低い子どもたちには少人数教育のメリットがあるというデータも紹介されている。
 しかし、たとえば幼児教育の長期的なメリットは非認知的能力にあるとか、モラルをしつけることが重要となってくると、より効果測定が難しいそれらの教育内容や方法に踏み込む、別分野の研究が進まないと実用にならない。さらに、遺伝や家庭環境や地域性によって生じる差が大きければ、経済「政策」には多くの変数がさらに加わってくる。実際に起こっていることだが、本書でも指摘されている通り、学校ごとに学力テストの成績を公表して競わせるのは無茶である。教員採用の障壁を低くする、もしくは免許制度をなくすことは、議論や試行は繰り返されているが、やる方のメリットを確立しておかないと人材確保は難しい。またランダム化比較試験を公教育の場で実現することは非常に難しい(私の大昔の修士論文は教授法の効果測定研究であったが、もちろんランダム化比較などありえず、せめてもの対照群の設定や交互作用の統制など非常に苦労した)。学力テストのデータが研究に役立つような形で公表されない理由も、十分に推測が付く。「教育にエビデンスを」という著者の(当たり前だが)反論の余地のない基本が、この国の(文教に限らず)行政ではむしろ意図的に排除されていることから、実際の公教育にあたっている立場から役立てられることは、意外に少なくなってしまう。かといって、こういう研究が進められることによって、教育行政の中の心ある人々は確かに心励まされていることもまた重要である。

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高校倫理研究会『高校倫理が好きだ!』(清水書院)
 はい、これは宣伝です。私たちが編集しました。以下は私が考えた、チラシのコピーです。

20人以上の哲学者たちとの対話への誘い --- コンパクトに読みきりで 「高校倫理教育にかかわってきた教員や研究者が、それぞれ自分と深く響き合ってきた人物を選び、彼らとの心の対話へと読者を誘います。世の中がどのように変わろうとも失われない「倫理」教育の原点、そして今とこれからの「倫理」教育の姿を通して、人間にとって倫理とは何なのかが見えてくる一冊です。」

 これでちょっと読んでみようという気になっていただけるかどうか分かりませんが(そして誇大広告になっていないことを望むばかりですが)、私たちの研究会仲間が、思想家の思想と自分自身との「響き合い」をしたためた、他にない一冊になっています。正直、書き手が多いので書きぶりを揃えるのはなかなか大変で、徹底できなかったところはあります。それでも、だいぶ読みやすい本にはなったと思っています。
 前書きにも書いたのですが、私たちは、高校「倫理」という科目は、もしかすると事実上終焉してしまうかもしれないという危機感をもっています。それが「自分の仕事がなくなるから」問題なのか?と胸に手を当てて自問自答しても、いやそうではなく、高校生に、高校教育に無くてはならない科目だから、と言いきる自信はあるのです(いっぽう、これから登場するのが『公共』(仮)という新必修科目です)。なので、高校「倫理」なくさないでほしいなあ、と、多くの方に共感していただきたいと思い、この本を作りました。
 Amazonでも注文できますので(これを書いている時点では在庫切れですが・・・)、一冊いかがでしょうか?

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比留間幹 『給水塔』(リトルモア)
 私は給水塔が好きで、ささやかにブログも作っているが、世の中には給水塔マニアは結構いて、資料性のある素晴らしいサイトやマップもあり、オフ会なども実施されているようである。私は一人で東京近郊や、出張や旅行のついでに行くぐらいだからたかが知れているが、それでもがんばって写真を撮って、何とかその存在感を上手く収めたいと思うのだが、これがなかなか意のままにならない。一方で、本書のあとがきにも記されているベッヒャー夫妻の給水塔(だけじゃないが)写真のように、プロのというかアーティストとしての写真家が収めたものはさすがにすごい。
 この写真集も、たまたま著者がカメラテストで取った一枚に映り込んだことから給水塔に魅せられ、撮り集められたものである。ベッヒャー作品のタイポロジー写真といったジャンルではなく、アーティフィシャルな作品としての美しさは、もちろん私のような素人写真では及びもつかない。数か所であるが自分が行って撮ってきたものと見比べるとため息が出る。特に夜景にはやられた。川口の石神、千葉のみつわ台や千城台、そして極めつけは佐倉の羽鳥である。悔しがっても仕方がないが、羽鳥はバスと歩きでは夜は行けないし、しかしライト付くのか!見たいな・・・という、まあ素人のやっかみみたいな気持である。
 この趣味は、だんだん難しくなってきている。給水塔はどんどんなくなっているからである。あとがきの白鷺のエピソードも神秘的であるが、給水塔というまさに前世紀の遺物と化そうとしている建造物に、出会えるうちに出会っておきたい、写真に収めておきたいという気持ちに駆られるのである。

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ロバート・チャールズ・ウィルスン『楽園炎上』(創元SF文庫)
 海外SF作家ではもっとも好みに合う一人。地球外生命が形作る〈電波層〉に覆われて、平和を謳歌する人類。地球外生命の目的を巡って、新たな動きが生じる中、その存在を知る人々が追いつめられていく。物語のほとんどは、私の大好きなロードムービースタイルで、あまりCGを使わないで実写映画にして欲しいタイプ。設定はちょっと雑な気はするし、何せ『時間封鎖』3部作を知ってしまった読者には、どうしても物足りなさが感じられてしまうが、その分、帯の惹句どおり「一気読み必至」の興奮作である。

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