バックナンバー(06年4月〜6月)




林公一 『擬態うつ病』(宝島社新書)
ネットで細く長くQ&Aを続けてくれている精神科医の著書。絶版になってから古書価格が妙に上がっていてさすがに買う気にならなかったが、ようやくリーズナブルな価格の古書を見つけて読んでみた。思ったのは、『擬態うつ病』を提唱した著者の先見の明。おそらく、抗うつ剤の大量消費のウラには、多くの人格障害が隠れていると思う。著者の示す処方箋はユニークであるが、それをいかに具体化するかが難しいと思う反面、おどろおどろしく人格障害の難治性を嘆くよりも効果的なのかもしれないと考えさせられる。最後はいわゆるうつ病の治療の話でむすばれている。

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北尾トロ 『キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか』(幻冬舎文庫)
私には「帰りの電車で読む本」というジャンル(というほどではないが)があるのだが、最初はとにかく笑える本だと思って買った。そのうち、ハラハラさせられるだけでなく、自作の詩を詠むことにはまってしまったり、母親に恋愛時代の話を聞きに行く話などから、いつの間にか著者の人柄に惹かれていくようになる。これはさまざまな人間関係の本だ。読みおわってみたら、案外、考えさせられていることに気づく。

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ダグラス・アダムス 『さようなら、いままで魚をありがとう』(河出文庫)
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のシリーズ4作目。ああ面白い。3作目の『宇宙クリケット大戦争』も面白かったけど、なんかもっと面白いよ。ああもうこれしか残ってないよ。どうなっちゃうんだろう最後。全然オチが見えないよ。ああもう少しで読み終わる。でも北千住を発車しちゃったよ。北千住と南千住の間は短いんだよ。ああ地下もぐったよ。もう着いちゃうよ。うーん乗り越して読みきっちゃうか? いやいや遅刻しちゃうじゃん。ああでもそうだ、帰りの電車だよ。帰りの電車まで楽しみが続くじゃん! うんそうだ。そうしよう。でも昼休みとか読んじゃうかな。いやいや今日は昼休み取れそうにないくらい忙しかったな。うんやっぱり帰りに取っておこう。あ、着いた着いた南千住。でもアレだな、デスクの上に置いちゃったらダメだな、ちょっとしたヒマにあせって読んじゃったらもったいないしな。かばんに入れておくか。ああいや、今日使う資料が入ってるから読んじゃいそうだ。うん、だから着いたらちょっと目立たないところに・・・

 えっ? あああなんてこった! 忘れてきちゃったよ本! ああなんで書類の下に置いちゃったんだろう! ここに置けば、仕事が終わった時に確実に気がつくはずだ、なんて思っちゃったんだよな。でも結局忙しくてあの書類仕事まで行き着かなかったんだよ。あああ結末が気になってしかたない。ああ待てよ、そうだ! なんだ、もう一冊買えばいいわけじゃん! いやいやいやいや、ほんの数ページ読み終わっていないというだけで、さすがにそれはもったいないよなあ。ああ! いやいやいやいや、立ち読みすればいいじゃん! 立ち読みはポリシーに反するけど、でもまあちゃんと一冊買ったんだから許してもらおう。許してくれるよね。家の近くの本屋じゃぜったいないよな河出文庫。よしここで降りちゃおう。駅ビルのM善・・・河出文庫って見つかりにくいんだよ。あったあった。ダグラスアダムズ・・・なんだ宇宙クリケットまでしかないよ。平台にもないよなあ。店員に聞くか? いやいやいやいや、買うんじゃなくて立ち読みするんだった。こちらでございますとか言われて、ああどうもありがとうとか言って立ち読みする勇気はないよさすがに。見落としてないよなあ・・・。ええいくそ、じゃあ隣のM井の上だ。ここはアクセサリー売り場を通り抜けないとエスカレータにたどり着かないんだよ。ああもどかしい。こちらはどうだK国屋書店。あったあったえらいよK国屋! ああもう、読んじゃうぞ読んじゃうぞ。さて最後のメッセージは・・・! そしてマーヴィンは・・・!!!。

 期待を裏切らないオチに、さらにとんでもないエピローグまであって、『宇宙クリケット大戦争』以上に面白かったです。でも宇宙クリケット大戦争を読んでからこれを読まないと、オチが今ひとつオチません。なおこのシリーズ四作目は本邦初訳、そしてついに最後の五作目も近刊との事。これでついにヒッチハイクシリーズ、すべて読めます。

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倉田ちかこ 『涼太郎、またやっちゃった!?』(廣済堂出版)
 副題「母と子のドタバタ自閉症ライフ」。著者の妹さんがマンガを描いている。アスペルガー症候群や高機能自閉症についての理解が広がってきていることもあり、自閉症という発達障害のイメージは一般にとらえやすくなってきているかもしれない。もし身近にそのような子どもがいたら、この暖かい本はその子の様子やご家族の思いについて、適切に理解するために、ぜひ読んでみることを勧めたい一冊である。お母さんがわが子の障害を受け入れるまでの苦悩とプロセスも分かるし、どんなことが母親として「ちょっと違う」と感じられるかといった、なかなか他人に分かってもらいにくいところが分かる。それにしても、お母さんとしての著者、その周りの家族の明るさというか勢いというか、それが涼太郎君とずっと支えあってきたのだなあというところに、読み手としてもほろりとしながらも時には大笑いしてしまう。ふだん家では何もしないが週末息子と遊びまくっているお父さんというのもけっこう新鮮だった。ほんとうに、家族の支え合いというのは、いろいろなかたちがあるのだ。

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ウィル・セルフ 『元気なぼくらの元気なおもちゃ』(河出書房新社)
奇想コレクションシリーズにふさわしい、まったく奇妙な味わいの短編集。私はこの作家は初めて読んだが、実のところどう感想を書いたらよいのか戸惑ってしまう話もいくつかあるのである。オックスフォードの哲学卒という学歴がありながら、薬物とアルコール中毒で入院していたが、やがて立ち直って作家となった。長いジャンキー歴の経験は麻薬や犯罪、精神科医などの描写に、時には読むのが苦痛になるほどのくっきりとしたリアリティを与えていて、リアルなままであまりにも突拍子のない方向に話が展開していく。この話の動きに途方にくれさせられる感覚は、似たものをほかに思いつかない。楽しいとか愉快とかいう意味ではまったくないが、このめまいのような感じは面白い。

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ジェロルド・J・クライスマン、ハル・ストラウス 『境界性人格障害のすべて』(VOICE)
磯部潮 『人格障害かもしれない』(光文社新書)
 最近は人格障害についての本も、発達障害と同様、次々と出版されるようになってきたように思う。最近読んだところではこの二冊が興味深かった。境界性人格障害については、当人や周囲の人々との交流を踏まえて書かれたメイスン&クリーガーの本はやはりもっとも包括的で参考になるが、このクライスマン&ストラウスはオーソドックスなスタイル、すなわち専門家から見たケーススタディとして充実した一冊である。巻末の日本の状況を踏まえた日本編集の対談も参考になるが、やや本体からは浮いた感じもする。磯部の本は、人格障害全般について分かりやすく書かれているし、人格障害が疑われる有名人について書かれた部分は、読者をひきつけるだろう。もっとも自分が人格障害かもしれないという人がこれを読んで、なるほど自分は人格障害であったと受け入れるかどうかはわからない。

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デイヴィッド・ヒーリー 『抗うつ薬の功罪』(みすず書房)
 SSRIやSNRIが新世代の抗鬱剤としてもてはやされるにいたった背景が良くわかる本。抗鬱剤としては今日わが国でもSSRIやSNRIは第一選択で使われるようだが、副作用が少ないといわれていたにもかかわらず、自殺衝動を高める危険性が長い間隠蔽されていた。その理由はどこにあって、またそのようなことがなぜ、どのように行なわれたのか。自身医師として抗鬱剤を処方しつつ、丹念な検証によって製薬会社が提示するデータの無効を明らかにし、法廷にも客観的な立場で立つ。しかし、この著者のような人々に対抗する製薬会社の戦術は巧妙で、被害者は苦戦を強いられる。法廷闘争のあたりはまさに手に汗握るばかりだ。薬害の告発だけでもこの本は読む価値があるのだが、しかし私が真に考えさせられたのは、医師が処方箋を出さないと薬が買えないというのではなく、患者自らが薬を選んで使うようにすべきだという主張である。薬には危険な側面があるから、医師の処方箋によらないで安易に薬が流通するようでは困る、というのがこれまでの常識であろう。しかし、薬を医師任せにしてはいけないというこの考えは、常識を覆すものだ。薬物濫用の危険を考えると、なかなか同意しがたいのも事実だが、医師と患者の支配被支配関係を突き崩し、医師・看護士・心理士や薬剤師などをアドバイザとして自分の病気をみずから管理するこれからの患者像のラジカルな一面を見た思いだ。

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有田芳生 『私の家は山の向こう』(文芸春秋)
「テレサ・テン十年目の真実」と副題のついた本書は、ジャーナリストである著者が長い時間をかけて書き上げた、テレサ・テンの生涯の記録である。その死や、スパイ疑惑がマスコミをにぎわせたために、アジアのスターであったテレサ・テンのイメージが日本では捻じ曲げられてしまった感があるが、死は喘息発作によるもの、スパイ疑惑も根拠がないことが、取材によってほぼ確かめられている。しかし、著者が力を入れているのは、あくまでもテレサ・テンの人物像を明らかにすることであって、そのことが結果的に、センセーショナルな疑惑を晴らすことになるのである。すばらしい才能に恵まれ、国を思い純粋に行動した真のスターの姿には、常識を超えたものがあって当然なのだと思う。幸せな結婚はできなかったし、純粋に中国のことを思うがゆえにトラブルに巻き込まれてもいるが、それでこそ真のスターだ、と言いたくなるものがある。歌う、ということはこういうことなのだ。付録のCDに収められた「我的家在山的那一邊」を聞けば、国歌をちゃんと歌っているか見張るなどという愚行とは対極の「歌」が、ここにはある。その思いが胸に迫ってくる。

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岸本佐知子 『気になる部分』(白水社)
 しばらく前に私は「コガネムシは金持ちだ、金蔵建てた蔵建てた」について、某所に書き込みをした。あの唄は何故あれほどに暗いのか、もしかして私の知らない2番あたりで、せっかく小金をためたのに意地悪なカブトムシに食われてしまったとか、そういうオチがあるのではないかとひそかに思っていたのだが、調べてみたら野口雨情の詞で、続きで子どもに水あめ買ってきて食べさせるという、えらく子煩悩な唄だったのである。つまりまあたったそれだけの、しかしなんとも意外性のある歌なので、まあそれなら暗かろうが明るかろうが、どっちでも良かったかもしれない。「森の熊さん」もずっとヘンだと思っていた。追いかける気がないなら最初から逃げなさいという必要がないだろう、と。これも調べてみたら、もとの唄では逃げるなら逃げてみろと挑発して追いかけてきた熊さんに食われてしまうというようなものだったらしく、となるとつじつまが合ってしまって、なあんだ、というところだが、この歌の翻訳に当たっては、いろいろといわくがあって、そっちのほうはなかなか面白い。  とまあ、なぜこんなことをだらだら書いたかというと、この本の著者もほとんど同じようなことが気になっていたらしいからである。タイトルと表紙絵がピンと来て手に取った本書は、ちょっと変わった外国文学を、いくつか訳している翻訳家のエッセイだった。翻訳家の本は、先に沼野充義『屋根の上のバイリンガル』が面白くて感想を述べて以来かもしれないが、この人もまたかなり面白い人のようだ。実はこの本を読む前に、女性の考えすぎについての本(これもいずれ感想を書くかもしれない)を読み始めていたからで、こっちはとんでもなく考えすぎていくうちに、とんでもなく面白くなってしまう話なので、のめりこんでしまった。この人の頭の中では、フツウの人には起こらないことがいろいろ起こっている。だからフツウの人に起こっていることをフツウのことではなくしてしまうこともできる。七夕の短冊の鑑賞のようなことは、私もたまにやることがあるが、ここまで毎年の楽しみとして昇華させるようなことは、さすがにフツウはできないであろう。考えすぎる人は、たとえば子ども時代などはつらいだろう。しかし、うまく自分に向いた仕事を見つけることができれば、人生の楽しみは豊かだろう。翻訳家という職業は、考えすぎる人に向いているのかもしれない。

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マイクル・スワンウィック 『グリュフォンの卵』(ハヤカワ文庫SF)
 おもしろい。現在最も本格的でアクティブなSF作家の一人の、待望の日本独自編集による短編集。SFのさまざまなモチーフを取り入れつつ、ひねりの利いた落ちのある短編に仕上げる力がすごい。たとえばタイトル作。危機に瀕した小さなコミュニティが団結して事に当たろうとする、というネタは古典的で、読み進めるにつれてこのノリはアナクロだなあといったんだまされてしまうのだ。しかしこの落ちはひねくれている。このパターンは「ウォールデン・スリー」や「ティラノサウルスのスケルツォ」にも通じている。一筋縄ではいかないのだ。SFの予定調和に引っかかりやすい読み手にはかなりの快楽を与えてくれる、粒よりの短編集だ。

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久保田麻琴 『世界の音を訪ねる』(岩波新書)
ワールドミュージックを紹介した評論家や音楽家は多いが、中でも精力的にアメリカ、アジア、アフリカなど各地を飛び回り、現地での発掘やプロデュースを手がけてきた著者の活動の幅広さは、本書によってはじめて知ったことがほとんどで、まさに驚異的。私にはエルフィ・スカエシのアルバムが印象に残る程度で、ここで紹介されている多くの音楽家は分からないので、特に南米音楽への無知もあって、幾分か文章を追うのが厳しいところもあったのだが、ますます興味を引かれたのは事実。おまけのCDはとても気持ちがよい。このところの通勤の友である。

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生島浩 『非行臨床の焦点』(金剛出版)
法務省から大学教授となり、非行臨床の現場経験から理論展開を進める著者の論集。今回特に興味を持ったのは、学校臨床の現場にスクールカウンセラーとして実際に入って、事例報告をしている部分である。私は著者と席を並べてカウンセリングを学んで、多くのことを教えられた経験を持つが、こうして学校での事例に触れて述べられる理論も、著者の従来の主張を裏付ける結果になっていて、さすがである。

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藤原正彦 『国家の品格』(新潮新書)
 考えていることには、おおむね共感するのだが、それも読み流している限りにおいてで、というのも言いたいことはノブレス・オブリジェ万歳の一言で片付いてしまう程度のことだからだ。ご本人は自由や民主主義を否定しているので出す前は怖かったと言うようなことをテレビで言っていたが、むしろこの時期にこの内容は、十分に地ならしをされたところに完全に流行りに乗ったというべきだろう。それが見えていなかったとすれば、この浅い読みやすさも、さもありなんとは思う。読みやすいのは単純な割りきりが多いからで、思想への批判も浅薄で断定的、例証は自身の体験にもとづくものも多く参考になるし面白いことは確かだが、論旨とのつながりはご都合主義にすぎる。自由・平等や民主主義がフィクションであることはもちろん当たり前なのだが、カルヴァン主義と切って捨てるのはいくらなんでも雑。新渡戸武士道が本来の武士道とはかなり異質であることを分かっていても、でも好きだからという展開はむちゃくちゃだ。芸術や道徳、日本文化のすばらしさも、欧米人にほめられたからという話が多いし、他のさまざまな文化との比較にも乏しい。おそらくはサピア=ウォーフ仮説がらみで知ったであろうイヌイットの雪の語彙の豊かさの話をしていながら、なぜ感受性において「日本人がとりわけ鋭い」となるのか。いくら論理より情緒といっても、整合性がなさ過ぎる。この人は数学者であるが、ということは仕事は論理に貫かれているのだろうが、それでむしろ情緒なんて気楽に好き嫌いで語ってかまわないとでも思っているのではないか。情緒と論理という二元論にそもそも問題があるのだ。それだからこそ情緒的なものが失われてきたし、そこから手立てを見出すことができなければ結局取り戻すことはできないだろう。年齢的にはもうご意見番の域に近いのだと思うが、もう少し鋭い、活きのいいところを期待していただけに拍子抜け。でもこれが百万部売れたのだ。こういうことを書いている自分のほうが、著者よりもよほど怖がっているのだ。

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長山靖生 『不勉強が身にしみる』(光文社新書)
 件のベストセラーの中身のなさにげんなりしていたところに、この本を読んで気分を取り直した。本書も教育、倫理、歴史などそれこそ流行のテーマを正面から扱っている。本職は歯科医であるから、畑違いという点では件のベストセラーと同様だ。しかしこちらは、論理がまっとうな上に、教養の深さは並大抵ではない。藤原の哲学思想の記述は高校レベルだが、本書は実に幅広く、洋の東西の哲学や文学を深めていると感じる。格が違うというべきだ。まずはその原点から考えているので、はっとする記述にしばしば出会うし、ブックガイドも親切だし、面白い。若い(といっても40代半ばだが)著者だけに語り口も軽やかで、けっこう難しい内容なのに、すっきりと読ませる。教育や歴史や倫理を、専門家ではない人の目で語ることの意味がここにはよく見出せると思う。それはつまり原点に立てるかどうか、ということである。専門家の意見だからよいわけではないのと同じ、いやそれ以上に、専門家でない人の意見にはかなりレベルの差がある。その違いは、自分に都合の良いところをつぎはぎして専門外のことを利用してはいないかというところから来ると思う。まあこれだけの内容ながら「不勉強」というような態度にこそ、ワタシは品格を感じるのだけれどもなあ。

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