バックナンバー(06年1月〜3月)




ゼナ・ヘンダースン 『ページをめくれば』(河出書房新社)
 出れば必ず読んでいる「奇想コレクション」シリーズ、独自編纂の短編集。ピープル・シリーズも含むこの作品群には、作者の教師としての視線が強く感じられる。それも、子どもの悲しさ、大人の、とりわけ教師の無力さ、それをあわせたところに浮き出す人間のはかない輝きのようなもの。フェミニズムの立場からあら捜しをしてけちをつける向きもあったようだが、それは間違っているだろう。ここにはその時代のあえて言うなら「女教師」としての生き方が見えるからこそ、非現実の中に現実が際立つのである。それこそあえて言うならSF嫌いの女子にこそ読んでいただきたい名作である。

ページの先頭へ

ヘルマン・ヘッセ 『シッダールタ』(草思社)
 先日、あるインド哲学の先生と話をした。彼はある機会に、ブッダは死後の世界、極楽なんかがあるとは考えていなかった、と一般の人向けに話したら、高齢の方から長文の手紙が送られてきて、そんなこととは知らなかった、今日から自分はどうやって生きていったらよいのか、と抗議されたというのである。哲学にせよ宗教にせよ、実は文学並みに、そこには厚い解釈の地層がある。だからどの地層年代を発掘するかで、出てくるモノはまるで違うのである。山の上から貝殻が出てきても、今の人は驚かないが、同じようなことが哲学や宗教で起こると、けっこう驚かれたり、怒られたりする。かつてオウム真理教の関係者たちがテレビに出てしゃべっていたときにも、たとえばブッダは出家しろといっていたので、出家した子どもを返せといわれても困る、というようなことを教団のスポークスマンのような人物が言っていたのを聞いて、まあそれはそうなんだけどな、とテレビを見ていた私も困ってしまったのを覚えている。私が困ってどうする、と言われればその通りだが。
 ヘッセのシッダールタは、まず読むものを困惑させる。シッダールタがブッダだと思って読み始めるわけだから、主人公の「シッダールタ」が「ガウタマ」と出会うあたりで「え?」と戸惑うことになる。もちろん、シッダールタはブッダとは別人、とさらりと解説されてはいるのだが、しかしたとえばニーチェのツアラトゥストラが歴史上のツアラトゥストラとは異なるという明確さとはかなりちがって(しかし落ち着かない気持ちで読んでいるうちにツアラトゥストラを連想して、ああそういうつもりで読めばよいな、と落ち着いたのも事実)、微妙な重なり合いというか表と裏というか、垣間見える異次元の世界というか、そうしたブッダでないけれどもブッダであるかのような、存在の危うさが、快くもあり、不安でもある。むろん、ヘッセがユングの影響を受けたとするならば、このシッダールタはかのシッダールタの、元型としての「影」と解釈してしまえば、なんとなく判ったような気になってしまう。しかし、それではせっかくの快さも不安も薄れてしまう。山の上から貝殻を掘り出して「ああ地殻変動ってヤツだな」と納得してしまうのは、やはりつまらない構えなのだ。

ページの先頭へ

C. ウィットベック 『技術倫理1』(みすず書房)
 来年度の講義のテキストを物色した。科学・技術、工学にかかわる倫理のテキストだが、結局は定番の本書に尽きる感を強くした。日本人の著者による工夫を凝らしたテキストも増えてきて、正直なところ学生さんたちには身近なケーススタディのような内容のほうがとっつきやすいのかもしれない、という迷いもあるのだが、結局のところ単にコンプライアンスに頼ろうとするのではなく、本来的に倫理判断を迫りたくなってしまうワタシとしては、たとえば「選好と価値の区別」を最初にきっぱりと定義しようとする本書などのほうが潔くて好きなのだ。「倫理」が「工学」に使われていて、政治家が政治倫理を語るようなが浅薄さが見え隠れするものもないわけではない。生命倫理にも、バイオテクノロジーの発展を目的としてバイオエシックス(まがい)が構成されるようなすり替えが起こっていることがある。もちろんこれは、工学系の学校で教えるワタシには悩ましいことではあるのだが、学生さんたちは何をどのように考えるだろうか。さてさて、新年度が非常に楽しみである。

ページの先頭へ

三谷幸喜 『オンリー・ミー 私だけを』(幻冬舎文庫)
 これは三谷幸喜の最初のエッセイ集だそうだ。著者が文庫版のあとがきに書いているように、もしかすると熱心なファンが読めば違うかもしれないが、最近書かれているものとまったく変わりない面白さである。とらばーゆ連載分の第一章が量も多くメインで、もちろん面白いのだが、ばらばらの寄せ集めらしい第二章が突き抜けている。冒頭の夏の思い出二本、女性関係の三本は、どれもあまりにも恥ずかしくて、こんなにも恥ずかしい天才がいるんだなあ、と目が開かれる思いで笑える。疲れたときに笑える本は何冊かあるが、疲れ果てて本を読む気もしないときに無理やり読むことによってまだ果てるところまでは来てはいなかったなあと確認できる、数少ない一冊である。

ページの先頭へ

オリビエーロ・トスカーニ『広告は私たちに微笑みかける死体』(紀伊国屋書店)
 受験シーズンの最中、車内広告も予備校や塾がしのぎを削っている。一昨年だったか、あんまりなコピーにうーんこれはあまりにもベタだがここまで言い切ったところはなかったなあ、と感服した予備校もあったが、これも去年気がついたように思うが中にひとつ、どうにもこうにもひっかかるものがある。どう考えても、この広告を見たらむしろ受験生はここに行くのをやめるのではないか、と思われる、まあ要するにとんでもなく頭の悪そうな広告である。しかしとにかく、あまりにも気になるので、ネットで検索をかけてその予備校の背景などを調べてみて、ああそんないわくがあったのかいな、などと妙に納得したりもしたのだが、しかしいずれにせよ、その広告は私の気を引き、関心を持たせ、その広告主について調べさせたことは確かだから、広告としては成功しているのかもしれないのだ(しかし調べるとあまりプラスになる情報が出てこないのはやはり成功とはいえない気もするのだが、さらに深読みすればああだこうだと文句をたれずにこの広告でこの予備校を選ぶような受験生に来てほしいのかもしれないと思えばやはり成功なのだろう)。話は変わるが昨今のNHK騒動、受信料を払うの払わないのという直接的な抵抗の仕方は、民放にはまったく効かないのだよなあ、ということにも思い至る。もちろん、民放はタダではない。膨大な広告料が企業からつぎ込まれ、その費用は消費者が支払っているわけだから。そのテレビ局は見ない、という抵抗をしても、視聴率調査の対象になっていないウチが見なくたって屁でもない。気に入らないスポンサーの商品は買わない、といったって、ひとつの番組にたくさんのスポンサーがつき、ひとつのスポンサーはたくさんの番組を提供していて、そもそも覚えてすらいないし、どのスポンサーも幾つもの局に金を払っているわけで、このリスク分散の前には抵抗の手段は見当たらない。さて、この本の著者はあのベネトンの広告を企画したカメラマン、といえば、私のようにファッションにはほとんど関心のない人間でも知っている、あの一連の広告キャンペーンの仕掛け人である。彼はまず、広告の死を検証する。そして、その復活の唯一の方法を示す。私は読書と音楽が好きだから、こんなサイトを作っているわけだが、メディア産業は本からも音楽からもハイリスクなメッセージ性をできる限り排除することで、商売になる本や音楽を生産し成り立っている。そんな状況で、まさにそのマーケティングの最前線である広告そのものに、目を反らせたい現実に否が応でも目を向けさせてしまうメッセージ性をぶち込むという、とてつもないことをしでかしてしまったのだから、これはすごい。そんな著者でも、ちょっと日本のことを買いかぶっているのではと思わせる箇所もあるのだが。最後にこれだけはどうしても言いたいのだが、サラ金のテレビCMが垂れ流しなんてのはどうかしている。

ページの先頭へ

アレッホ・カルペンティエール『失われた足跡・時との戦い』(集英社)
 古書で手に入れた「ラテンアメリカの文学3」だが、なぜいまさらというと、私はこの『時との戦い』のほうを国書刊行会のフランス装の洒落た本で持っていたのに、友達に貸して返ってこないままになっているという(そして何せもう四半世紀前のことゆえたぶんもう返ってこないだろうという)いきさつがあるからである。そしてこの『時との戦い』、装丁は諦めるにしても、収められている短編「種への旅」が大好きで大好きで、もう一度読みたい、と時々思うのだが、いっこうに再発されないのである。思ったときに手元にないのがどうにもならない。ようやくこの全集モノのバラが古書に出ていたのをタイミングよく手に入れられて、いつでも読めるようになった。カペリャニアス侯爵家のドン・マルシアルが死の床についてから生を受けるまで(もっと前まで、というのが正しいが)の話。いつ、何度読んでも、やっぱり面白い。こんなに巧みな物語を結局いまだに私は知らない。

ページの先頭へ

吾妻ひでお 『失踪日記』(イースト・プレス)
 ワタシと同世代のSFファンで新しい『奇想天外』あたりを読んでいたクチなら、吾妻ひでおの漫画の洗礼は必ず受けていて、美少女好きの傾向も持ち合わせているだろう(というのは決め付けすぎ)。当時からけっこうプライバシーもネタになっていたから、破天荒な人だというのはわかってはいたけれど、この作品で実際にホームレスしていたり配管工していたりアル中で入院していたりの実話の数々が、紛れも無い吾妻ひでお漫画として描かれていると、もう面白くて仕方がない。保護された警察の「H田」さんとか、ついつい社内報に漫画を書いてしまうとかいったほほえましいエピソードばかりでなく、どうしようもない配管工仲間やアル中の面々も、どこか不思議な親しさというか、「ああこういうやつ、いるいる。やなやつだよなー」と思いながらも笑ってしまうのだ。適応力があるのに不適応というところが吾妻ひでおらしさ。そういうひとも、たしかにいるいる。

ページの先頭へ

西原理恵子+母さんズ 『ああ息子』(毎日新聞社)
『毎日かあさん』の反響の大きさで、募集した「息子ネタ」から厳選再構成。いやあこれは壮絶。例を挙げてしまうとネタバレだから困るが、ウチの息子たちもそれぞれこれらに匹敵するような面白いことやとんでもないことのいくつかはあるけれども、足元にも及ばないような剛の者というかありえないガキたちにはこれもまた笑うしかない。難しい理屈を言えば、この中のいくつかの例は「特別支援が必要」だったり「臨床的に気になる」ようなケースもあるのだろうが、要するにそんなこといっていないで、いろいろなこどもたちがわらわらとそのあたりにたかっていておとなたちがぎゃあぎゃあと文句たれていればそれでよかったのかもしれないのだ。西原マンガや挿絵ももちろん満載だが、ラストにほろりとさせられる短編というのもわかっていながらまたもやほろり。しかしその後の編集者のあとがきにこの書名の由来があって、これは最後の楽しみに取っておこう。

ページの先頭へ

P. T. メイスン&R. クリーガー 『境界性人格障害=BPD はれものにさわるような毎日をすごしている方々へ』(星和書店)
 高機能自閉症、学習障害、注意欠陥・多動性障害などの、軽度発達障害についての理解と支援は、もちろん始まったばかりだが、ようやく緒についたことは喜ばしい。だが、教育の場で相談をしている者として、これで最大の難物が残ったという実感が私にはある。それは、いわゆるボーダーラインに代表される、深刻なパーソナリティ障害への対処である。教室が荒れるとき、軽度発達障害の子どもたちが苦しんでいるのに対して、教師は対処方法を学んだり用意したりすることが可能になってきた。それでもどうしても荒れを収めることができないとき、そこにはパーソナリティ障害や行為障害が絡んでいることが極めて多いと思われる。十代後半くらいになると、非常に困らされるのだが本人はいたって悪気がない、しかしいくら言い聞かせても繰り返し振り回される、そんな感じを持つことになるだろう。そしてこれは、まったく素人の手には負えない。
 本書は、境界性人格障害を持つ人、そしてそれ以上に、境界性人格障害を持つ人の身近にいて苦しんできた人々にとって、福音ともいえる一冊である。WEBを通じての交わりを通じて得られた、多くのBPDやnonBPDの人々の証言が交えられ、臨床とつながり、問題解決を見通すまでがつかめる。家族やパートナーに理不尽に支配されているのでは、という感じに付きまとわれている人は、ぜひ読んで、ピンと来たら何とか機会を見つけて、その家族やパートナーと一緒に読んでみるべきである。

ページの先頭へ

金森修 『遺伝子改造』(勁草書房)
デイヴィッド・S・ムーア 『遺伝子神話の崩壊』(徳間書店)
いわゆるサイエンス・ウォーズ論争についてはあまり詳しく知らないし、実際には、遺伝子改造がそのまま現在のさまざまなパラダイムに直結するタイプの思考実験はほぼ無意味だと思う。教育との関連で見ても、たとえば「国語の遺伝子」や「数学の遺伝子」や「社会科の遺伝子」があるとは到底考えられないからだ。だから、仮に人間のある種の才能が特定できるような遺伝子が見つかるとしても(その可能性がどれほど考慮するに足るのか、私には見当がつかないが)、それに対応するような教育システムを再構築するとすれば、おそらくきわめてラジカルなものになるはずで、何がわかるのかわからない状況での「遺伝子改造」に対応した教育を構想するような思考実験の意味は、おそらく非常に小さい。かつて斉藤貴男『機会不平等』で紹介されたとおりだとすれば、江崎玲於奈がなぜこの程度のことも踏まえないで発言をしたのか、専門バカにもいろいろな程度があるが、これまで見てきた限りではいわゆる理科系の人々は慎重で、逆に哲学者たちの中にはしゃいでいる人たちを見ることが多かったように思うのだが、ちょっとひどいな、と感じたのは正直なところである。そういう意味で、この二冊は並行して読むのがお勧めである。知的興味をそそられるのは、もちろんムーアの本のほうだ。自然なるものの意味の奥行きはとんでもなく深い。金森の本にももちろんいろいろな意味で考えさせられる。遺伝子はわれわれにもっと人間的な問いを突きつけるという意味で、哲学的であるというべきなのは確かである。たとえば、ある遺伝子操作によって、人間の免疫力が増し、おそらく感染症に由来するような医療費が削減できるとする。それだけなら、それは経済の問題であり、持てる者と持たざる者との対立という軸である。しかし、仮に同時にある遺伝子のセットがはたらいて、病気には非常に強いがきわめて見た目が凡庸で似たような姿態の人間ばかりになるとする。そこではどのような選択が可能になるのだろうか。こういうことを考えるのは確かに面白いのである。

ページの先頭へ

村上宣寛 『「心理テスト」はウソでした。』(日経BP社)
 タイトルはセンセーショナルだが、内容は村上先生独特のヒネリの効いた書き振りを楽しませてくれつつも、いたってまっとうなもの。血液型性格判断、ロールシャッハ、内田クレペリン、YGの虚妄を、実際のデータを上げながら実証的に明らかにしつつ、統計学の初歩的な理解があれば振り回されるはずのない、定評あるテストのいかがわしさに、みんな使っているからという程度の惰性で気づかない怠慢を突いている。SPIについてもチクリ。もちろん、まともに作られたまともなテストは、まともな使い方で使う限りは役に立つ。これまでの臨床心理の世界というのは実に怪しいところだった。精神医学もEBMの考え方で大きく変わってきた。臨床心理の世界も変わりつつあることを歓迎したい。

ページの先頭へ

三浦展 『下流社会』(光文社新書)
 社会調査に基づく階層意識とマーケティングの話か、と思って読み始めるのだが、実はこの本はなかなか奥行きが深いのだった。最初のうちは、いかにも商売の話かと思って読む。次に、データが面白い。そうだろそうだろ、と思っているうちに、最後には下流社会のライフスタイルに不安が強まる。「機会悪平等」の提言にいたって、深く共感を覚える。本書の中でも、決して下流社会のライフスタイルを頭ごなしに否定しているわけではないのだが、そのはしばしには、そのようなライフスタイルをあたかもよきもののように称揚してきた風潮の欺瞞への鋭い批判もあって納得する。雑誌の紹介などでもこの手合いのものがあるから、実際に手にとって最後までしっかりと読み解くべき本である。

ページの先頭へ

村川堅太郎編 『プルタルコス英雄伝』(ちくま学芸文庫)
森達也・森巣博 『ご臨終メディア』(集英社新書)
リリー・フランキー『増量・誰も知らない名言集』(幻冬舎文庫)
 プルタルコスの英雄伝、いまさらだが、この文庫版だと上中下3巻になるその上巻に収められているのがギリシアの政治家たちである。私は最近の時勢を薄ら寒い、というよりもはや凍えそうに感じつつ過ごしているが、そんなときにアリステイデスのエピソードを思い出す。
 古代のアテネには陶片追放(オストラキスモス)という制度があった。プルタルコスによれば、これはもともとは「民衆のねたみをなだめるための心こまやかな工夫」だった。投票が実施されると、市民たちは追放すべき権力者がいる場合は陶片にその名を書き込んで投票する。総数が6000票を超えた場合、投票は有効とされ、その中でもっとも多く投票されたものが10年間の追放を受ける。しかし財産は没収されないし、国難にあたっては有能と目されるものが追放を解かれることもあった。
 さて、政界にあってアリステイデスは、その人格から「正義の人」と呼ばれ、時の権勢をふるうテミストクレスと対立していた。そんな折、陶片追放が実施された。一人の、読み書きができず無教養な男が、通りがかりのアリステイデスに声をかけた。男は陶片をアリステイデスに渡し、「これに、アリステイデスと書いてくれ」と頼み込んだ。アリステイデスは驚いて、「アリステイデスは、あなたに何かひどいことでもしたのかね?」とたずねた。男は答えていった。「いや、なにもありはしねえ。だいいち、おれはそんな男、知りもしねえ。だが、どこいっても正義の人、正義の人って聞くもんで、うっとうしくてならねえ」。これを聞いて、アリステイデスは自分の名前を陶片に書いて、男に渡したという。
 正しいものがうっとうしい、という風潮は、民主制爛熟期のアテネにも充満していたようである。そんなときに力を持ってくるのが、俗悪の居直りであり、感情の煽りであり、威勢のよさにくっついていく衆愚政治であろう。このアリステイデスのエピソードは、たとえばイラクの人質事件や、「人権派」に対する風当たりなどのときに思い出されるが、なんか最近は思い出しっぱなしのような気がする。そしてこのような状況を作り出す装置としてのマスメディアの暴走にはあきれ果てる。感情を煽り、憎悪を掻き立てて商売する。このあたりを、ごくごくまっとうに考えれば『ご臨終メディア−−−質問しないマスコミと一人で考えない日本人』はいちいち頷ける内容である。最後の最後の付記で引用された世論調査結果、「これほどに自民党が勝って不安だ」68%。「今さら何言ってやがる。投票したのは誰だよ。」まったくそのとおり。情報の少ない時代ではない。大量の情報に煽られる時代、衆愚も暴走する。
 そんなときに、名もない人々が放つ強烈な一発で口直しがしたくなったなら『誰も知らない名言集』。ここに出てくる人々を一くくりにはできないが、しかしあまりにも迷走していて暴走はできそうにない人々がまだまだいっぱいいるなあ、と感じ入ってしまうのは、安堵なのか逃げなのか。

ページの先頭へ