バックナンバー(05年9月〜12月)




白石昌則・東京農工大学の学生の皆さん 『生協の白石さん』(講談社)
 ウチの息子が農工大工学部の学生なので、受験のころにどれどれと農工大のサイトを覗いているうちに、行き着いた生協のページの一言カードが面白いので、全部見てしまったことがあった。最近、なかでも今年から農工に着任された「白石さん」の名回答を取り上げた学生さんのブログが大人気になっていることを知った。この学生さんのコメントも素人離れした気の利いたもので、これまた感心。そうこうしているうちに、なんと本になってしまった。
 ブログで親しんでいた内容も、こうして本になるとどうしてもライブ感が薄れてしまうのだが、外部のものが「一言カード」のリアリティに触れるには、生協のサイトが一番。白石さん以外の方の回答にも面白いものがあるからでもあるが、いかにも忙しい仕事の片手間らしく、変換ミスだらけなのだ。私が好きな変換ミスは、「以前は悔いを安く売っていた(処分品だと思います)ようですが、今後もないですかね?」というやつだ。本にも収められているが、誤変換が「白衣」と直っているのでいまいち。ほかにもけっこうすごい誤変換があるので、楽しみ倍増。ぜひお試しください。ただし本の78ページ「裁くのは俺のスタンド」は、サイトでは「スタンダード」ですが、これは本が誤植だと思う。白石さんのまじめな文章からもいろいろなことがわかるが、生協の採用試験のエピソードや、デザインを募集して作った牛柄のクラッチバッグがよく売れた話も面白かった。息子に聞いたら、友達は田舎のお母さんに牛柄バッグを頼まれて送ったとか。けっこう有名らしい。
 まああまりたいそうなものに祀り上げないほうがよい、ということは、白石さんはじめ関係者みながわかっているところで、これで東京農工大が東京農業大と間違えられることがちょっと減ってくれて、生協斡旋の沖縄ツアーの売れ行きがちょっと上がったりすればよいかな、といったところだろう。いくらこの本が売れても、生協の店舗は「紀伊国屋みたい」にはならないと思うし。そんなわけで、この「白石さん現象」も、いろいろ気軽な楽しみかたがあるし、息子は大学が大好きのようだし、農工大は牛もいて(農学部キャンパスのほうだが)なかなかいいところみたいだ。ワタシも来週の学園祭に行くのが楽しみだ。

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アヴラム・デイヴィッドスン 『どんがらがん』(河出書房新社)
まさに「奇想コレクション」シリーズにふさわしい一冊。冒頭ユーモアSFの定番のような展開の「ゴーレム」も、老人や人種や子どもなどの弱者へのまなざしがあることを思えば、たとえばまったくSFではない「物は証言できない」にせよ、ニューウエーヴSFも顔色なからしむる「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」にせよ、デイヴィッドスン以外には絶対に書けない小説として楽しめる。そしてそこにある漠然とした不安が、何か彼自身の人生を予感させるようなところも気になる。それにしても会話の絶妙さ、細部にこだわる描写が、おそらく居並ぶ名翻訳家たちの苦心の結果であろうが、悪文で知られるにもかかわらず不思議なのになぜか見覚えのあるような風景が目に浮かぶ。

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武部隆 『自閉症の子を持って』(新潮新書)
 目に見える障害と、目に見えない障害がある。自閉症はスペクトラム障害だから、重度の自閉症から、健常とのボーダーラインまで、幅の広い程度がある。そして、高機能自閉症などの軽度発達障害は、障害が「軽度」であるがゆえの苦労があるということがわかる。まずなんといっても、乳幼児健診で見過ごされがちであり、発見が遅れることがある。親の心も揺れ動く。専門家によって診断がつくまで、またついてからですら、適切な療育プログラムにつながりにくい。さらに、障害自体が周りの理解を得ることが非常に難しく、しつけや育て方の問題だと非難されやすい(もっとも、そういう誤解や偏見は重度でもつきまとうのであるが)。この本は、マスコミ勤務の著者が、一人の父親として、子供の障害を受け入れ、夫婦で望ましい子育てを手探りで切り開いていく様子がありのままにつづられていて、共感すると同時に、職業柄もあってか社会と障害者の関係を考える視点を思い出させてくれるところもよいと思う。冒頭紹介される「孝行糖」の落語は知らなかったが、たいへん興味深かった。今はなぜこんなに余裕のない社会に成り下がってしまったのだろう。

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アレステア・レナルズ 『啓示空間』(ハヤカワ文庫SF)
いやあ面白かった。文庫版で1000ページ超というのは反則技だ。異世界の古代文明を発掘するコロニーの反乱は、人類出現以前の宇宙規模の戦いに結びついていく。宇宙史のスケールの大きさ、天文学者らしいリアリティ、畳み掛けるような展開の速さ、これでもかと注ぎ込まれる有名SFネタの数々で、もうSF読みのツボ押されっぱなしだ。関連作品や続編も展開されていながら、この一冊のエピソードは分量もあって十分満足できるもの。しかし冒頭のイラストはなくもがなだ。

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リリー・フランキー 『美女と野球』(河出文庫)
リリー・フランキーという人を知ったのは、水曜日の夜にテレビでやっているバラエティをたびたび見ていて、面白いコメントをする人だなあと気になったのが最初で、最近までこの人がどういう人なのか、よく知らなかった。朝のニュースの企画で中野美奈子アナウンサーが取材しているのを見て、あああのイラストを書いている人か、とちょっとわかってきた。仕事場で寝転んで「どうですか中野さんも」と腕枕に誘ったのが面白かった。『東京タワー』がベストセラーで、しかもすごく泣けるらしい。しかしどうもベストセラーというとなかなか買えない自分は、文庫化されたばかりの、90年代の雑誌連載エッセイをまとめたこの本を読んだ。もちろん最初はタイトルに惹かれたのだけれど。もうとても面白いのだけれど、「オカンがガンになった」には笑えて泣けて困った。東京タワーとはこのことだったのか、と合点もいって、これはきっと読んだら本当に泣けてしまうのだろうなあ、とワクワクしている(が、きっと読むのは忘れたころだろう、と思う)。ワタシは泣くのは好きだし、人には「これは泣けるよ」と薦めるくせに、「泣ける」といわれるのは苦手でキャッチコピーなんかに使われていた日には普通はゲッとなる。でもきっとこの本はすごく好きな本だと思う。さて読んでいない本の感想はこれくらいにして、この本である。まず個人的に思い入れのある地味な場所が登場するのが奇妙な感じである。豊島園グラウンド、東京タワーの見える病院、双子を集めた学校、などなど、詳細は省くが、まったく別々の理由でよく知っている場所だったりするのである。そんなあちこちで、ぜんぜん自分と重ならない人や出来事や興味関心がわきあがったり通り過ぎていったりしているのだなあと思う。それから規格はずれの人々がいっぱい出てくる。そんな人たちが、規格はずれのまま面白かったり悲しかったりバカだったり腹立たしかったりする。すごい人も出てきて、そういう人はやっぱりすごい。セックスやウンコや差別についてあれこれと言い切る著者の言葉が、実はとても普通の感覚のはずなのにとりわけさわやかに思えてしまうのには、どうも胸騒ぎがする。

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マイケル・マーシャル・スミス 『みんな行ってしまう』(創元SF文庫)
SFホラーといわれればそうかもしれないが、全般にあまりSFとは感じられず、しかしホラーとしては非常に面白かった。SFっぽいところでは「地獄はみずから大きくなった」だろうが、これは正直なところありきたりな展開だ。あからさまに怖いモノが出てくるよりも、この作家が描く、現実がどんどんねじれていくような感覚で、行き着く先のちょっと手前で立ち止まるような話が怖いと思う。「闇の国」、「家主」や「見知らぬ旧知」などがまさにその極致。ケンブリッジ出らしいシニカルな味わいも楽しみの一つ。

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ダグラス・アダムズ 『宇宙の果てのレストラン』(河出文庫)
 銀河バイパス工事のために、始まってまもなく地球は爆破され、銀河大統領ゼイフォードにナンパされていたトリシアと、じつはベテルギウスあたりの出身で著名な銀河ヒッチハイカーであるフォードの友人だったアーサーの二人だけが生き残る・・・。すっかりカルト化した超名作、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画公開に併せて、この続編も新訳発売だが、なぜか本編のほうは品切れ。なんとも間が悪いというかやる気がないというか、あるいはなにかトラブルか。新潮文庫版で読んだことはあるはずだが、映画は面白かったようなそうでもないような。というのももともとがラジオドラマの破天荒なユーモアSF、説以上に話し言葉の面白さがポイントであるし、映像化されたものを目にして楽しめるかどうかも鍵だ。ディープ・ソートのデザインはとても気に入ったし、ヒロインはじめ登場人物はけっこうイメージどおり。ヴォゴン人も悪くない。鬱ロボットのマーヴィンがちょっと頭でかすぎだけど。ヒッチハイクガイドの画面も凝っていたし、天体工場の場面はSFXとしてもかなり上質だったのではないかと思う。そんなわけでさすがに、作り手の愛と熱意はひしひしと伝わってきた。しかしやはり、ものがものだけに、壮大な実験であったということになるのかもしれない。それにしても銀河大統領はいかにとんでもないことをしでかして民衆の目を権力から反らせるかが重要だったり、ヴォゴン人の官僚的な仕事振りや重要事項は目立たないように公示しておくやり口なんか、じつは笑い事ではないのだが(スターウォーズEP3なんかもそうだったけどどうしても最近のご時世と重ねてしまうんだよね)・・・。さてこの続編だが、小説で読む限りはヒッチハイク並みに面白いと思う。解答が先に「42」と示されてしまった宇宙の究極の「問い」が、ついに明らかにされるのだが、これがまた想像を絶する・・・。イギリス風ユーモアがお好きな方には欠かせないシリーズでしょう。また映画の話に戻ってしまいますが、予告編で『ディープスロートの真実』が流れたのはできすぎでした。

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リチャード・モーガン 『オルタード・カーボン』(アスペクト)
 上下二冊セットの箱売り、価格もそれなりだから、なんとなく買いそびれていたが、ようやく読んだ。人格のデータ保存と肉体のクローン培養が完成された技術として存在する未来、事実上の不死を獲得した人類の世界が舞台である。SFのガジェットにセックスもヴァイオレンスも満載、これだけの分量だから、SFアクションとしてはうんと楽しめるのだが、しかしこれだけの状況設定でも人間はエスカレートした暴力やセックスに現を抜かしているのかい、とふと醒めてしまうと、意外なほど古めかしい小説に思えてしまったのもホンネ。フィリップ・K・ディック賞受賞作は私にはあまり楽しめた記憶がない。これも映画化予定らしいが、私が見たくなるような作品にはまずならないだろう。

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T. E. カーハート 『パリ左岸のピアノ工房』(新潮社)
 幸せな小説を読んだ。これはピアノの小説である。私はピアノはマトモに弾けないし、聴くほうでもそんなにピアノに興味はなかった。しかし息子たちは、二人ともピアノを習わされた。長男は、結局ものにならなかったが、私は発表会で子ども向きにアレンジされたハンガリー舞曲を親子連弾という趣向で弾かされたのが、良い思い出になったし、長男も音楽の知識は身についたから、高校からバンドをはじめ、大学生の今ではギタリスト兼ベーシストとして盛り上がっている。次男は、中学三年生の今でもレッスンに通っている。じっさい、聞いていてなかなかうまいと思うのである。息子のピアノを聞くことは至福である。狭いマンションで、ふすま一枚隔てて息子のアップライトピアノがある。息子が練習をしているそのピアノを枕元にして気持ちよく昼寝ができるのである。さて、この小説、舞台の中心はパリの裏通りにひっそりと店を開くピアノ修理店。しかしそこはピアノをめぐって人々が集う特別な場所でもある。やってきては去っていくありとあらゆるピアノについての薀蓄、演奏家から調律師、主人公を含めたアマチュアの愛好家が、パリの街の日常の中に描き出される。主人公がすばらしい中古ピアノに出会い、ちょっと無理をしてピアノを買って、あらためてレッスンに通いだすのはとてもよくわかる。物語にはあっと驚くような出来事も、どんでん返しもない。現れては消える一つ一つのピアノをめぐるエピソードが豊かに広がっていくばかりだ。音楽と幸せの相関関係がよくわかる。

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岩村暢子 『〈現代家族〉の誕生 幻想系家族論の死』(勁草書房)
 何かの書評で本書に関する記事を見て、アレッと思ったのは、当時ほぼ専業主婦状態だった妻がこの調査に協力していたのを思い出したからである。食事の写真を毎日取る、というもので、メニューが多少よそ行きにならないかい、などといいながら、しかし確かにいつもどおりの食卓に甘んじていたものであるが。まずこの調査結果からは、明らかにとんでもないメニューが、遠慮なく飛び出してきたのであるが、そのこと自体は予想通りといえば予想通りだった。日曜日のお昼の番組の一コーナーで、若い女性にメニューを言って作らせ、どれぐらいの割合で作れるかというものをよく見ていたが、これも同趣向だろう。しかし、本書での考察は、さらに踏み込んだところにある。それは、調査対象の親世代への調査を通じて、「今の」若い世代が料理というか食事に無頓着になったのではなく、すでに母親の世代から日本の食は崩壊しているのであり、その結果母親世代は娘世代にそれを伝承しなかったということを示している。つまり、日本の食を作っていた世代は、戦争を挟んで貧しい食を経験し、戦後格段に豊かなアメリカの食を経験し、結果、日本の食を知ってはいた(つまり伝えられた)けれども、娘世代には伝えなった、という、段階的な崩壊が考えられるというのである。このことにはなかなか説得力がある。そういえばあの昼の番組でも、とんでもない料理を作り上げた娘のお宅を訪問し、母親に作ってもらうという企画がたまにあるのだが、見たことのある限りでは、母親は上手に作っていたのである。さて、著者らはさらに、ここから「娘に教えない母」の出現に考察を進めるのだが、ここに示された親世代へのインタビュー分析からどこまで言い切れるのかどうかは判断がつきにくい。とはいえ、伝統と思い込んでいるものも、所詮は「やや長めの流行」程度のことに過ぎない場合があるのは、おせち料理の考察でもよくわかる。新保守主義にだまされないようにしたいものだという教訓はこんなところにも読み取れる。

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鈴木邦男・斎藤貴男・森達也 『言論統制列島』(講談社)
戦後アメリカではナチズムの心理学的な研究が進められ、「権威主義的性格」や「独断主義尺度」などおもしろい研究がたくさん出てきた。社会心理学ではこの手の研究は今でもわが国でもたぶんけっこう行われているのではないだろうか。しばらく前に読んだ論文では、「文脈仮説」というのがあって、社会的に支配的な考え方に対して批判的な態度をとる傾向の強さという尺度の妥当性を検討していた。保守-革新という対立軸が本質的なものではないことは、たぶん心理学者たちには常識なのだと思う。そういうことを学ぶ機会が高校までにはまったくないことが実はけっこう問題だと思うのだが。 前置きが長くなったが、ここでは左翼と言われてしまう斉藤・森と、右翼の鈴木が、共感的に語り合っているのがいたって自然な風景になっている。語られていることは、ほぼすっかり、私がここで語ってきたことや考えていることと同じだ。日本は明らかにおかしなところに向かっていて、しかもそれはかつて向かった方角だ。先頭に立っているやつらがイカサマ野郎なのも、それについていくほうが簡単だからついていく人たちが多すぎるのも同じだ。かろうじてこのような本が売れていけば、少なくともまともに批判的な言説を共有できる人々も少なからずいるのだ、言うべきことは言おうという勇気をもとうと思えるのがせめてもの救いだ。

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広田照幸『教育不信と教育依存の時代』(紀伊国屋書店)
ああまたやっちまったよ教育談義。いやまあ、ワタシはこれが商売ですからね、仕方ないんだけどさ。なんていうかさ、たとえば居酒屋があるじゃない。居酒屋の主人と客がさ、居酒屋のあり方について議論するとするでしょ。でも仕入れとか料理とかアルバイトの使い方とかさ、客は知らないわけじゃない。いやもちろん、それでも議論するのはいいわけよ、主人はそこからなんか繁盛するヒントがもらえるかもしれないからさ。でも客の言うこといちいちしたがっていたらきりがないわけでしょ。うまい魚を安く食べたいと。そりゃーねお客さん、仕入れ値ってモノがあるわけでサ。バイト君の時給もね。で、あまり高かったら、いくらうまくたってお客さんにこんな風に一日おきくらいには来てもらえなくなっちゃうじゃないですか、せいぜいがんばってますよ、それじゃあまあちょっとホラ、タタミイワシのいいのが入ったから、サービスしちゃいますよ、おっとそりゃどうもねえ、じゃあまあもういっぱいいっちゃうかな、あいや、次は梅割で・・・なんてところで落ち着くでしょうよ。でもこの業界はそうは行かないんだな。果てしなく客の言い分を聞く。原価割れした分は身銭切ってたらさ、この商売は、つーかどんな商売だって続かないんだよ。・・・とまあ、へんな話しちゃいましたが、本書は著者の講演や寄稿をまとめたもので、一般向けだったり、逆に業界向けであるがゆえに、わかりやすく、単刀直入なところもさらに冴えて、説得力のある内容になっていると思う。それに、父親としての顔ものぞくのが、共感を呼ぶのだ。教育社会学、社会史の立場からの堅実な教育研究。

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保阪正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)
先日テレビで靖国問題の討論を見ていた。戦犯合祀の問題になると、靖国シンパは感情が高ぶってくるのがよくわかるのだが、評論家が戦争責任は玉ネギの皮むきなんて言い始めちゃたまらん。いまさら一億総懺悔か、玉ネギだってラッキョだって最後まで剥いて中身がないとボケるのはサルだよサル。人間は同じ皮でもどのへんから食えるかわかるだろうって。もちろんボーダーライン上というのはあるにしても、政局や戦局に応じて、とんでもないことをしたやつはある程度は特定できるのだ。こういうとてつもないご都合主義の言説が共感を呼んでしまうのか? というわけで、「おとなのための歴史教科書」という副題は、押さえの利いた本書の内容にふさわしい。というのも右も左も「ガキのための歴史教科書」で大騒ぎしてきたからだ。あ、ガキというのは生徒のことじゃないです。どうしても自分の言い分を聞いてもらいたいという青臭さや生臭さを抑えきれない書き手たちと、仲間が見つかってよろこんでつるむ読み手たちの、オトナコドモのことですよ。

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玄田有史、小杉礼子 『子どもがニートになったなら』(NHK出版)
はやりモノに疎いワタシは、ニートというコトバを恥ずかしながら面談のクライアントから教わった。ふーん。というわけでわかりやすそうな本をいくつか読んだのだが、いつものパターンでもうすぐに「何でもニート」になっちゃっていた。名づけるというのは安心の第一歩、たぶん人間が言葉を獲得して以来の常套手段である。そんな状況で、本書は関係者の対談集なので、独り歩きを始めてしまったニートをきちんと問題化するための、いくつかの異なった視点を俯瞰するのに便利な本にはなっていると思う。で、ちょっとこれは拡散しすぎてしまって、案外早く使えない言葉になってしまうかもしれないという予感がする。働かない若者にはいろいろなタイプがありすぎる。でも率直に考えたいのは、働かないでも食べていけるのだから働かない、というのであれば、これは文句言えないのではないか? ということなのだが。

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