バックナンバー(05年5月〜8月)




コリイ・ドクトロウ 『マジック・キングダムで落ちぶれて』(ハヤカワ文庫SF)
面白かった。人類は不死を獲得し、他人からの好感度の数値が財となり、人々はオンラインで結ばれている。そのような社会で、少々規格はずれの主人公が、アトラクションごとに自主運営されているディズニーワールドで、ホーンテッドマンションを管理する若い女性と暮らしている・・・というような設定なんだけど、わかります? ローカス賞受賞などSF界での評判も高いが、アイデアの新しさよりもありきたりの人間の行動がSFの設定の中でどのように展開していくのかが楽しめるこのタイプの小説が評価されるのは納得がいく。

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内田樹、春日武彦 『健全な肉体に狂気は宿る』(角川oneテーマ21)
夏休み中、テレビで「はなまるカフェ」を見ると、ついその後の「渡る世間は鬼ばかり」を見始めてしまい、腹立たしくなってやっとテレビを消すということが何回かあった。金八先生もそうだが、話の内容がどうこういう以前に、とにかく人物がみなしゃべりすぎでとてつもなくうるさい。人間、腹に収めるものは収めておかないと、ろくなことにならないという教訓がハシダドラマの唯一のテーマだと固く信じてきたのだが、本書にも「家族の対話は少ないほうがいい」などという節があって、わが意を得たりというところだ。合気道を教える仏文学者(なのかな?)内田樹という人は知らなくて、春日武彦の名で買ったのだが、この内田先生が饒舌で、春日先生が精神科医らしく聞き役に回っているところなんかもメタ的な面白さかもしれない。読んでいて思うのは、身体感覚を鈍らせて、氾濫し浪費されるしゃべりに振り回されているのが今の状況だ。言葉というよりはしゃべりだ。しゃべりだから論理よりも突出した発語の印象が状況をかき回すし、込み入った論理よりも人を動かす。厭な時代だねえ。

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飯田則夫 『TOKYO 軍事遺跡』(交通新聞社)
敗戦の夏の読書に最適。戦争を考えるだけではなく、実際に身近な軍事遺跡に足を伸ばすならば、その思いも深まるだろう。意外なところに意外な来歴があったりするのも興味深いし(九段会館はあの日本遺族会が運営しているなど)、いまや少なくなった、当時を知る人々のインタビューをできるだけ挟み込んでいる気配りが取材の厚みを思わせ、モノクロの写真のイメージとしっくりとかみ合った文章の手ごたえを増している。ところで読んでいてとても懐かしい名前に出会った。陸軍気球連隊の格納庫が、焼け出された東千葉駅近くの院内小学校の校舎に使われていたという一節。私は父が転勤族で、新入学したばかりの小学校をわずか二週間で転校するのだが、その短い期間を過ごしたのが院内小学校なのである。新品のランドセルのベルトが硬くてあけられず、べそをかいていたところを、新一年生の世話役に教室に来ていた5年生か6年生のやさしいおねえさんがあけてくれたのが、ほとんど唯一の思い出である。というのはあまりにも個人的な話ですが。このような軍事遺跡が次々に姿を消していくというのは、非常に残念である。身近な戦争の記憶は、身近なところに留めておきたい。

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高橋哲哉 『靖国問題』(ちくま新書)
これもこの夏の読書には絶対はずせない一冊である、などというまでもなく、かなり売れているらしい。靖国とは何か、それが果たしてきた役割は何なのか、本書はコンパクトでありながら明快に解いている。とにかく靖国には、日本人であっても天皇にたてついた戦死者は祭られないし、どんなに嫌がっても天皇側に立った戦死者は勝手に祭られてしまうのである。中国があれこれいってうるさいからイケイケ小泉!程度の認識で靖国参拝を肯定している向きには、まず本書に書かれている内容を理解してから態度を決定してほしいと思うが、対外的にはA級戦犯分祀あたりで落ち着くにしても(それすらも実現しそうな気配はないにせよ)、もともとの信教の自由にかかわる問題としても首相の公式参拝なるものが本来ありえないはずの出来事であるという認識にきちんと立たなければならない。哲学者らしい普遍的な目配りにも感銘を受けるが、この問題は十重二十重に織り重なっているものの、それを解きほぐすのは実はあまり難しいことではない。肝要な糸の一筋を引けばするするとほぐれるのである。しかしある人々がやり続けてきているのは、雑な暴論でそれをぐしゃぐしゃに絡め、手をつけられなくすることに他ならない。

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菅野覚明 『武士道の逆襲』(講談社現代新書)
なんの修飾もなく「武士道」という言葉が使われたとき、引き合いに出されるそれは新渡戸稲造の『武士道』であることが多い。しかしそれは、明治期に西洋思想に対抗するために描き出された「明治武士道」の一変奏にすぎない。本書はその指摘に始まり、在りし日の武士たちに見出される本来の武士の生き方をたどり、『軍人勅諭』が武士道本来の徹底した個人主義を否定しつつ、やがて明治中期に大和魂と明治期武士道が創作され、国体思想に合一されていくプロセスが解明される。それにしてもこの明治中期以降の武士道ブームという現象は、今日のネオ保守が作り上げる日本の「伝統」の復興と同時に、和魂洋才や井上哲次郎の言説のように、本来全体性において成り立っている存在なり思想なり生き方なりを都合よくかいつまんで剽窃し使用する姿勢にも共通性はないか。武士道を越えて心配になる逆襲である。

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伊藤隆・御厨貴・飯尾潤 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)
ある教育実践家の自伝的な文章を読んでいて、その人がかつて学園紛争のリーダーとして活躍していたことを知り、人をひきつける力があるとはどういうことなのか、なんとなく腑に落ちたところがあったのだが、この今をときめく悪役の「ナベツネ」が学生時代は共産党細胞として活躍していたあたりを読んで、さらに合点がいった。もちろんまるで畑違いの人たちだが、そのリーダーシップに加えて、後にはむしろ保守(あるいは新保守といってもよいのだが)的な立場に立って、まず「敵」をよく知っているということも共通する。「反体制」の側が何をどんな風に考えるのか、おそらく手の内がわかるのである。部厚のインタビュー集であるが、まずかなり楽しく読み終えたことは言っておきたい。政治記者として政治家に食い込む力はすごいから、著者の語る政治家の姿は迫真である。それだけに政治家や政策についての評価も率直で、メディア経営の立場にたってもその延長上に立っていることを公言してはばからないことが、「ナベツネ」に対する賛否両論を引き起こすのだろう。
 私は読売新聞や産経新聞(最近オピニオンではなく景品のスヌーピーで釣ろうとしているのはどうかと思うが)を支持することはないだろうが、だからといって朝日新聞や毎日新聞もちゃんと批判的なのか単に立場が別というだけなのかといえば後者だろうと思うし、それぞれの新聞がどういう立場で報道しようとするのか関心をもつとあれもこれも読まなくてはならないわけで、メディア企業のあり方として新聞社や雑誌社の報道姿勢につねに気をはって付き合っていかなければならないとすれば、これはもう満足のいく仕方で「新聞を読む」という行為はほとんど不可能になるのである。高校の授業でもメディアリテラシーを扱う上で新聞の見出し比べなどするのだが、実生活に当てはめたときにはほとんどありえない行為ではないか。一方で、ニュースという意味ではテレビやインターネットのほうがはるかに多く接するようになってきている今、世論形成の上で、新聞というメディアや新聞社という企業が、どれほどの影響力を持っているのか、逆に極端に言えば単に尻馬に乗って勢いづいているにすぎないのか、あるいはもっと複雑な形で世論形成の網の目の中に、何ほどかのポジションを占めて収まっているのか、たとえばニューライトの風潮などについて検証するとどうなるのだろうか。

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本田靖春 『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)
「ナベツネ」の自伝を読んだあとで、読売新聞社会部を飛び出し、ノンフィクション作家といわれながらも生涯「社会部記者」であろうとする著者の遺稿集にはまった。これはまた部厚い。根っからの東京人であった「ナベツネ」とは、またまったく育ちの違う著者が、戦後民主主義の中で読売新聞社会部の黄金時代を駆け抜け、やがて読売新聞社のあり方に強く反発して独立するいきさつが、ありのままにつづられる迫力がすごい。「黄色い血」キャンペーンのためにみずから売血に乗り込み、肝炎を患うことになる。正力松太郎への反発にも共感。もし社員があそこで皆踏ん張っていたのなら、「ナベツネ」も跳ね返せたのかもしれないが。
 ところで、ふと思ったのだが、こんな記述が出てくる。
「読売の記者というのは、自虐的というのか、自分の社を笑い物にして、ワッハッハと喜び合うのが常であった。私は読売のそういうところが好きだったのだが、全国紙の体裁を整えていくにつれて、そうした気風が失われていったような気がする。」(p.419)
 ここで「自虐史観」への非難を思い出す。東京裁判が無茶であれそれを受け入れて独立を果たしたことを受け入れざるを得ないとすれば、東京裁判がまことにすばらしいと思っているよりもあんなもの受け入れちまったと嘆いているほうがよほど自虐的だと思うが、それはさておくとして東京裁判は茶番かもしれないが(それは裁かれるべきものにおいて裁かれないものがあったこと、裁かれるべきでないものにおいて裁かれたものがあったこと、なおかつわれわれがみずからの手で裁きを完結させなかったことを言っているのであれば、私も同感であるが)、その茶番を受け入れたわれわれを十分に笑うところから始めてどこがいけないのか。自虐は自己を相対化し、思い上がりを鎮め、気持ちに余裕をもたらす。わたしはもし戦後日本に自虐の笑いがなかったら、この国を好きになることはなかったであろう。いまや自虐の笑いがない人たちは、他虐の笑いをする。にやにやして答弁する首相の姿は実に不快だ。私はそういう人たちが嫌いだし、日本がそういう人たちの国になってきているのが本当にいやだ。
 私生活の波乱も隠すことなく、闘病の苦痛はさらりとやり過ごし、だからなおさらに体を切り刻みながらの絶筆には迫力がある。今日の日本の現状に対する指摘はいちいち同感だが、たとえば「無知がまかり通っている」こと、やはりこれはとんでもないことだ。580ページ以上の大部だが、勢いですぐに読み終えるだろうから、これまた夏休みの読書にいかがか。

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マーガレット・ドゥーディ 『哲人アリストテレスの殺人推理』(講談社)
私の卒業論文はアリストテレスの倫理学だったので、こんな趣向の小説を見かけたら読まないわけにはいかないではないですか! 著者はカナダ生まれの英文学者で、アリストテレスの推理小説シリーズは各国でちょっとしたベストセラーになっているらしい。私は推理小説はあまり読まないので、この作品の謎解き部分がどれほど優れているのかはわからないが、古代のアテネを舞台にした小説として大変面白く読んだことは確か。殺人犯の汚名を着せられた国外追放中のいとこの疑いを晴らすべく、アリストテレスに相談しながら奔走する主人公の人物像が好ましく、登場人物のそれぞれの人柄もうまく描き出されていると思う。史実の細部にこだわると小説としては煩瑣で面白みを殺ぐかも知れず、さてそこはもともと古代ギリシア好きの私は公平に判断できないかもしれないが、読み手の興味をさそうようにたくみに表現されているように思う。というわけで偶然に出会った小説としてはまずまず楽しめた。

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吉村作治 『ミイラ発見!!』(アケト)
先日機会があって吉村作治の講演を聴く機会があって、そのときに購入してサインしてもらった本。さすがに話はうまかったし、この本も面白くて堪能しました。正直なところ、私はピラミッドがエジプトの王様の墓だと、講演を聞くまでずっと思い込んでいたが違ったのですね。死者はちゃんと地中に埋葬するのでした。完全に封印された状態でミイラを発見するのは至難で、これまで10体もないという大発見を果たした著者の、エジプト学との出会いから今日までの足取りが綴られているのだが、学問の世界、大学の社会、海外の人々とのかかわりの中での苦労がよくわかる。考古学には運もつき物とはいえ、その運を掴み取るだけの八面六臂の活躍ぶりというか行動力はすごい。この世界は浮世離れやがむしゃらさが必要なのは確かだが、しかし著者には、世話になった人間をとことんまで面倒を見る人情の厚さがあって、そこに感銘を受ける。

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細見和之 『ポップミュージックで社会科』(みすず書房)
「ドナドナ」は売られていく牛の唄ではなく、強制収容所に連れて行かれる家族のことを歌った・・・のでもないのだが、しかしユダヤ人強制連行を予感させる唄ではあったのだ。ジャニスイアン、ジョーンバエズなど、アメリカにはプロテストソングの歴史が積み重ねられてきた。そして日本にも、実はそんな流れは確かにあったのだ。ということが分かる本。市民向けの講義をまとめたものなので、語り口が分かりやすく、なかなか楽しめる本だった。つくづく日の丸君が代問題の時に「歌うとはどういうことか」という観点が攻める側にも守る側にもあいまいだったことをあらためて思う。黙って読むことと、声に出して語ること、さらには節までつけて歌うということの違いに無頓着ではいけない。だから多分、言いたいことがあったら書いてないで言わなきゃダメだ。そしてできれば、歌うことだ。私たちはもっと自分の唄を歌うべきだ。

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シオドア・スタージョン 『輝く断片』(河出書房新社)
奇想コレクションシリーズにまたまたスタージョンの短編集が登場。先に『時間のかかる彫刻』で書いた感想と、まったく同じ答え、つまりここに描かれるのは愛の皮肉、生と死の皮肉。これはだから「面白いのか?」と尋ねられると、面白いのだが、これを面白いというにはちょっと思い切りがいるかも知れないという面白さだ。その中でも「ぶわん・ばっ!」のような音楽ネタで楽しめるのが(話はとんでもなく暗いのだが)「マエストロを殺せ」だろうか。

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サンプラザ中野 『大きな玉ネギの下で』(講談社)
ウェブ連載していたという青春恋愛小説。もうこの青春恋愛小説というのが普段なら気恥ずかしくてとても買えたものではないのだが、この小説の舞台となる「嗚呼! 武道館」の1985年12月13日金曜日の爆風スランプの武道館ライブは実はちょっと思い出があったりして(約一ヵ月後に結婚する妻と行ったのね(^^;。サンちゃんが「二階席の皆さ〜ん、見えますかあ!」と声をかけてくれました)、しかも巻末付録に「嗚呼! 武道館」「無理だ! 決定盤」「大きな玉ネギの下で」3曲入りCDまで付いているもんだからつい。お話のほうは、もうまじでこれは青春恋愛小説でした。とても恥ずかしかったけれど、爆風スランプの歌は青春恋愛ソングで、でもよかったのですよねえ。そういえばビデオも持っているのだった。近々、音楽鑑賞の日本のバンドのページに取り上げることにします。

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ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー 『DNA (上)・(下)』(講談社ブルーバックス)
ファインマンのエッセーを読んで以来、気の利いた話が書ける科学者の本は、とんでもなく面白いんだと思った。まあそれはいろいろあって、なんだか有名な学者が人生訓みたいなのを並べているようなとんでもないものもあるけれど、専門分野について書いているうちにどんどん筆が滑っていくようなのは本当に面白い。もちろんDNA解明のストーリーは読み応え十分だが、それにかかわっている科学者たちのエピソードがまた実に面白い。それにしても彼らの前に立ちはだかる政治的な規制と、経済的な規制・・・。前者は宗教的な、と読みかえることができるし、後者は企業的な、と読み替えることができるだろう。たとえば組み換えDNAについては、ワタシなどもついつい神経質になってしまうところがある。それでもなお、たとえばヴェルッチ市長のような反・科学の政治にもまた危惧をもつものである。もしこれらを包括して科学の方向を見据えるとすれば、実は政治的でも経済的でもない、つまり宗教的でも企業的でもない、倫理的な解決策(たぶん今風に言えば、公共哲学の視点からの解決策)に道があるはずだろう。

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