バックナンバー(05年1月〜4月)




佐藤卓己 『言論統制』(中公新書)
 この本の感想は、なかなか書き始めることができずにいた。戦時中の言論統制は、単純に、メディアが善で軍部が悪、という図式で捉えやすいし、そうはいっても戦争協力して大本営発表を華々しく一面で伝え続けたメディアの罪を問うとしても、今ひとつ「仕方がなかったんじゃない?」といういいわけがささやき続けるところもあった。しかし、あとから読んだ『靖国問題』で戦時中の宗教団体の戦争協力についてもう一度考え直したとき、それでもなお戦争協力に抗い続けたわずかな例外を思い、メディアの罪というものをもっと厳しく問うことと、我が国における大組織、つまり宗教団体にせよ会社にせよ、そういったものの言論的な弱さふがいなさについても考えることが、きわめて重要だと感じて、ようやくこうして書き始めることができた。
 本書は、丹念な資料収集に基づいて、言論弾圧というと必ずと言ってよいほど言及される鈴木少佐の人物像をたどりながら、戦時中の言論弾圧の実態を可能な限り明らかにしようとするたいへんな労作である。まずはこのような著作が新書という気軽な形式で読めることに感謝したい。鈴木は出身も貧しく、学校でも苦労し、軍部でもエリートからは遠く、しかし窮めつけのまじめな努力家であった。頭の固い人物ではあったろうが、弱者への共感は深い人に思える。このような人物を巧く使って、軍部はメディアとの交渉を進めたわけであるし、メディア側も戦中戦後を通じてそこに免責を求め続け、反省を見せかけながらもメディアのあり方自体には自らの血を流すことなくやり過ごしてきた。
 そのメディアのあり方であるが、本書を読むなり昨今のメディア産業の動向を見るなりして思うのは、まず、言論の自由は国民一人一人の権利として語られるべきところが、メディア産業や言論人の活動の自由という側面にのみほとんど偏ったところで語られているのではないか、ということである。イラク人質事件のときのバッシングを思い出すまでもなく、どのような立場でどのようなことを言うのも個人としては自由であるが、何の後ろ盾もない個人の言論にたいして、メディアの言論の圧倒的な抑圧力は、政府の冷笑的な態度を後押ししてまさに戦時中の図式を形成していたのではなかったか。どんな政府のどんな発言であっても、基本的には批判的な姿勢態度が取れなければメディアとしての信頼など存在しないのであって、それは個人の政治的信条と同じレベルでは語れない、メディアの機能であるはずだ。そういうメディアはどこにあるか。
 鈴木少佐をスケープゴートにして言論弾圧の図式を単純化してしまうことの罪過は甚大である。その認識に加えて、苦学の人鈴木倉三の不遇を思うならば、国家と個人の関係がいつのまにかすり替えられていること、つまり主権在民というあまりにも当たり前のはずの前提が現実には崩れ去っていることへの危機感を深めずにはいられない。原則を確認しないままの憲法論議はあまりにも危険だ。9条のつじつまあわせをやっているうちに、するりとすり抜けた何かがとんでもないことを起こすぞ。

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ヘンリー・ジェイムズ 『ねじの回転』(創元SF文庫)
いま、この小説を、何の手がかりもなく読んで、どんな印象を一般的に抱くのだろう。あまりにも有名な作品なので、私もこの待ち望まれた改訳版を書店で見かけて、普段は手を出さないホラー系と知りつつすぐに買い求めて読み始め、評判どおりの作品であることは再認識したのだが。プラグマティズムの祖でありつつ神秘体験にも傾倒していく心理学者ウィリアム・ジェイムズと兄弟のヘンリー・ジェイムズらしいといえるのか。単純に読めば、出来事に比べてあまりに回りくどい描写ともいえてしまうし、その回りくどさを時代的な表現的制約と受け取ってしまうかもしれない。端的に言って、そんなに怖くないや、ということになってしまうかもしれない。しかし、「書く」ことよりも「書かない」ことによって何がより濃厚に表現されるか、ということに気づかされつつ、説明過剰と饒舌にうんざりしている自分がいつのまにか物語に引き込まれていることに気づく。書かれないこと、そして書ききらないことの意味が迫る。やはり一度は読んでおくべき作品であり、しかも一度読んでしまったらたぶん二度と忘れられない作品であるから、たしかにこれはとてつもないホラーなのだ。

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シオドア・スタージョン 『時間のかかる彫刻』(創元SF文庫)
サンリオ文庫版『スタージョンは健在なり』待望の改訳新版。スタージョンが沈黙を破り発表した中短編集。冒頭の中篇「ここに、そしてイーゼルに」は、もっともスタージョンらしい饒舌と皮肉が込められた作品だが、饒舌のあまり冗長といえば冗長で、たぶん他の短編の方が楽しめるという読者も多いのではないかと(私はそう)。他の作品には少しずつ重なり合って共通のテーマが巧妙に織り込まれていく。愛の皮肉、生と死の皮肉、テクノロジーの皮肉。読み終えて気がついてみれば、「ジョリー、食い違う」や「自殺」などは、まったくの普通小説だ。後味はけっして良くなかったはずなのだが、なぜかもう一度食べたくなる。

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アンソニー・ウェストン 『ここからはじまる倫理』(春秋社)
この本は初学者向けの倫理学のテキストである。倫理学の初歩というと、どうしても倫理思想史のおさらいをしたくなるが、本書の視点はまったく違っていて、おそらくごく普通の人が出会うはずの倫理的問題に、どのように取り組むべきであるかを、平易かつ明晰に説くという姿勢に徹している。倫理思想史的な参照は示されているので、あとは読み手に任されている。自分で考え、問題を創造的に解決しようとすることにおいて、非常に前向きに、倫理学を使うことができると分かる。二値的考えや水平思考なども取り上げられ、心理学への目配りもあるので、訳者もあとがきで述べているが、コールバーグ理論への批判などは説得力がある。倫理学の授業テキストとしてぜひ活用してみたい一冊である。

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森詠 『少年記 オサム14歳』(集英社)
息子二人と付き合っていると、父親としての悩みや迷いは尽きない。長男の大学受験がひと段落つけば、中学生の次男と向き合って、何かと取りざたされることの多い14歳だよなあ、と考え込む。考え込んでいたら、当然のように目に飛び込んできたのがこの小説のタイトルだ。そのままではないか。普段手を出すことのめったにないジャンルだが、思わず買って読んでみたら、面白くてあっという間に読み終えてしまった。著者の自伝的シリーズの一冊らしいが、那須から黒磯へ転校したオサムの、中学2年生から3年生にかけての物語。学校に小使いさんや当直の先生がいて、脱脂粉乳が給食に出て、力道山がみんなのヒーローだった時代。クラスの委員で大人びたアキラの反骨、学校のワル近藤との果し合い、担任の大月先生や学年のマドンナ笹原への恋心、などなど。自分の14歳とも、次男の14歳とも違うけれども、オサムの14歳をワクワクしながら読んだ。次男にも読ませたいが、読めといって読む年頃でもないのだよなあ。

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野村総一郎 『うつ病をなおす』(講談社現代新書)
アメリカにおけるプロザックの爆発的普及以来、うつ病と抗うつ剤を主とした治療についての初歩的な知識はかなり一般の人々にも広まってきたように思う。しかし、インターネットを通じて抗うつ剤に限らずリタリンなどの薬物がやり取りされる状況もあって、素人考えで安易に薬物を試す危険も増大している。わかりやすいが、しかしレベルは落としていない解説書が必要である。本書はそんなニーズにぴったりの、今までありそうでなかった本。多年の臨床経験に基づく信頼の置ける内容はもちろん、うつ病にかかるのはまじめな、いいひとが多く、そんな人が苦しんでいるのを何とかしてあげたいというきもちで治療や研究に取り組んでこられた姿勢が伝わるのも、本書を読んでいてなんとなく好感が持てるところである。著者が「こころの科学」に連載を始めた「うつ病の真実」も楽しみ。

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吉見俊哉 『万博幻想』(ちくま新書)
愛知万博にも関係したことのある社会学者が、戦後の万博の歴史を追いかけながら、万博がどんな役割を期待され、果たしてきたか、読み進めるにつれて明らかになってくるのがスリリング。大阪万博は、私が中1のときで、毎年の父の田舎(福井)への帰郷のついでに見物した。会場の具体的な印象はもう残っていないのだが、とにかく帰省途中だから家族四人大荷物で、手荷物預かりが満杯で途方にくれたのを思い出す。時間も限られていたから、月の石を見るためにアメリカ館に並ぶわけにも行かず、ちょっと空いているパビリオンを急いで回った。覚えているのはドイツ館で、ラジオの音を使った即興の現代音楽を、当時持ち歩いていたソニーのカセットレコーダで録音して(よかったのか???)、帰ってからもしばらく聞いていたはずだ。ということは、あの体験は結構その後の音楽の嗜好に影響したのだろうか。さてしかし、山田洋次監督のえがく『家族』は、私たちのように仮にも会場に入り、真夏に大荷物運びながら会場を駆け抜けるだけはできた「家族」とは異なる、当時はまったく気づかなかった、万博を通り過ぎていった人々をすでに描き出していた。つくばの科学万博は、首都機能移転が幻に終わり学術だけを追いやってつじつまを合わせた研究学園都市のちぐはぐさを、沖縄海洋博は、「本土並み」の期待につけこんで沖縄の生活と自然をすっかり侵食した本土の欲望を、そして愛知万博は、海上の森の環境をきっかけに二転三転し、万博を口実に開発を進めようとする前世紀的な意図を押しとどめ、目論見をはずさせながら迷走するありさまを、それぞれ理解しておかなければならない。引用される多くの資料がまた興味深く、それらがそれぞれの万博の実態と、それらを貫く戦後政治経済の本音を浮かび上がらせていく様が鮮やかである。

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ロバート・J・ソウヤー 『ホミニッド』(ハヤカワ文庫SF)
面白くてあっという間に読み終えてしまうのだが、ちょっと物足りない。量子論的並行世界の設定と異種族の組み合わせは、一つ一つはそれほど目新しいネタではないのに、著者お得意の物理学と生物学の「一粒で二度おいしい」状況設定となる。人物のエピソードもさらりと流しながらたくみに個性化される職人芸。クロマニョン人ではなくネアンデルタール人が「大躍進」を遂げた世界の描写も巧妙。しかし、これだけ道具立てに凝っているのに、なんともったいないことにかなりあっけなく話が終わってしまうのだ。明らかに続編が予想されるとはいえ、ちょっと唖然。とはいえ、続編のための種まきはあちこちにされているから、それを楽しみに待つことにしよう。(でもホンネは、長編だけど続編書くから、うんと盛り上げた割りにちょっと落ちとしては小技だけど楽しみにしててね!という展開は、ほんとうはキライだ・・・)

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オーソン・スコット・カード 『消えた少年たち(上)(下)』(ハヤカワ文庫SF)
絶対に読むに値する小説。SFというジャンルに入ると言えば入るのだが、家族テーマの普通小説としての読みがたぶんいちばん大きい。子どもたちを大切に育てようとする親子がぶつかるありとあらゆる問題が込められていて、私はまず読んでいてそこここで同じ不安や怒りや悲しみを覚えて止めることができなかった。そのときの夫婦、親子、学校、地域社会の問題はまるで同じなのは驚くばかりだ。確かにここで、作者もそうであるが、夫婦がモルモン教であるという設定は重要ではある。その点が私がなんとなく読み始めるのに躊躇していた理由でもある。しかしまず引き込まれたのは、モルモン教徒、およびその社会の姿が、じつに分かりやすく書き込まれていることで、あまり使いたい言葉ではないが赤裸々といってもよいほどにその信徒社会の問題点も描き出されているのには驚いた。モルモン教徒であることが知られている斉藤由貴に解説を依頼しているところも興味深い。こうしてみると、信徒社会のありさまは、実は宗教による違いはあまりないのかもしれない。どこにも自己正当化や自我肥大のよりどころとして宗教を利用しているやっかいな人間がいて、しかも彼らは自分こそがもっとも模範的な信徒であると確信しているから始末が悪い。さて、そうはいってもストーリーとして引き込まれるのは、少年たちの失踪事件と、主人公夫妻の長男が結びついていく、サイコホラーミステリの展開が見事だからである。このあたりはネタバレになるのであまり書けない。でもちょっと書くと(これから読もうと思う人は以下読まないほうが良いかも)、怪しい人物は次々と出てきて、おそらくミステリ読みなら犯人は誰かということはかなり早い段階で気づくと思う。しかし、そのことが事件の全貌やクライマックスの悲しくも感動的なシーンにどうつながるのか、その興味はずっと続くだろう。本当にこのクライマックスは、悲しい、しかし感動的、しかし悲しい、・・・というおさまりのつかないものである。これは後味が悪いというのとも違うのだが、とにかく尾を引く。でもそこであらためて気づくのは、これは愛と信仰(特定の信仰をもっていないとしても、信仰を信念と置き換えれば同じことだ)の物語であったという、ずしりとした思いなのだ。

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永井明 『実録ぼくの更年期』(浩気社)
永井明 『適応上手』(角川ONEテーマ21)
最近、とみに年をとった感じがする。毎年、健康診断を受けているので、その限りでは取り立てて悪いところはないのは知っている。中性脂肪や、肝臓や、尿酸で正常範囲を出たり入ったりしていて、胃にポリープがあるので毎年カメラ飲まねばならないのは確かだが。考えてみれば、日ごろ一番悩まされている肥満、老眼、腰痛の三点セット、これは定期検診ではほとんど数字にならないのである。もちろん、体重や中性脂肪は、肥満と関係あるが、だからといって「要医療」の判定が出るわけではない。近視のめがねをして視力検査をするだけでは、調整力の衰えはあまり出ないようだ。腰痛に到っては、医者の気まぐれでアドバイスをもらうのが関の山。初老期のうつを心配して精神科にもかかってみたが、問診に答えているうちにお互いに診断は分かってしまう。つまり、忙しいのだ。念のためホルモンの検査もしたが異常なし。休めるときに休んでください、が診断で薬ももらえなかった。喜ぶべきことなのだが。物忘れがひどくなったかどうかは分からない。ときどきダブルブッキングしたり、人の名前が覚えられないことがあるが、これは前からそうだった。うーん、私は不健康だと思うのだが、データは指示してくれない。困ったものだ。
なんていう毎日だが、『僕が医者を辞めた理由』で知られる著者の実録更年期を知れば、まあこんなものだなあと、ほっとする。著者のように酒は飲まないが、うまいものには目がないので、その点だけはちょっと気になるが、あとはあまり気にしないで行こう。 『適応上手』もまた、ホッとする本である。住宅ローンだけはどうにもならないし(著者はローンで汲々とするくらいなら売ってしまえというが、価格が下落して売るに売れないのだ。虫ピンどころかボルトナットでがっちり固定されてしまっている・・・)、子育てが済むまでは耐えがたきも忍びがたきもがまんの子だが、がまんしなくて良いところはがまんするまい。
このご時世であれやこれやとうるさい毎日だが、楽しむことは楽しんでいきたいものです。

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北村稔 『「南京事件」の探究』(文春新書)
もう3年以上前の本だから、今はさらにいろいろなことが明らかになっているかもしれないが、いわゆる「南京事件」について、手軽に、かつもっとも堅実に基本を押さえるための本。堅実に、丹念に資料批判を行うという、至極まっとうなことをすることで何が見えてくるのか。補給もまともに考えない粗雑な戦略、情報工作への無知無策が、捕虜の大量処刑をもたらしたり、軍の統制の効かない部分が誇張されたり、勝てば官軍の極東軍事裁判に影響されて、30万人の大虐殺が仕立て上げられてしまった。「虐殺派」と「まぼろし派」の党派的な対立を超えて、数万人の犠牲者が生じた当時の状況を、まともな方法論で確かめていくことこそ、学者やジャーナリストに期待したいところで、われわれ素人をだましたり煽ったりするのではなく、深く納得させる本書のような仕事が、もっと出てきてほしいものだ。

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アレックス・シアラー 『スノー・ドーム』(求龍堂)
『チョコレート・アンダーグラウンド』がとても面白かったので、新しく翻訳が出た本書も期待して読んだ。期待以上だった。ちょっと変わった青年科学者の失踪から物語は始まる。そして、その青年が書き残した物語が繰り広げられる。絵描きの父親が突然失踪して残された少年と、彼を引き取る驚異的なミニチュア作りの天才との、奇妙な関係が、隠された秘密の周りを巡るように繰り広げられる。前作が世相を反映しているようにみえて、人間性の深いところでさめた観察眼を感じさせたところと共通して、この作品では、愛や嫉妬、所有や支配といった欲望を観察しきって、奇怪でありながら切ない人間像や関係の中に描ききっているように思う。展開にひきつけられてあっという間に読み終えてしまう構成のうまさと、繰り返し思い出してしまうほどの内容の深さが絶妙だ。ちょっとうるさいぐらいの側注は若い読者を意識したものだろうか。最近読んだばかりのエリザベス・ムーンの傑作のタイトル『くらやみの速さはどれくらい』にも通じる発想が描かれているのも、偶然とはいえ興味深い。

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赤川学 『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)
 結婚や出産が生物的であることを離れて、高度に政治的経済的なものになっているという前提に立つ事からはじめないと、少子化という問題を整理することはできない。著者は社会学者として当然、データの扱いをきちんとしていくと、少子化対策なるものがきわめて頓珍漢であることに行き当たっている。ワタシは経済学にはまったく疎いので、近年の少子化対策として出される政策が的外れであるとは思っていたというか確信はしていたが、それをどうしたらよいかについては根拠のある意見を持ち得なかった。とにかく、結婚して、子どもを生めば、うんと得をするようにしないと、このご時世「身を固めて子育てに勤しむ」気にはとうていなれないであろう、と考えていた。しかし、ひとつには、この観点に立つと、もう一方で男女の共生をうたっていることと真っ向から矛盾してしまい、真の意味での個人主義の価値を否定しかねないことと、もうひとつ、得をするといえるほどの優遇をするために必要な財政規模が膨大なものになるという問題が、本書を読むと指摘されている。前者については、新保守主義的な家族主義の対立軸なので、男女共生の立場もやや微妙になってきているかもしれないが、舵取りとしては若干右に寄るにしても、大胆に針路を変えるのは難しいだろう。後者については、数字で示されてしまうと黙らざるを得ないところがある。となると、可能な道はどこにあるか。少子化を受け入れた上での政策である。この場合、年金や公共サービスの水準を多少なりとも低下させることは受け入れなければならないし、制度の切り替えにあたっては若干の不公平が生じることもまたやむをえないけれども、長期的には不公平感がなくなることを目指すことになる。著者が紹介している「みなし掛け金建て」の年金制度はなるほどと思わせるものがある。というわけで結論にはまったく納得するし、あとがきに示される著者の哲学にも大げさに言えば感動させられるのだが、しかしわれわれの社会が前提としようとしている結婚や出産の生物的側面からの乖離が、依然として私には違和感が残ることから、まだまだ少子化社会という現象の成り立ちと成り行きには腑に落ちきらないところがある。しかしそれにしても、そもそも序章にいうところの「トンデモ少子化言説」が跋扈し続ける段階に留まる現実に立ち戻ると、少子化対策であれ年金改革であれ誰がどう責任を持って成し遂げるのか、暗澹たる思いにさせられるばかりである。

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