バックナンバー(04年10月〜12月)




帚木蓬生 『ギャンブル依存とたたかう』(新潮選書)
わたしの実家の最寄り駅は、できた当時は周りに何もなかった。やがて、ガード下になにやら店らしきものができてきて、何ができるのかなあと期待していたら、がっかりしたことに、パチンコ店だった。今住んでいる町にも、駅前の通りに何件もある。イモジャー姿のワカモノが新装開店前のパチンコ屋に行列。巨大な4WD車やベンツやアウディが駐車場にずらり。入りきらない車が駅前通に不法駐車。小さな子どもたちが店を出たり入ったりするのは親が連れてきているのだろうか。はっきり言うが、わたしはそういうパチンコ店の景色が嫌いなのである。さて、この本は作家で精神科医の著者が一般向けに書き下ろしたもの。ギャンブル依存は200万人と推定される。これは大変な数字なのに、きちんと調査されたことがない。それは、ギャンブル依存の最大の原因である「パチンコ」が、「ギャンブルではない」ことになっているからだ。とにかく、パチンコが目抜き通りにいくつも立ち並ぶ光景がいかに異常なものであるか、この本を読んでよく自覚した方が良い。本書は実際のギャンブル依存の治療がいかにして行われるかというところも、自助グループの紹介も含めてきわめて実践的に記述されているので、現実にギャンブル依存に苦しむ人やその家族にぜひ薦めたい。

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ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』(ハヤカワ文庫FT)
カリブの海についての現代の伝説を綴るオムニバスで、アメリカ人中年男性を語り手にしていてごく自然な感触。ラテンアメリカ文学の世界観に近づいては離れるような、なにか不安定な郷愁のようなものが漂う。作者はCIAの写真情報士で、女性である。しばらく正体を隠していたが(よく知られているエピソードは、最近のすばらしい作家はすべて女性である、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア以外は、とだれかが言った話があったが、誰が言ったんだっけ)、この作品は正体が分かってからの作品である。この短編集をどう読むかについては、解説に詳しいが、ファンタジーの扱いだが、読みの印象は普通小説だ。

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近藤康太郎 『朝日新聞記者が書けなかったアメリカの大汚点』(講談社+α新書)
 テレビニュースを見ていたら、大統領選挙後にカナダへの移住を希望するアメリカ人が増えたというレポートをやっていた。よく聞いていたら、増えたといってもそれほどの数ではなかったのだが、どこの国でも良識的な人というのは一定数いるわけで、そういう人の居心地が悪くなってきているのだなあ、という雰囲気は伝わってきた。たとえば何かときな臭い日中関係でも、双方にまあいろいろあるけど仲良く行きましょうよとりあえず、という人は双方にいくらでもいる。サッカー騒ぎで民度が低いといわれても鷹揚に構えていられる人は、日本人がそう発言した人に代表されているわけではないと思ってくれているわけだ。アメリカはもっと分かりやすいので、ブッシュな人と非ブッシュな人がいて、しかも非ブッシュな人が半分くらいいるのだとすれば、けっこううらやましい気はする。せめて日本もそれくらいならよいなあ。極端に流れることが好ましくないとはアリストテレスがとっくに見破っているので、人類はこれまでいったい何を繰り返してきているのかという気はする。ほどほどに、と思いながら声の大きな人のホームページをみると、その過剰さに、引く。先日、ある教育問題の対立軸をたどっていて、ある教員を不適当とする根拠をQ&A形式で説明するページを見つけて、・・・その壮絶な過剰さ。いちいち「エーウッソー絵文字絵文字絵文字(シグマとかいっぱい使った、まあ普通は使いませんね大の大人は的な絵文字の羅列)」がQ&Aごとに連なっている。まあ使う場合でも一度にひとつくらいでしょたぶん。このページを作った人はこれで若い人に受けようとしたのか、それにしてもこのようなページを見るような若い人がこの過剰な絵文字にひきつけられるのか、だとしたらとんでもないことになっているのだ。・・・で、この本についての事をほとんど書いていないな。近藤記者は前著に続いて、生々しいアメリカ人の思想風景を、現実の物事の絡みあいからうまく浮き立たせている。アメリカ批判を嫌米派の評論家が書くのとは違う、アメリカで暮らしてその良さ、好きなところをしっかり踏まえたうえで、さらに記者であるからには取材対象には好き嫌いを言わずに冷静に接しているからこその批判なので、リアリティがあると同時に説得力があり、だから面白い。

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さかざきちはる 『ペンギンジャンプ』(文渓堂)
JR東日本管内にお住まいの方なら、「Suica のペンギンの絵を描いた人」といえばお分かりでしょう。わたしはあのペンギンにはまって、スイカで買い物をすると懸賞に応募できるシールを集めたり、スイカ何十万枚だったか達成キャンペーンでもらえるメモ帳とか集めてしまった。もともと、ペンギンは好きなのだが、このさかざきさんの描くペンギンはまた格別に、イイ。この作品では人間界でがんばるペンギンの姿が描き出されているが、どこかわたしの大好きなペンギン本不動のベスト1、トラウト&カレンバーグ 『ペンギンのペンギン』(リブロポート)の哲学を思い出させるところがあって、完全にツボにはまった。とにかく、あまり合わないけどサラリーマンをやっているペンギンが、いつか海岸の家を買って子猫を飼うことが出来るよう願っています。

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越智貢他編 『岩波応用倫理学講座6教育』(岩波書店)
倫理学の立場から教育を論じるとどうなるか。多彩な書き手が自由に綴る。ワタシもちょこちょこ書いてるので、ご批判いただければ幸いです。手短ですがご紹介まで。

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春日武彦 『幸福論』(講談社現代新書)
なんと、春日武彦が『幸福論』である。面白くないはずがない。というか、フツーに幸福を論じているはずがない、という期待を裏切らない面白さだった。結論は充分に予想のつくものではあって、というのも著者は奇を衒って書いているわけではないから当然なのだが、とにかく途中に出てくるエピソードや著者の思考が面白すぎる。だって、理髪店に飾られた万国旗とか、シルバークロスの歌とか、ユネスコ村とか、スタンレー電機とか、五反田の公園での旗振りとか、そういったもので幸福が語られるのである。いったいこれはどうなってしまうのだろう、と思いながら一気呵成に読み終えて、ああこれが結論なのか、とホッとする、つまりこの読書そのものによって、著者の幸福論が体験できるという、メタ構造になっているのだ。

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ウィリアム・ギブスン&テリー・ビッスン 『JM』(角川文庫)
ウィリアム・ギブスン 『クローム襲撃』(ハヤカワSF文庫)
通りがかりの古本屋の棚を流し見ているときに、この『JM』に目がとまった。ギブスン、ビッスンのダブルネームは、ワタシにとってはインパクトが強い。『JM』はギブスンの「記憶屋ジョニィ」の映画化作品とは記憶していたが(そしてビートたけしが出演していることも)、映画もみていないし、この本も読んでいなかったので、ノベライズがビッスンだし、移動の途中の暇つぶしにと、買って読み始めた。とにかくこの手のテクノロジーは現実の変化が激しいので、記憶屋というアイデアそのものも、記憶容量やプロテクトの方法なども、もう陳腐でダサくなってしまっている。またサイバースペースに現れる女性の正体も、かなり早い段階で予想がついてしまう。でも、ガジェットやアクションは想像するだけで楽しく、ということは映画としては見てみなければ分からないが、読み物としてはわりと楽しめた。そうなると、もうずいぶん前に読んだのですっかり忘れてしまっている「記憶屋ジョニィ」が気になりだす。家に帰れば読めるのだが、ふと乗換駅のコンコースに出ていた100円均一古本ワゴンを覗き込むと、なんと「記憶屋ジョニィ」収録の『クローム襲撃』があるではないか! かなりぼろい本だが、100円なら読み捨てで十分。帰りの電車の中でこの初期の短編を読んで、サイバーパンクはサイバースペースの入り口に芽生えたばかりだが、この小気味よさに僕たちはのめりこんでいったんだなあと、いまさらながらにサイバーパンクの時代をなつかしんでしまった。それにしても、本との不思議な出会いのある日であった。

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イアン・ワトスン 『エンベディング』(国書刊行会)
ワトスンの正式なデビュー作。とにかく奇想天外な作品。言葉と現象の埋め込み(エンベディング)理論が、子どもを使った秘密の実験、文化人類学者の調査、異星人とのコンタクトと、まるでシンクロニシティのように同時並行で応用され、進んでいくような話だ。いったいどこまでがまじめなつもりなのか、だんだん分からなくなってきて、作品世界を介在させて作者と駆け引きをしているような、妙な感覚に襲われる。つまり、話の展開としては破綻していると思うのだが、しかし展開を超えた面白さがあるのだ。ワトスンの原点を見て、これから諸作品に展開していくさまざまなテーマの萌芽がここに読み取れるのも楽しみ。とはいえ、「黒き流れ三部作」あたりでワトスンのすばらしさを味わった後に読んだほうが良いでしょう。

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グレッグ・イーガン 『万物理論』(創元SF文庫)
これまた奇想天外な話。万物理論が完成することを阻止しようとするカルト集団の動きに科学ジャーナリストが巻き込まれていく話だが、とにかくなぜ万物理論が完成するとまずいのかという理屈がすごい。オーストラリアの作家らしい、南半球が舞台の設定も、独特の雰囲気をかもし出している。ナノテクノロジーからサブカルチュアまで、ごった煮のようでいてパズルのピースがはまっていって、最後にはあっけにとられるような全体像が見えてくる。面白かった。

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キャスリン・スチュワート 『アスペルガー症候群と非言語性学習障害』(明石書店)
 アスペルガー症候群や高機能自閉症に関する本は、このところ翻訳も和書も多くなったが、とにかく題名が似通っていることもあって、どこから始めたらよいか悩むこともあるだろう。また、これだけ本があるのに中学生から高校生にかけての子どもたちにも焦点のあたった本が意外に少なかったのだ。しかし、どれか一冊といわれたらこれ、と迷わず薦められるこの本が、ようやく見つかった。原題にあった "Helping a child with ..." の部分を、翻訳では副題「子どもたちとその親のために」に落としてしまっているが、むしろそちらのほうが強調されるべきテーマだろう。
 アスペルガー症候群、高機能自閉症、高機能広汎性発達障害などに比べて、非言語性学習障害というのは聞きなれない言葉である。それだけに、自閉症スペクトラムに取り組んでいるいる親や教師は、本書は薦められるというよりはむしろ読んでおくべきものであるというのがわたしの意見である。このカテゴリーは、アスペルガーや高機能自閉症とは微妙にかみ合わないケースに、あんがい当てはまりそうな感覚があるのだ。アメリカでは学習障害のほとんど、しかも人口の一割が読字困難であるのに対し、日本ではそういう特徴は見られない。しかし、読み書きそのものには問題がないように見えて、社会性、認知学習方法、感覚運動統合などに困難を抱えるタイプの学習障害を、非言語性学習障害というらしい。それが自閉症スペクトラムと重なるか否かは、見解の違いがあるようだが、本書に見られるように、共通の困難を抱え共通のプログラムが適用できるのであれば、こだわることはないというのがユーザーの立場である。もともと、アスペルガー症候群について、医学的な説明を長々と読まされても、実はあまり役に立たない。ADHDの場合は薬物療法もある程度使われているので、医学知識もそれなりに必要だが、アスペルガーそれ自体については薬物を使うこともないから、実際的な話にさっさと入ったほうが良い。医学的な理由付けは、症例や方法に即してふれてあればよい。その点、本書の半分以上を占める第三部はタイトルも「何をすればよいのか? 対応と計画」であって、その実用性はすばらしい。目からうろこが落ちる箇所がいくつもある。
 翻訳モノの弱みは、サポートの仕組みが違うので、書かれているアドバイスが必ずしも有用でない場合が少なくないことである(おそらく、中高生のアスペルガーの子を持つ親、生徒を教える教師は、オライオン・アカデミーが日本にもあったら・・・とため息をつくであろう)。しかし、とにかく教師にも親子にも取り組める非常に多くの、しかも説得力のあるさまざまな方法が、よく整理されて論じられているので、すぐに「使える」のである。福音ともいえる一冊。そしてゆくゆくは、教育の自由化というとすぐにエリート育成ばかりに目が向く日本にも、オライオン・アカデミーのような学校ができることを期待したい。

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エリザベス・ムーン 『くらやみの速さはどれくらい』(早川書房)
 自閉症が子どものうちなら「治療」できるようになった近未来、間に合わなかった自閉症の成人が主人公である。優れたパターン認識力から大企業で働き業績をあげているが、彼らの待遇を攻撃しつつ新薬の実験台に使おうとする役員があらわれて、彼らを守ろうとする上役や仲間たちとの駆け引きが始まる。ほとんどが主人公の一人称で語られ、自閉症者の人間関係や日常生活の特徴も描ききっていると思う。著者の息子さんが自閉症で、このタイトルもその息子さんの言葉だということである。かといって、ここには子への愛情の表現ではなく、そこから発しつつもそれを超えた人間理解の挑戦が刻まれているというべきだろう。それは結末が近づくにつれて、深く胸を打つ。「21世紀のアルジャーノン」といううたい文句も、ヒューマニズムのより詳密で繊細な内容を描き出そうとした共通性では納得のいくものだ。ネビュラ賞受賞作。

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アルフレッド・ベスター 『願い星、叶い星』(河出書房新社)
 なんと、ベスターの短編集である。創元推理文庫の『ピー・アイ・マン』は、中学生くらいのときに読んで、「昔を今になすよしもがな」にドキドキして、愛読の短編集だったと思う。それ以来、サンリオ文庫で『コンピュータ・コネクション』は読んだはずだが、どんな話だったかまったく覚えていない。解説によると、ベスターはなかなか波乱万丈の人だったようで、傑作と駄作の波も大きかったようである。スタージョン、ハミルトン、ベスターと、古典的な作家の独自編集の短編集が続くこのシリーズだが、これもなかなか楽しめた。破滅や死、暴力といったテーマが皮肉たっぷりに描かれるベスターの筆致はなめらかだ。しかしそれにしても、おそらく30数年ぶりに読んだはずの「昔を今に・・・」の映像性とサスペンスは、いまだに鮮やかだ。

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加地伸行 『沈黙の宗教―儒教』(ちくまライブラリー)
 儒教の「宗教性」についての理解を深めるには格好の一冊には違いない。儒教をきちんと学ぶ機会というのは、高校の倫理や歴史の授業ぐらいだと思うが、例えば、「儒教は孔子が始めた」とか、「儒教は礼儀作法の類である」とかいった誤解を抱いてはいないだろうか。あるいは、日本の仏教がどれほど強く儒教の影響を受けているか、例えば、「先祖代々の墓」などというものは、本来、仏教にはありえない、きわめて儒教的なものであることなど、気づいているだろうか。まずそういう意外性から、儒教の道徳面以外も含めた影響力の大きさに、あらためて認識を深くさせる。
 さて、筆者は、生命の連続―親子―孝の道徳を、個人の独立―夫婦―愛の道徳に対峙させる(この「愛」はキリスト教的な宗教性を基本にした場合のものとしてワタシが置いた)。我が国においてこの夫婦―愛を基準に道徳を構成しようとしても、外部の絶対者=神との交わりにおいてその在り方(アガペー)が明らかにされるキリスト教の裏打ちを持たないので、相互尊重に基づく個人主義ではなく利己主義が生じてしまう。宗教性としては生命の連続性に立つ儒教を(仏教の衣を着せてあるとはいえ)保ちながら、道徳性においてキリスト教の宗教性を欠いた個人主義に立とうとするところに問題が生じている、ということになるだろうか。この観点はたいへん参考になった。
 しかしまた、はたしてその上で、道徳の衰えを回復しようというときに、朱子学的儒教道徳は衰えたが、新たに儒教の宗教性から立ち上がる現代にふさわしい儒教道徳を作り出そうと言う主張については、頷けるところもあるが、全体としての見通しが本書を通じてワタシには見えなかった。堅固な父系血縁制をとる韓国でも、父系血縁制の根本原理を捨てて同世代の同一父系血縁集団以外から養子を取るようにすればよいと言いつつ、男子は職業に対する意識を本能的に持つとするなどいささか首をひねらざるを得ないところもいくつかある。利己主義化した個人主義に社会問題の原因をどこまで帰することができるのか、というあたりの疑問もぬぐいきれなかった。例えば、夫婦別姓の問題については、別姓論者の主張が一貫性を欠いているという批判の根拠はワタシが言いつづけて来たところとまったく同じなのは驚くほどなのだが、だったら姓をなくしてしまえという主張は誰も賛成しないだろうという。しかしワタシは姓廃止論者なので、少なくとも賛成者はひとりは存在する(^^;。ワタシの主張は、例えば山田太郎さんと川畑花子さんが結婚したときに、そのままでもよいし、どちらかがどちらかの「セカンドネーム」にそろえるために改「名」したければ、婚姻届にそう記入するだけで(つまり許可ではなく届出だけで)できる。子供の名前はどちらかのセカンドネームを使ってもよいし、例えば半分ずつとって「山畑」とか「川田」とか、あるいはまったく関係なく「海野」などととつけてもよい。ミドルネーム風に、山田川畑某というようなのもオッケーね。というのが、一番論理的に筋が通るし、もちろん今までどおりにしたければなんの問題もなくできるし、儒教の宗教性がかくも堅固に根付いているのなら、賛成しようが反対しようが、今までどおりにする人々が圧倒的に多いはずなのだから、問題はないはずだ。もちろん、何も変わらないはずなのに、たかが夫婦別姓程度のことで家族が壊れるなどと言っているセンセイがたは大反対されるであろうから、所詮、言ってるだけ、になってしまうが。家族が壊れることについて考えるのは重要なことだが、おそらく問題を抱えている家族には、夫婦別姓がどうなったって関係ないのである。
 儒教の宗教性にたつ道徳が優れていると主張されればされるほど、それならば何もかくあるべしというまでもなくかくあるであろう、しかしそうならないのはなぜか、という切込みが儒教それ自体からどのように可能になるのか、あるいはそれはそもそも可能であるのか、その手がかりを考えてみなければと思う。現代的儒教道徳が体系化できるのだとすれば、現世肯定的でおおらかな儒教本来の宗教性とそれに基づく道徳性は、確かに魅力的ではあるのだ。

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