バックナンバー(04年07月〜09月)




佐藤学 『習熟度別指導の何が問題か』(岩波ブックレット)
いわゆる「習熟度別指導」に限らず、能力別・進路別のコースわけを行なう「トラッキング」は、教育学研究としては70年代にすでに「効果は疑わしい」という結論を得て下火になっている。競争的な学習よりも共同的・協力的な学習のほうが効果が高いことも同様で、先のPISAでも、共同的・協力的な学習を実現したフィンランドの学力がダントツで、日本を含む第二グループは比較的トラッキングの薄い国々であったのだ。そのような明らかな実績とデータにもかかわらず、なぜ今、習熟度別の導入拡大、競争原理の個人主義学習になるのか。ごく上層のエリートにのみ有効に働きかねないトラッキングの徹底、大量の非常勤講師によってまかなわれる習熟度別指導、自由化の先に見え隠れする危うい日本の教育の未来。怖いことになっています。今どちらに向かって進むかというのは、かなり重要な問題のはず。本書はコンパクトながら、習熟度別指導を手がかりにしつつ、今日の学校教育とそれをめぐる言説の問題点が、つながりを持って理解できる。

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スタニスワフ・レム 『ソラリス』(国書刊行会)
きわめて思索的なSFの古典、ついに沼野充義によるポーランド語からの細心の新訳だ。これからも改訳、未訳作品が続く「スタニスワフ・レム・コレクション」は相当な楽しみだ。さて、本作に関していえば、ソラリス学の書き込みのディテールが、まさにレムの真骨頂だったことに気づく。ソラリスの海の描写は、完全に、タルコフスキー映画のイメージを超えている。この海こそが、ソラリスのテーマだったことはもちろん分かっているが、こうして読み返せば、タルコフスキーの映画はソラリスの本来のテーマをサブテーマ程度にしてしまっていたことを改めて確認することになる。タルコフスキー映画として見れば、このイメージを当時の技術で表現することはまったく不可能であったろうから(未来都市を日本の首都高で表現したくらいだから!)、海を描かずにソラリスを描く以上、まったく別物の表現になるほかはないだろう。レムからすればまったく意に反したものであったが、タルコフスキーはソラリスを借りてノスタルジアを描きたかったのだろう。タルコフスキー作品の系列におかずにソラリスを読むには絶好の機会だ。もっとも、DVDも買ったし、映画館でも数回は見たはずのタルコフスキー映画の印象は、非常に強い。頭に浮かぶハリーはどうしてもナターリャ・ボンダルチュクだ、ということは告白してしまおう。一歩さらに踏み越えてラブストーリーにしてしまったという、ソダーバーグによる映画化作品は、見たくなくて見ていない。

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上田紀行 『がんばれ、仏教!』(NHKブックス)
家の墓のある寺が改築をするというので、実家の父も某かの寄付をしたようだが、宗派からも援助があるのかと住職に尋ねたところ、それどころか、集めた寄付から一部を納めなければならない、という話だったそうだ。小さな末寺にはそれなりの苦労があるのだろう。わが実家も盆と彼岸の付き合い程度だが、葬式仏教といわれる日本の仏教が、むしろその独自性を逆手にとって生き延びていく、いや存在価値を高めていくということは、必要だろう。葬式仏教だからこそ、人の死に寄り添うことができるはずだ(しかし現実は、まだ生きている人のところへ僧侶が訪れると、「縁起でもない」(!)、帰ってくれといわれそうである)。国際ボランティアを作り上げたり、地域活動の拠点として機能したり、取り組みは様々で、きっと大きな寺にも小さな寺にもそれぞれの工夫があるはずだが、基本は坊さんの人間性であろう。

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アルンダティ・ロイ 『誇りと抵抗』(集英社新書)
 『小さきものたちの神』でブッカー賞を受賞したインドの作家のエッセイ。海外資本が次から次へとダムを作り、沈んでいく村に住む人々は何一つ保障されない。政治家は自己利益第一で、国家がとんでもない借金を背負い込む仕掛けには目をつぶる。裁判所も権力と欺瞞に満ちている。チョムスキーが序文で引用している通り、インドに生きることは「格差にぐいぐいと顔を押しつけられて生きる」ことだ。しかし、決してインドはひどいところで日本はよいところというわけではまったくないのであり、彼らが否応なしに向き合わされていることから、せいぜい見て見ぬふりができる程度には豊かだというに過ぎず、ということは格差に気づきにくい分だけむしろ事態は深刻かもしれないのだ。インドと日本で、国民が引き受けている現実の向かう先には何の質的な違いもない。分かっているのだ。ああもうまったく、僕はいったい何をしているのだろう・・・。

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ジーン・ウルフ 『ケルベロス第五の首』(国書刊行会)
 期待のシリーズ「未来の文学」第一回配本。しかしこれはなかなか曲者だった。読み応えのある関連中篇三本で、著者の筆力はすごい。なんの予備知識もないところからディテールの徹底した書き込みに引きずり込まれ、異世界の謎解きのように読み進んでいくうちにいくつもの手がかりは示されるものの、しかしどこかにワンアイデアの種明かしがあるようなクラシックな作品ではないのは当然で、唐突に中篇が終わってしまう。何か、どこかで致命的な読み落としをしたかもしれないという不安がモヤモヤつきまとう。三篇目になって、物語の輪郭がやっとつかめてくるのだが、それにしてもまだまだ、大きなパズルのごく一部分しか組みあがっていないような印象に悩まされる。

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高木裕・大山真人 『スタインウェイ戦争』(洋泉社新書)
 「たった一人で独占に挑む話」が好きだ。ブランソンがヴァージン航空を打ち立てて英国航空に挑むのも面白かった。映画の「キューティ・ブロンド」なんかもそうですね(妻が好きなもので、昨日「2」も見ました)。それは多分、個人の挑戦としては、目の付け所が良くて成功する話よりも、ずっと困難な戦いを勝ち抜く、いわば英雄伝説のように読むからである。本書は、スタインウェイのピアノを日本で独占的に扱っていた輸入代理店と戦うひとりの調律師の話である。
 ピアノの世界、というのも、素人にはわかりにくい。ヤマハだカワイだという話ではなく、スタインウェイである。ワタシもスタインウェイにはヨーロッパとアメリカがあって、なんとなくヨーロッパのほうが音が良いとどこかで聞きかじったことをなんとなく信じていたのだが、どっこいそうは問屋がおろさない(文字通り!)。日本向けにはドイツのスタインウェイがある日本の総代理店を通じて扱っていて、調律も独占していた。しかし、アメリカのスタインウェイのピアノの良さを知り、それを輸入して使おうとするところから、総代理店の妨害が始まるのである。実名入りのドキュメンタリーとして、ピアノの世界を窺い知るスリルもさりながら、良いピアノを良い状態でピアニストに弾いてもらうということだけを追求する調律師の基本を徹底しようとする高木の生きかたには感銘を受ける。何事も、こうあるべきだなあと、深く自省させられる。

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蜂須賀裕子 『農業で子どもの心を耕す』 (寺子屋新書)
 普段あまり読まないジャンルの本だが、ふと惹かれたのは「心を耕す」という表現だ。とにかく「癒す」という言葉はすっかり手垢にまみれ、その本来の意味はどこへいってしまうかという勢いだが、「癒す」というのは本来の状態に戻すことであり、その本来の状態がもともと危うかったであろう場合にも「癒す」という言葉が使われていることもちらほら見られるのである。だいたい、私たちにとって「よかったあのときに戻ること」はとても難しいのである。それよりは、「より望ましい状態に変化する」ほうがよほど可能性は高い。そのときに、「心を耕す」というフレーズは、「教え育てる」仕事をしている身にとっては、久々に琴線に触れられた感じがしたのである。
 本書は、農業体験学習の実際のケース集だが、教育者でも学者でもない、フリーライターの視点がよく生きていて、目配りの効いた、しかも肩肘張らないレポートになっている。一つ一つの事例が興味深いが、都会の子どもたちが農業体験にやってくることで地元の子どもたちによい刺激となることや、親でも教師でもない大人との出会いの意味など、農業体験そのものから離れたところでも、教育に必要な要素がいろいろと見えてくる。
 それにしても、食料自給率40%という異様な低さ、医者になる人間は毎年数千人なのに専業農家となる人が千人に満たないという異様な不均衡、ひどいものだ。これこそが日米同盟とやらの成果なのかねえ。教育の向かうべき方向はどちらなのか、こちらは当事者としては一寸肩肘を張ってがんばらないといけません。

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松尾スズキ 『大人失格』(光文社知恵の森文庫)
宮沢章夫 『青空の方法』(朝日文庫)
 この感想を書くために最近読了した本をあれこれとめくり返しているうちに、私が仕事帰りに、電車の中での読み物を買うとき、二つのパターンがあることにさっき気づいた。ひとつは、わりと仕事がはかどって、充実した日の読み物で、ああ今日は頑張ったな、ちょっと疲れたけどな、という気分の時に読む本で、これは基本的に楽しい本だ。待ちかねたSFの翻訳なんか見つけたりすればもうこれは最高だが、そうそうあることではないから、あとはエッセイがよい。それもまずは面白くて、共感できて、それでいて発見があるのがベスト。たぶんこれが精神的な意味での、最近流行の「自分へのご褒美」ってやつですかな。もう一つのパターンは、あまり思うように仕事ができなかったり、会議が二つ以上続いたり、締め切り仕事が迫っていて落ち着かなかったり、何かやり残したまま帰るときというか、要するになんだか気分の切り替えがうまくいっていないときだ。こういうときには楽しい本で気分転換しているということはなくて、むしろ真っ向から深刻なテーマの本や、電車の中で読むこと自体そもそも無理があるような専門書を読んでいる。たぶん、最後の最後にどっしりとした手ごたえというか充実感が欲しいのだろう。でも結局は意識がその日あった面白くないことや、今考えてもどうしようもないから考えないようにしようと決めたはずのことを結局思い出してしまって、ほとんど読み進められずに家の最寄り駅まで来てしまう。だからこっちも読み終えて感想が書けるのはコンディションの良いときになってしまうわけだが。
 さて、これらの本は、いうまでもなく、前者のパターンである。私はこの二冊を、確か同時に、新宿の紀伊国屋で買ったはずである。松尾スズキの本を最初に手にとって、面白そうだが、しかし松尾スズキの本を読むのは初めてなので、もし読み始めてつまらなかったら、埼京線の長い乗車時間が無駄になってしまうかもしれない、それはいやだ、だってせっかく今、楽しい気分なんだから・・・などと考えていると、宮沢章夫を見つけたのである。宮沢章夫は何冊か読んでいて、まず確実に面白いということが分かっているので、こっちも買っておけば、もし松尾スズキが外れても大丈夫だ! よし! ・・・というのが、大体そのときの私の思考の流れである。
 で、結果的にはどっちもかなり「面白くて、共感できて、それでいて発見がある」作品だったから、埼京線も武蔵野線もとてもハッピーに過ごしてきたのだった。松尾スズキでは「『面倒力』の脅威」が一番好きである。面白いし、共感できる上に、「面倒くせえ」がどれだけ世の中を動かしてしまうかが身にしみたからである。宮沢章夫では、もともと二ページくらいの物が多いのでひとつに絞るのは難しいが、あえて「言葉の事故」。これまた面白いし、共感できるし、かなりコワイ話である。どちらも面白いので是非読んでください。

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コーリイ・フォード 『わたしを見かけませんでしたか?』(ハヤカワepi文庫)
 忘れていた世界を思い出させてくれる作品。かつてアメリカで流行ったユーモアスケッチの短編群は、私も以前ずいぶん読んだ覚えがある。本書はその第一人者である著者の、1950年代ごろの傑作選。あまりにもあちこちで盗用されたので次々と訴訟を起こしたいわくつきの「あなたの年齢当てます」、フィッツジェラルドがヘミングウェイをからかうのに使ったほどの文学パロディ「短くまっすぐに」などはもちろん、粒ぞろい。笑いのツボは50年経っても変わっていない。

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D.トーマ、M.レンツ、C.ハウランド編 『ドイツ人のばか笑い』(集英社新書)
 ジョークでたどる現代史という副題がついていて、これは戦後10年刻みに、東西ドイツのジョークを集めて、現代史を照射するという試みのようである。ただし翻訳によって割愛された部分が多く、かなりそのマジメな要素は削られてしまっている。つまり純粋にそのジョークを楽しむという趣向になっている。笑いのツボは時代によってそんなに変わらないと上に書いたが、民族によってもあんがい変わらないのである。キマジメなドイツ人というありきたりな国民性描写がいかに無効か、本書を読めば分かる。面白いものがいっぱいあるが、哲学を学ぶものとしてはやはりこの一編はクイズとして紹介したい。
  「神は死んだ。---ニーチェ」と、だれかがベルリン動物園駅の壁にスプレーで記した。
  「(             )」と、別のだれかがその下に記した。

さて、カッコの中に正解を(正解はこちら)。

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ミッチ・アルボム 『モリー先生との火曜日』(NHK出版)
 大学時代の恩師がALSに侵され、余命いくばくもないことを知った教え子が訪ねていく話、と言ってしまえばそれまでだが、もちろん考えさせられることがいっぱいあった。でもこれは、いわゆる感動的な話とはちょっと違って感じられた。肝心の、著者とモリー先生との火曜日ごとの対話の内容については、あえて触れずに、考えさせられた二つのことについて書いてみようと思う。
 まず、このようなドキュメンタリーでは、死に直面した人が何か変わっていくというか、成長していったり、悟っていったり、儀式めいたことがあったりすることが多いと思うのだが、モリー先生は、そういう意味ではあまり変わったという感じがしないのである。それだけそもそもモリー先生は個性的であった。貧しいユダヤ移民の家庭で育った生い立ちから、社会心理学の教授としての生きかたに愛が貫かれていて、それが死ぬまで何も変わらない、というほうが当たっているのではないかと思う。つらい生い立ちを反面教師とし得る人と、悪循環に陥る人との違いはどこにあるのだろう。子どもを虐待する人の八割は自ら虐待を受けたというようなデータをいくら数え上げても何の救いもない。自ら虐待を受けた人の何割が頑張って立派に、あるいはそこそこ無難に子どもを育てているのだろう。決して小さな数字ではないと思う。それができるということこそ、むしろはっきりと語られるべきだ。モリー先生から話がそれてしまったが、モリー先生の場合は、その違いは義母の愛であったり、弟への思いであったりする。愛されることと、愛することの両方が、苦しい家庭にもあったことがしのばれる。
 一方、著者は大学時代にであったモリー先生を心底すばらしいと思うのだが、ALSで余命の限られたことをテレビで偶然に知るまでは、ずっと恩師のもとを訪ねることがなかった。大学院進学の勧めも振り切って目指したミュージシャンの道での挫折から這い上がり、スポーツジャーナリストとして名をあげる。そのどの時点においても、「もちろん連絡しますよ」という恩師との約束を果たしていない。挫折の中では気まずくもあろうが、成功してからも忙しさを口実にして自分を納得させているかのようである。卒業論文として指導されたスポーツジャーナリズムに進んだにもかかわらず、自分が何かちょっと違ったほうへいってしまっていることに、自分では本当のところ何か納得していなくて、それを見抜かれてしまうであろうことの気後れがあったのだろう。たぶん、私たちは皆一つや二つ、果たしていないことがよくわかっていて、しかもほんのちょっとの手間で果たすことができるのに、長らく果たさないままになっている約束を持っていて、そこにはきっとそんな気後れが潜んでいる。でもそれは、ついに果たされるべき時がくるのを待っている約束でもある。著者の場合、それはモリー先生の死期が迫るときに、遅すぎもせず早すぎもせずにやってきたのだと思う。そしておそらく、果たされないままに終わるいくつかの約束をもって、私たちは墓に入るのだ。

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アレックス・シアラー 『チョコレート・アンダーグラウンド』(求龍堂)
 選挙に勝利してイギリスの政権をとった健全健康党は、チョコレートをはじめとするあらゆるお菓子を禁止する。チョコレート取り締まり捜査官にチョコレート探知車、健全健康党少年団が町を見張り、禁制を破ったものは逮捕され、再教育キャンプに送られて洗脳される。甘いものの文献は破棄され、言葉は禁句となる。そんな中で主人公の二人の少年は、駄菓子屋のおばさんとひそかに自家製チョコレートの密売を始め、秘密の地下チョコレートバーを立ち上げるのだが・・・。
 これは、政治小説なのである。いみじくもエドマンド・バーク「悪が栄えるためには、善人がなにもしないでいてくれればそれでいい」が引用されているように。健全健康党は、低い投票率のおかげで、きちんと選挙に勝利して政権をとっているのである。少年団の子供たちは、『ザ・ウェーブ』に巻き込まれていった高校生たちを髣髴とさせる。相互監視と、知識階級を引き摺り下ろそうとする力学の働き加減は、カンボジアのクメール・ルージュ、中国の文化大革命、そしてもちろん、わが国の戦時中のさまざまな報国団体、みな同じである。この小説も、歴史的実例と同じように、最後は健全健康党は滅ぶのだが、その栄えは多くの人間を傷つける。今の私たちの日本はどうか。主人公たちが訴える、「すべての人に自由と正義とチョコレートを!」というスローガンをよく考えたい。「パンと見世物」の政治は滅びるが、「自由と正義」だけの政治がどれだけ胡散くさいかを絶対に忘れてはならない。
 というわけで、とても面白く、スリルもあって、少年冒険小説風でありながら、現実の私たちの社会を厳しく見つめるためのガイドブックにもなっている。そして今、この国の状況の中で読むと、「とても面白い」と言うだけではすまない切実さを覚えざるを得ない。自分の息子たちにもぜひ読ませたい。ちなみに、原題は "BOOTLEG" です。

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ウィリアム・ギブスン 『パターン・レコグニション』(角川書店)
 9.11の影響を強く受けたという、ギブスン最新作待望の翻訳である。浅倉久志の翻訳だから読みやすさも信頼性もカンペキ。主人公のケイスもカッコイイのだが・・・。なんとなく、乗らない。多くのマニアが惹きつけられるネット上の映像の断片である「フッテージ」というナゾが、まずナゾとして魅力が薄い。BBSや日本のオタク文化、ロシアンマフィアといった装置も、現代を舞台にしている以上あまりにも無理がなさ過ぎて、鮮度がかなり落ちている。瑣末なことかもしれないのだが、ギブスンがあまりにも日本通なので、描かれる日本のイメージのズレに感じる自虐的な喜びが少ないのも災いしているかもしれない(ビックルのTVCFのあたりは笑ってしまったが)。それと対照的なのが、ケイスや作者自身の、9.11の重みなのだろう。こちらはおそらく、読み手の自分には十分にかみ合ってこないのだろう。以前にも書いたことだが、この手の、IT技術が当然のように物語にはめ込まれている話になると、どんなことでもできてしまう(例えば、誰がどこで何をしているか、敵であれ味方であれすべて知っているという設定ができてしまう)ので、展開が読めなくて当たり前になってしまうのも張り合いをなくさせる。とまあいろいろあって、ちょっと肩透かしを食らった感の否めない作品であった。

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