バックナンバー(04年04月〜06月)




クリストファー・プリースト 『奇術師』(ハヤカワ文庫FT)
 これは面白かった。プリースト作品の常で、書き出しがなかなか重くて、物語の流れにようやく乗れる頃には、その描き出す世界にすっかりはまり込んでいるという具合である。瞬間移動のイリュージョンをめぐるライバル奇術師の思いが、それぞれの立場から書き込まれている日記と、その書かれざるトリックの謎、彼らの死と子孫に続く軋轢が、長尺の複雑な構成で、折り重ねられたパイのように書き込まれていく。決してすっきりとは終わらないのが曲者で、読み終わってからも、何か重大なことを見過ごしてきたのではないかという気持ちが残り、また読み直してしまったりする。これはたまりませんね。イリュージョンのようなイリュージョン小説です。

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小泉信三 『平生の心がけ』(講談社学術文庫)
 慶応義塾塾長、東宮職参与を歴任した経済学者で、英国流のジェントルマン精神や学問上のマル経批判から、たぶん革新側からは嫌われるのかもしれないが、私はこの本は大好きである。文芸春秋他に連載したコラムをまとめたもので、一般の読者向けに実にこなれて分かりやすい文章で書かれた、本来の意味でのエッセイであるといえる。私がこの本を好む理由の最大の一つは、「品位があること」である。人間性といっても良いし、まさに倫理性といいたいところでもある。
 題材は、身の回りの小さな出来事、学会や文学界の人物を巡るエピソード、古典文学から事件報道までと幅広い。教育の仕事を長くしてきたこともあってか、学生や、わが子に向かうときに、身を省みる視点が貫かれているようにも思う。長幼や師弟の人間関係も多く取り上げられている。
 冒頭の「決議の尊重」などは、喩えが学生の及落だったりするものだから、いきなり身につまされる。小泉に拠れば、個人の意見が決議と異なるからといって、その団体にとどまる以上は、その意見の表明は控えるべきであるというものである。落第が決した学生に向かって、自分は反対したのだがというような自己弁護をすべきではない。しかも、「偶々自分だけよく思われようとする教員がいても、生徒は存外それを買わない。生徒の感覚は意外に鋭敏であって、多くの場合容易く卑怯な動機を看破する。「好い児」になりたがる教員を、存外「好い児」にさせないのである」。社会の他の面でも案外、こういう所業は見抜かれるという。もはや軍部が滅びた後に、軍部の悪口を言い立てるようなマネもすべきでない。
 学者として、教育者として、ごくあたりまえのように人間としての品位が備わっている小泉のあり方に敬意を抱きつつ、今日世間で指導的な立場にある人々に、常々その点で疑わしさを感じ続けなければならないことが残念である。
P.S. この本を読んでいて、津田左右吉のことを思い出した。私は歴史学にはまったく疎いし、津田学説には多くの疑義が出されているのだと思うが、この辺りのいきさつを私は長部日出雄『天皇はどこから来たか』(新潮文庫)で読んだだけなので、もし誤解があったら申し訳ない。津田は天皇不親政が日本の伝統と論じることで、岩波茂雄と共に大逆思想と訴えられるが、「唯物史観などは学問じゃありませんよ」と一蹴し、一貫して天皇を敬愛し、裁判でも堂々と自説を講義したらしい。戦後まもなく『世界』に象徴天皇制を予感させる皇室の存在意義を論じる論文を発表して論議を巻き起こす。津田の裁判で和辻哲郎が証言するあたりも面白く、丸山真男が立場は違うのによくやってくれたという。
 私は歴史や社会を語る時には、こういう人々の姿勢にこそ学びたい。残念ながら、結果的に、こういう人々の言説はイデオロギーに利用されてしまうことも多い。そういう利用者たちは、イデオロギーに照らして事実を取捨選択し、時流が変われば復讐や見せしめに現を抜かし始め、反対者に踏み絵を用意までする。その心根の卑しさを心底情けなく思わずにはいられない。私もついつい世相に愚痴をこぼしてしまうが(上のほうでも出ちゃってるねえ、愚痴が)、小泉信三の本の解説でも、某作家が左翼の風潮を疎ましく思い云々と愚痴めいたことを書いているのを見ると、小泉信三の矜持がより一層引き立つ。・・・などとまあ、エラそうなことを書いているワイと自分でも冷や汗モノだが、まあできるだけ見苦しいまねだけはせずにいたいという思いを奮い立たせるための、座右の書としておきたい。

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足立紀尚 『修理 仏像からパイプオルガンまで』(ポプラ社)
 家で使っているキャノンのファックスがおかしくなった。なるべく早く修理したい。ネットで調べてみたら、その場で直すサービスがある。早速出かけていった。チェックしてもらったら、故障だと思ったのは早とちりで、インクカートリッジだけ交換し続けていて、ヘッドの交換時期が来ていたのだった。「ウチでは定価でしか売れませんが、量販店でお求めになればだいぶ安いですよ」とまで言ってくれる。億劫なのでそこで定価で買わせていただいたが、もし買わなければまったく無料ですんだわけである。
 この、キャノンのQRセンターの取材も含めて、30あまりの「修理」の現場取材をまとめたものが本書である。もともと雑誌記事なので、短めで食い足りない気がするところもあるが、読みやすいし写真も小さいが豊富で、なかなか楽しめる一冊だった。一口に修理といっても、ルアーやヴェスパなどかなり趣味的なものや、ウイスキー樽や古屋の廃材を使った家具など古いものに付加価値を与えるものなども含まれるが、おもちゃや靴などはいかにも「修理」らしい「修理」である。万年筆やジッポーのライターなど、修理して長く使う、ということには、一つはそのものに対する愛着と、あとは使う人の生き方も反映していると思う。
 さて息子のS社のポータブルMD、保障期間中に二度、同じところがおかしくなった。こういうことが続くと、直すのはタダでも億劫になってくる。事故で死者が出ても直したがらないM自動車なんて論外なのもある。修理がきくものは、もともと丁寧に作られたもので、長持ちするものである。そして丁寧に修理されたものは、また長持ちし、次にもまた修理がきく。ここに物作りの基本思想があるのではないか。さらに、壊れたら直せないもの、壊れたら取り返しのつかないものなんてのを作ってよいかどうか、ということも考えるべきではないか。・・・とか言いつつ、「バッテリー交換するよりは新機種に交換したほうが安いですよ」と言われて携帯電話を買い換えてしまう自分なのだが、そもそもそういう販売の構造が「修理の思想」の対極にあるのだ!

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森 真紀 『悪妻盆に帰らず』(まどか出版)
 本屋を覗いたら、なぞなぞの本と並んでこの本があった。いずれも大人向けで結構な値段もするが、大人が買うようなものだろうかという気もする反面、パラパラと目を通すとちょっと面白そうなので、帰りの電車で楽しめればよいかと買ってみた。これは、タイトルで分かるように、ことわざを駄洒落で読み替えたものを並べてあるだけだが、まずはまあよくもこれだけ思いついたものだという感動を覚える。それぞれ説明文が添えてあるのだが、これは面白い! というものは、説明の必要がほとんどないもので、例えば「鉄は熱いうちは持つな」の説明は「当たり前である」。しかし長々と小話風の説明がついているものは、正直なところその小話を楽しめるかというと、どうもこれがワタシにはスカッと笑えない。駄洒落に説明は野暮である、と私は思うが、この小話の類のほうが面白いという人もいるかもしれないので、このあたりは感覚的にかみ合うかどうかということなのかもしれない。もちろん、小話を削ってしまったら、薄っぺらになってしまうという問題もあるが。
 さて、ついでに、ウチの長男が小学生のときに、国語のことわざの空所補充の問題で編み出した傑作ベストスリーを紹介しましょう。
 ・老いては子に「やさしく」
 ・油断「迷惑」
 ・のれんに「念押し」
いずれも説明の必要のない、なかなかの名作だと思うのは親バカ?

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ネビル・シュート 『パイド・パイパー』(創元推理文庫)
 『ボートの三人男』を読んだら、またイギリス小説の端正な描写が無性に読みたくなって、何冊か取り掛かっている。1899年ロンドン生まれのシュートは、航空機産業畑を歩んでエアスピード社を起こした人物だが、もう一つの顔として執筆を続けた。戦後業界を引退してからはオーストラリアに移住、執筆に専念する。日本ではオーストラリア時代に書かれた『渚にて』以外はあまり知られていないが、英米では二十五作を数える人気作家であり、戦中に書かれた一冊である本書は、なかでも評判の高い作品である。
 引退した70歳の弁護士が、ある傷心から旅を思い立ってフランスを訪れるのだが、ナチス・ドイツの侵攻が進む。イギリスへ帰ることを決心するが、知人の子を預かったのをきっかけに、進むにつれ知人から通りすがりまで、引き連れる子どもが増えていく。鉄道は途中で止まり、バスは銃撃され、ついにはドイツ軍に囚われるのだが・・・。とにかく、主人公はイギリスの老紳士である。連れは年齢も国籍も素性もさまざまながら足手まといということにかけてはいずれ劣らぬ子どもたちである(またこの子どもたちが、一人一人じつに個性的によく書き込まれていて、ほほえましかったりハラハラさせられたりする)。この一行が、どうやってドイツ軍と渡り合いながらイギリスへ帰ることができるのか。声高に叫ぶことなく暴力と無知と非道に対する人間性と智慧と愛の勝利が語られる、奇跡的な小説である。

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エドモンド・ハミルトン 『フェッセンデンの宇宙』(河出書房新社)
 奇想コレクションの一冊として出なければ、たぶん読むことはなかったと思う。解説にもあるように、ハミルトンといえばどうしてもスペース・オペラに短絡してしまうので、こうしてアイデア短編をまとめて読むことは貴重な経験だった。タイトル作はじめ、そのアイデアはまさに奇想であったと思う。今読むと、どうしても古さを感じてしまうのだが、それはアイデアに科学っぽい説明をつけることがいわばお約束であったからかもしれない。アイデアそのものも、今となってはあちこちで使われてしまっている。しかし、それでもラストを飾る作品は読ませる。結局、アイデアを支える人物描写が丁寧だからだろう。

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テリー・ビッスン 『赤い惑星への航海』(ハヤカワ文庫SF)
テリー・ビッスン 『世界の果てまで何マイル』(ハヤカワ文庫SF)
 ビッスンの短編集『ふたりジャネット』を楽しんだので、長編読み直し。いずれもストーリーの運びは旅物語である。『赤い惑星・・・』は、火星探査計画の頓挫で放置されていた探査船を映画産業が買い取って、俳優たちを乗せて映画撮影のため火星に向かうという設定。テクノロジーと社会情勢の設定がともに手が込んでいて秀逸だし、主人公クラスから脇役までキャラクターがいずれも個性的。そして、火星で発見された謎の結末は・・・。本格SFの体裁を整えながらのユーモアが絶妙の面白さ。『世界の果てまで・・・』は、長大でシリアスなホラ話とでも言うべきか。世界の終わりをもたらす魔術に、魔法使いと娘、そして主人公が立ち向かうんだかなんだか、よくわからないうちにどんどん変貌していく北アメリカを車で縦断して北極へ向かうという不思議な展開なのだが、背筋を冷たくする暗黒の力と、何ともとぼけた魔法使いの振る舞いが痛快そのもの。こちらはホラー・ファンタジーの体裁でありつつ、ビッスンのホラ話の才能全開の傑作。こうして読み比べてみると、つくづく、筆の立つ人だなあと思う。

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スタッズ・ターケル 『死について!』(原書房)
 ターケル自身が88歳という高齢で出版された、死についての63人のインタビュー集。翻訳本で600ページ近いもの。ここでは例えばヴォネガットのような有名作家や、聖職者、弁護士といった人々もいるが、どちらかといえば無名な人々が多く、また広島の被爆者、HIV感染者、葬儀屋、医師など、どのような立場で誰の死を語るかも様々である。無論、テーマが「死」であるから、ほのぼのしみじみしたインタビューというわけにはいかない。しかし、それが単に重苦しかったり悲しげだったりするだけだったとしたら、とても読み進めることはできないだろう。そして、これが読み始めると止まらないのである。語りの一つ一つが胸に迫るというだけでなく、飾りのない言葉の重みが、死を語ることを通じて一人一人の生の輪郭に肉付けをしていく、その手ごたえ、読みごたえがすごい。

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ジェローム・K・ジェローム 『ボートの三人男』(中公文庫)
 さて、コニー・ウィリスが『犬は勘定に入れません』で本歌取りしたのがこのイギリスのユーモア小説。テムズ川のボート旅行というのは、今でも親しまれるレジャーのようだ。ウィリスは場面としては部分的に使っただけであるが、しかし最もユーモラスなエピソードがいくつも登場する(翻訳書の素敵な表紙絵にも使われた)場面である。もともと、テムズ川風物詩を実際のボート旅行の経験から描こうとして書き出されたものであるらしいのだが、三人の若者たちと一匹の犬が愉快な騒動を引き起こしたり、あれやこれやと楽しい思い出話を披露するものだから、どんどん話は横道にそれていき、ボート旅行もついに・・・というオチが待っている。歴史や地理についての蘊蓄や、章初めに小見出しが箇条書きにリストアップされる形式も、ウィリスの作に受け継がれているのも分かる。テリア犬のモンモランシーはウィリスではブルドッグのシリルになっているが、いずれ劣らぬ名脇役で、犬好きの読み手にはさらに楽しみを加える。100年以上昔のユーモア小説が今読んでも実に面白いのは、ユーモアというものが時代や場所を異にしていても通じるヒューマニティに通じているからであって、逆に時代や場所が変わって通じなくなってしまうようなものは、ユーモアとはいえないということだろう。丸谷才一の名訳に井上ひさしの解説というのもなかなか贅沢。

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コニー・ウィリス 『犬は勘定に入れません』(早川書房)
 ああもう、どんなに気がめいっていても、こういう本は楽しんでしまうのだなあ! もちろん、見かけてすぐに買いました。二日目で読了はもったいなかったかも。状況設定はかの大傑作『ドゥームズデイ・ブック』(読んだ?>各位)と同じなのに、あっちはシリアス、こっちはユーモア小説になっている・・・そして、同じように大傑作なのである! こんなワザがどうしてできるのか? オックスフォード大学史学部はタイムトラベルを使った歴史研究を続けるための資金を得るのに四苦八苦、というのも過去からまともなモノを持ち帰ることはできなかったために、スポンサー企業は潮が引くように去っていったからだ。そこに、コヴェントリー大聖堂の再建に異常な情熱を燃やすレイディ・シュラプネルが登場。その「神は細部に宿る」こだわりに史学科の全員は徹底的にこき使われる。主人公のネッドは空襲で崩れ落ちた直後の大聖堂に、「主教の鳥株」と呼ばれる悪趣味な花台の捜索に向かうのだが見つからず、一方で猫を現代に持ち帰ることが偶然できてしまったヴェリティが生じさせたかもしれない歴史上の齟齬を解消するために、ヴィクトリア朝のミアリング家で過ごす事になるのだが・・・。さてさて、どうあらすじを紹介したところで、この小説の面白さは伝わらない。タイムトラベルの設定の面白さ、登場人物の、ほんの端役の人間から犬猫まで、ほんの一瞬のうちにくっきりと描き出される性格付けの絶妙なうまさ、歴史や文学の引用のツボのはまり方、ミステリー仕立てにラブストーリーも何本か加わる気の利いたプロットにどんでん返し、いやはや、全てが読者の楽しみのために惜しげなく提供されている。装丁も内容にぴったりのオシャレさ。完璧です。これを忠実に映画化したら、ゼッタイ面白いと思うなあ。

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小沢牧子 『「心の専門家」はいらない』(洋泉社新書)
 ここでもときどき書いてきた、臨床心理士という資格認定や、学校カウンセラーのあり方に、私が持ち続けている疑問について、我が国における臨床心理の世界の歴史をたどりながら明快に説明してくれる本。それは、人間的なつながりが失われていくにつれて「心の専門家」がもてはやされる現実に対して、それでいいのか本当に、というごくまっとうな疑義を呈しているということに過ぎないのだ。私自身学生相談を担当している立場であるが、学校が数値目標や相互監視や契約文書によって堅固さを獲得し、あいまいさやきわどさや鷹揚さや、大小さまざまな居場所など、微妙に重なり合いながらずれあっているという厚みを失ってしまえば、学校カウンセリングの役割は大きく変化してしまうだろう。臨床心理を生業とする人々にとっては、むしろその方が、生業を成り立たせるという意味で都合のよい変化の方向性ということになるから、教師であることのほうに重きを置いている私としてはせいぜい抵抗していかなければならないものの、そういう変化の方向性に肯定的な人々の代表と文部行政が、結果的にふかく食い込み合って、今やそのボスは文化庁長官であるという政治的現実はいかんともしがたく、歯がゆいことである。「モノから心へ」というのが「安い給料と不安定な身分でも、食えるだけマシ、ワタシはシアワセと心得て、世界情勢だの日本の未来だのは専門家である政治家や官僚に任せて、足りない頭で考えたり浅はかに行動したりせず、税金や年金掛け金だけは払っておとなしくしててね、ヘマをしでかした時も選挙対策として多少の事はするけど、こっちの支払いもしとけよコラ」という意味であることは、今となってはすっかり自明になった。「モノから人間性、つまりまっとうなニンゲンへ」と考えたとき、もはや「モノから心へ」などと軽々しく語るのは許されまい。自省をこめて。

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歪・鵠 『「非国民」手帖』(情報センター出版局)
 匿名で、しかも発表の場が『噂の真相』だったから書けたのか・・・というほどのことでもなく、ごくごくまともな論説ではないか。左よりだと言われがちな某大新聞でさえ、西新宿の高いところにいるお方へのあからさまな批判は没になると、ある人から耳にしたが、そんな時代になってしまっているのだろうか。イラク人質騒ぎの報道を見つつ、政治家もマスコミも、酒場の酔っ払いオヤジの放言程度のことをもっともらしく語ること・・・それはつまりそれこそが大衆操作を有効にすると知っての所業であるからだが・・・が責任ある言論であるかのごとき大仰さに酔いしれていて、ほとんど戦慄とともに「この時代」への嫌悪と恐怖を覚えざるを得ない。そこまでの暗い歩みをたどりつつ、これからの時代の証言は何をよりどころにするのがよいのか。パウエル国務長官の、自衛隊を撤退させない決断を評価しつつ、人質たちを誇りにすべきだときっぱり語る成熟した政治のあり方にこそ、実はアメリカの恐るべき力と頼れる力がこもっていることに複雑な思いを抱きつつ、一連の我が国の政治家の力んだ言葉に何一つ力がないという「国辱」を感じずにはいられなかっただけに、いや、自分自身がこの時代を凝視し、声をつむいでいく以外に、自立した国民たることはできないということに気づくのだ。

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萩野貞樹 『歪められた日本神話』(PHP新書)
 発表の場が『正論』で本書もPHP、中身も左翼系学者が槍玉に上がらざるを得ないテーマなので、勝手な思い込みで見られると困るのだが、日本神話をちゃんと「神話」として読むだけのことが、どうしてこんなに無茶な解釈にまみれて邪魔されてしまうのかというのは、私もずっと困ってきたところなので、共感しながらあっという間に読み終えた。著者も頭の固さでは左翼に劣らぬ右翼の思い込みもちゃんと批判しているのである。私は授業で古事記の冒頭の部分はかならず取り上げている。もちろん、ごく当たり前に「神話」として、である。このとぼけた、おおらかな味わいは、右翼だの左翼だのの反対方向にささくれだっているだけの勝手な解釈を「あんたらいったい、何言ってるの?」とカンタンに退けてしまうのだ。自分の都合に合わせた解釈ゲームを仲間内で楽しむだけなら勝手だが、古事記をちゃんと読ませようとしないのは、戦争犯罪から目をそらさせようとするのとまったく同じ心性だ。そこにある事実をそのまま見せればよいだけのことだ。結局、子どもたちも教師たちも信用していないという点では、右も左も同じなのだ。本物の批判力を身に付けさせようとしていないのだ。そんなことだから、調子に乗った右がほいほいと日の丸君が代監視体制をしいてくれば、左は反対を主張するばかりでなんの底力もなく、抵抗らしい抵抗を発動できないのだ・・・とまあ、ちょっと言いすぎだったら右や左のだんなさんたちごめんよ。だれも信用しちゃいないけど。まあとにかく本書は、豊富な実例を交えて説得力は確かだ。「こんなに単純な本はめったにないだろう」と言い切る著者の姿勢は小気味よい。

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テリー・ビッスン 『ふたりジャネット』(河出書房新社)
 ビッスンの短編傑作選。冒頭の「熊が火を発見する」を読んで、これがすごく気に入るかどうかで、ビッスンの作風が自分に合うかどうかは判断がつくだろう。「英国航行中」もそうだが、タイトルどおりの出来事がただ起こっていて、その中でしんみりした日常のエピソードが展開するのだが、そのコントラストが絶妙だ。アーヴィンとウーのコンビが活躍するサイエンスコメディのような連作も奇想天外で痛快無比。間に挟まれた「冥界飛行士」だけはやや異質な、グロテスクな物語なのだが、それさえも悪趣味なユーモアに思わせてしまう構成は編訳者のなかなかの技か。

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