バックナンバー(04年1月〜3月)




ロバート・リード 『地球間ハイウェイ』(ハヤカワ文庫SF)
 百万年以上前から、パラレル・ワールドの地球の間をつなぐ〈輝き〉を行き来して、それぞれの文明の成熟を助ける〈巡り人〉の指導者ジュイたちは、45億年前に〈輝き〉を作り出した〈創建者〉を探しているのだが・・・という話。設定の壮大さ、登場人物のバラエティ、敵との抗争シーンの迫力など魅力満載ながら、結末はやや弱い感じだ。しかしそうしたことよりも、この〈巡り人〉たちとパラレルワールドの百万の地球との関係が、読み進めば読み進むほど、なにやら今日の世界情勢を髣髴とさせているように思えて、複雑な味わいになる。書かれたのは90年代前半であるから、今訳されるのはあるいは訳者の意図かとも思ったが、あとがきを見る限りでは、国際政治との絡みを思わせるほのめかしもない。やはり考えすぎか? いやいや・・・。

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西原理恵子・鴨志田穣 『最後のアジアパー伝』(講談社)
 今回の同時並行はハシダさんと組んだサラエボ紛争取材の顛末プラスアルファと、二人の別れの仕事とでも言うべきもの。西原の巻頭カラーと鴨志田のあとがきでなんだか泣けてしまいます。鳥頭紀行での出会いからずっと、多くの読者は二人の行く末を、他人事なのだけれど他人事ではないように勝手に思い込んで、ハラハラドキドキ案じてきたのではないかと思います。そして私も、どこかでどんでん返しがあるのではないか、と希望を捨てずにいたのですが、ああやっぱり、という落胆を感じてしまっているのです。どう考えても余計なおせっかい、勝手な思い込みに過ぎないのですが。自分がこんな風に二人のいわば私生活に深い関心を持つというような読み方をするのは驚きですが、でもそういう読み方をあえてさせてしまう二人の夫婦像と西原によるその露出の過激さは、やはり類を見ないものと言えると思います。

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宮嶋茂樹 『不肖・宮嶋、死んでもカメラを離しません』(祥伝社黄金文庫)
宮嶋茂樹 『不肖・宮嶋、死んでもないのにカメラを離してしまいました。』(アスコム)
 「ハシダさん」の本にこの著者が出てきたので、初めて興味を持って読んだ。もちろん、タイトルで選んだ二冊である。
 獄中の麻原某とか結婚パレードの紀子さんとか大久保の外国人娼婦とかハダカのハマコーとかの写真というのは、私にはまったくどうでも良いもので、ほとんど興味をそそられるものではない。でも、例えば先日テレビで日本刀が出来るまでのドキュメンタリーを見たが、この日本刀なるものも私にはまったく興味がない。しかし、この日本刀が作られていくプロセスはたいへん面白く、興味深く、作る人々への驚嘆と尊敬の念を抱かせるに十分であった。だから、著者が足と情報と度胸で写真週刊誌のためのスクープ写真をモノにするプロセスは、とても面白い。カメラを離さないほうの一冊は、駆け出しの頃からの苦労も知れて、失敗成功織り交ぜてのエピソードで一気に読ませる。
 そして、その挙句に、爆撃される側のイラク戦争の写真という、私にとってどうしても見なければいけないものの写真を突きつけて、著者は「カメラを離してしまいました」と引退宣言?をするのである。戦争の風景とは、おそらく、戦場に兵士の死体が転がっているというものではなく、日常の街角のありふれた風景に、引きちぎられた人間のからだの一部分があるということなのだ、と知らしめてくれる。肝に銘ずべし。

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オリヴァー・サックス 『タングステンおじさん』(早川書房)
 イギリスで暮らす裕福なユダヤ人家庭に育った著者は、さまざまな親族に出会い、囲まれて暮らしている。医者の両親がまずユニークだ。著者は将来当然医者になると考えられているから、母親は病院から死産の胎児を持ち帰ってきて息子に解剖させたりする。「タングステンおじさん」とは、フィラメントの開発で事業を興しているおじさんで、著者に化学の手ほどきをしている。著者はさまざまな薬品を手に入れ、自宅にあつらえた実験室で、ありとあらゆる本格的な化学実験を試みる。
 ユダヤ人家庭の暮らしや、大戦をはさんでのイギリスの若者の有様も興味深い。疎開やそのときの体験が元で精神に破綻をきたす兄が痛々しい。やがて著者は原子爆弾と量子力学によって化学への無邪気な喜びを失い、今日ある脳神経科医への道を歩むことになる。
 これは著者の生い立ちの記であると同時に、かなり本格的と思われる化学史の教科書でもある。サックスの家族・親族のユニークさと、タングステンおじさんを接点にして、化学実験にのめりこんでいた少年時代を振り返りながら、自身の実験に結び付けて丹念に化学の歴史を追う。この、いずれも重厚に書き込まれたそれぞれの内容と、二つの視点の絡み合いがユニークだ。

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チャンドラー・バール 『匂いの帝王』(早川書房)
 ある立ち食い蕎麦屋でカレーとかけそばのセットを食べていたときのことである。カレーを一口食べて、ふと、「ヤニ入り半田でラグ板にリード線を半田付けしているときの匂い」がよみがえってきたのである。文系に進んだワタシがそんな事をやっていたのはせいぜい中学生の時だから、ずいぶん懐かしい匂いをかいだことになる。カレーと半田付けを結びつける不思議な匂いの記憶・・・なんてことを考えていた時に読んだのが、このルカ・トゥリンという科学者のドキュメンタリー。嗅覚というのはまだまだ分からない事だらけらしい。定説は分子が受容体の型にはまる事によって匂いが分かるという「形状説」だが、もともと生理学者だったトゥリンは、類まれな嗅覚のセンスにその天才と香水への興味が手伝って、化学や物理学の研究、香水業界との関わりを通じて、「振動説」、つまり匂いの分子が出している振動を読み取っているとする説を実証する。しかしこれが、学界からは認められない。「ネイチャー」にリジェクトされるまでのいきさつも学界の様子をうかがわせるし、香水業界とのやりとりも興味深い。何よりもトゥリンの人柄の破天荒ぶり、匂いの研究に手当たり次第に取り組む様子、例えば必要な化合物を安く作れる所を探して、モスクワまで行ってしまうところなども、痛快である。日常生活のエピソードも豊富に交えながら、天才がどのように物事を考えていくか、ということもたどれるので、心理学的にも興味深い。論文の数や雑誌の権威で業績を競う学者の世界のつまらなさも、彼ほどの天才に語らせると説得力がある。香水のガイドブックを出してベストセラーになったり、嗅覚障害の患者の相談を受けて抗てんかん薬で治してしまうあたりも痛快。また、トゥリンのみならず登場する科学者達の人物像がそれぞれ個性的に描き出されているところにも、著者の技がある。生物学、化学、物理学をやすやすと行き来する理論は素人にはつらいかと思ったが(そこもまた彼の理論がどの分野からもはじき出される理由なのだが)、分かりやすく書かれているので、読み進んでいるうちに案外、慣れてきて面白くなってくる。「匂いが違うのに形が同じ物質があれば、その振動数が違う」ということがポイントだから、理屈は単純なのであって、かえって素人の方があっさりと説得されやすいからかもしれない。この論争の行方がどうなるのか、興味をそそられる。

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フロイド・E・ブルーム他 『新・脳の探検(上・下)』(講談社ブルーバックス)
 好評旧版の改訂で、2001年版の翻訳だから、情報は新しい。図版もカラフルで多数。翻訳もこなれていて非常に読みやすい(「ストレスの総合商社」なんてのはちょっとやりすぎ?)。上下で4000円というのは新書の範疇を越えてはいるが、それでも教科書としては安いわけで、それも専門家や学生以外も手に取るであろうところからこの価格が設定できるのであろう。一通りの分野について、バランスの良い記述がなされている。ネットやCDROMとの連動も便利。日本オリジナルでこういうものができれば、さらにすばらしいと思うが。

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ケン・グリムウッド 『リプレイ』(新潮文庫)
 先日、書店で卒業生のX君にバッタリ出会った。ともに勤め帰りだった。見違えるほど大人っぽくなった彼が、私に気づいて声をかけてくれたのだった。「最近、本をよく読むようになったんです。何か面白い本はありませんか?」文庫のコーナーにいたので、ハヤカワSF文庫の棚をさっと眺めると、コニー・ウィリスの『ドゥームズデイ・ブック』がある。あらすじを説明したら、彼はその上巻を手にとって、「読んでみます」とレジへ向かった。さて、その後下巻を買う気になっただろうか。
 で、私がその日になんとなく手にとって、気になって買ったのがこの本で、後で考えてみれば同じ時間旅行テーマなのだ。ペストが流行する中世ヨーロッパに現代の学生が立ち向かう大作『ドゥームズデイ・ブック』の面白さは格別だが、この『リプレイ』はまたまったく異なった意味で時間旅行テーマを使いまわした傑作だった。中年の危機真っ只中の主人公が心臓発作で絶命するや、青春真っ只中の自分に生まれ変わる、しかも何度も何度も・・・という展開である。その繰り返しの中に、「人生をやり直せたら・・・」と考えるであろうことがら、それは世界を変えてやろうとすることから、ほんのささやかで幸せなはからいまで、ありとあらゆることがらが詰まっている。面白い、という以上に、豊かな物語である。時代のディテールからSF的な壮大な発想まで、物語を引き立てる道具立てが揃っている。次にまたX君に出会うことがあって、『ドゥームズデイ・ブック』が楽しめたようだったら、この『リプレイ』もすすめてみようか。一寸中年向きかもしれないが。

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橋田信介 『イラクの中心で、バカとさけぶ』(アスコム)
 ハーラン・エリスンの崇拝者なら、名作『世界の中心で愛を叫んだけもの』のタイトルが、某アニメやら某ベストセラー小説やらのタイトルに流用?されたことを快く思ってはいまい(あ、いや、お好きならそれでいいんです、決め付けてすみません)。私はエリスンの崇拝者ではないが、そのことだけで某アニメや某ベストセラー小説には決して手を出さないくらいの分別というか律儀さというか、単にひねくれているだけかもしれないが、そういう意地だけは守り通したい。この何ともやりきれない、もやもやした気分を粉砕して、忽然とというか燦然と輝きながら姿を現したのがこの本である。うまい。うますぎるタイトルである。これはもちろんエリスンのパロディではなく、某ベストセラー小説のタイトルの不愉快さ(あ、いや、あくまでタイトルの話で、中身は大傑作かもしれませんがね。読まないので分かりませんが・・・)あってのパロディであることが、痛快極まりない。それでいて、内容的には見方によってはエリスンに通底するものがあるかもしれない、と思わせるところが曲者でもある。
 戦場カメラマンでこの著者名、思い当たって西原理恵子+鴨志田穣『アジアパー伝』を探したら、やはりいました、ビデオカメラを持ったこともなかった鴨志田をバンコクでやとってカンボジアの戦地に取材に出かけた、たまに日本に来ると回転寿司を食べに行くハシダさんだった。フリーの戦場カメラマン、という存在自体が、私のように公務員で教員などというあまりにも地道な暮らしをしている人間とは両極にいるような存在で、これはもう驚嘆に次ぐ驚嘆で読みふけるほかないのだが、爆弾を落とされる側に身を置いての取材の顛末もさることながら、さらりと語る中に今度の戦争をめぐる私自身の不快感を説明してくれる鍵が、次々と示されていくのに、ちょっと興奮を覚える。例えば、国会の論戦(と言えるかどうかはともかく)が「安全か、安全でないか」という話になるどうしようもないほどの違和感も、著者は解きほぐしてくれる。ほかにも、・・・日米同盟?「アメリカは日本を守るというタテマエで横田や沖縄に軍事基地を持っている。だが、日本はアメリカのハワイやロスに軍事基地は持っていない。」そうだよ、そうだった。「戦争国家では、命はかけがえのないものとして大切にされる。・・・平和国家では逆に命は軽んじられている。」そう、それはあるな(なぜかは・・・のところにある)。「「戦場」に反対しているだけで、「戦争」に反対しているのではない」という現状批判には、深く納得させられた。反戦を叫ぶだけではダメといわれるが、たとえ何かやむにやまれず行動したとしても、まだまだ「戦争」に反対したことにならないのはなぜかが呑み込める。夢中で読み終わったときには、日本の外務省・大使館や大手マスコミの体たらくもよく分かるし、評論家やNGOのもっともらしい話の見分けも多少はつくようになる。

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シオドア・スタージョン 『不思議のひと触れ』(河出書房新社)
シオドア・スタージョン 『海を失った男』(晶文社)
 スタージョンの短編集が相次いで出たので読んでみた。私は今まで、何となくちゃんと読んでは来なかったのだが、それは多分、その面白さに気付かなかったからだと思う。スタージョン作品の特徴は『不思議の・・・』の訳者解説に詳しいが、SF的な設定を、日常を切り取る枠組みと言うか日常を見せる額縁のように用いる事によって、そこに手に取るように、目に浮かぶように描写される日常の有様から、人間の姿が鮮明に切り出されてくる。天性と、奇抜な人生の経験とがあいまって紡ぎだされたのであろう、奇跡的な技の面白みである。ユーモラスな作品からグロテスクな作品まで、この二冊でさまざまな味が楽しめるが、「雷と薔薇」・「海を失った男」の二作に描かれるそれぞれの破滅の悲愁は胸を打つし、ジャズ小説「ぶわん・ばっ!」はその音楽を想像して興奮し、結末はいつものスタージョンなのだが、またもしてやられたという快感に悔しいながらも包まれる、といったあたりが気に入りである。

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沢田允茂 『昭和の一哲学者』(慶應義塾大学出版会)
 日本の哲学界では良く知られた学者の半生記ということになるが、戦争体験のある世代の哲学者に、直接戦争の事を語ってもらうのはもはや難しくなってきているから、このように淡々と語りおろされたものは貴重である。とはいえ、本書は語りということもあって、もともとのお人柄とあいまって非常に率直な読み物になっていて、またそれゆえに考えさせられるところも非常に多くなっている。淡々ととか、率直と表現したが、とにかくお人柄が率直だ。あれこれと思い悩むのではなく、なすべき事をなし、来るものは拒まず、といったところか。慶應に入って哲学の道に進み、戦争中はニューギニアで生死の境目を生き、終戦後大学や学界で活躍する様子から、一流の哲学者の気負わないが筋の通った生き方を知る事ができて、面白い。歴史的に昭和という時代を感じながら、またそこに生きていた人々の様子(ヘレン・ケラーにも会っているのだ)にも触れることができる。

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ダン・シモンズ 『夜更けのエントロピー』(河出書房新社)
 オリジナル編集の短編集で、いずれも死や破滅をめぐる陰惨な幻想に彩られたものばかり。一番気に入ったのは「最後のクラス写真」だが、舞台はゾンビの学校である。もともとの設定が異常な世界の中で、異常な教師の存在や振る舞いは異常の裏返しで正常になる。その正常な教師が、正常な世界では正常なために異常な世界では異常な信念を持って生きていて、正常な世界では正常な、従って異常な世界では異常な結末を迎えるのだが、正常な世界にいて正常な結末に置き換えてみると、それは十分に異常な結末だということに気づき、ということはこの世界の異常さに気づかされたことになるのだ。不気味で残酷な描写の重層から切り出される両義性の切片に呆然。収録7編のうち、タイトル作とトリの二つの重要な短編がいずれも既訳の短編集『愛死』とだぶっているのは、傑作とはいえちょっとそれはないでしょうという不満はあるが。

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ブルース・スターリング 『塵クジラの海』(ハヤカワ文庫FT)
 うわさのスターリング処女作冒険ファンタジー。インド生活の影響もあるのか、塵に覆われた異星を舞台に繰り広げられる鯨捕りの物語。その塵鯨の内臓から精製される麻薬を求めて捕鯨船に乗り込んだ主人公、星の謎を追い求める船長、主人公と恋に落ちる鳥女、塵の海を泳ぐ鯨や異生物の数々。物語としての展開はやや尻すぼみの印象はぬぐえないとはいえ勢いがあるので一気に読ませる。舞台や人物の魅力はファンタジーの枠をはみ出して魅力十分。

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