バックナンバー(03年10月〜12月)




ピーノ・アプリーレ 『愚か者ほど出世する』(中央公論新社)
 養老先生が日本語版前書きを書いたり、帯のキャッチにも使われている。確かに本書のテーマは、養老先生のかのベストセラーと相通じるもの。しかし先生の前書きは本書のいわば謎解きというか読み方のヒントを与えてしまっているので、ワタシとしてはこれは後書きにしてほしかった。というわけで、これから読もうという人には、前書きは最後に読め!と言いたい。さて、この本の構造は巧妙である。コンラート・ローレンツ博士と語り合った科学ライターが、博士の紹介でウィーンのある哲学者と往復書簡を交わす。ライターは人間の知性は滅び、愚か者のものになっていくいきさつを、進化論から出発して確信していくが、哲学者はそれに反論を続けていく。最後にはついに両者が顔を合わせて・・・。現実と虚構、事実と推論、論証と想像のギリギリの狭間をすり抜けていくきわどい展開がかなりの読み応えだ。

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秦郁彦 『旧制高校物語』(文春新書)
 このタイトルから、新保守主義の旧体制エリート郷愁モノかと敬遠してはいけない。丹念な資料収集により、旧制高校というものがいかなるものであったか、データとエピソードをもとに具体的にとらえられるように工夫された内容で、旧制高校が存続していた五十年余りの時代の教育史の資料としてたいへん有用なものになっている。高校と地域との関係や、受験ランキング、ナンバースクールのみならず地名スクールや私立の位置づけなども触れられている。何よりも戦後の廃止までの過程については、学制改革の全体像の中でその位置づけや意味がよく分かる。後書きにも触れられているが、教養教育の危機感からノスタルジックに取り上げられやすい旧制高校であるが、反骨のエピソードもあるとはいえ、結局少数派知的エリートの力は軍部に対抗するには脆弱であったことは否定できない。教育における偏りが今日の日本社会にも危惧されるべき状況であるとの指摘は、深刻に受け止める必要を感じる。それは文武にかぎらず、文科と理科、基礎と応用、理論と実用など、さまざまな場面においていえることではないだろうか。

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屋名池誠 『横書き登場』(岩波新書)
 日本語のいわゆる「横書き」はいつ、どのようにして使われるようになったのだろうか。誰もが気づいていながら、しかしなんとなく答えをはぐらかされてきた疑問が、日本語学者の調査を通じて解き明かされていく。とにかく資料の量が半端じゃない。雑誌や新聞、官報といったあたりなら驚かないが、例えばレコードレーベル、植民地の様々な文書、母子手帳、乗り物の表示から銀座通りのカンバンに至るまで、それぞれの変遷をたどるわけだから、いわば幾何級数的なデータを扱うわけである。加えて、要所要所に挟み込まれている「なぜなのか」の考察がまた簡潔にして要を得たもので、思わずうなってしまう。流行のテレビ番組風に言えば「へえ〜!」と何度も言ってしまうような話が、矢継ぎ早に出てきて、図版も多数、これはほんとうに面白い! ところで著者と私は同級生だったことがあるのだが、・・・覚えていないだろうなあ〜。

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ゲッツ板谷 『タイ怪人紀行』(角川文庫)
ゲッツ板谷 『インド怪人紀行』(角川文庫)
 鴨志田譲ほかのメンバーとアジアを旅するシリーズだが、インド編が文庫化されたのでタイ編と比較して読んでみた。タイ編はちょっと(かなりか)危ないがドタバタ話として気楽に(と言い切れるほどではないが楽しく)読める。しかし、インド編は同行のハックとナベちゃんのパーソナリティにどうしても目が向くのと、ドラッグのヤバさがあって、笑っているよりはハラハラし通しである。そのあたりは文庫版あとがきにもあるのだが、その後の天久聖一の解説を読んで、おおいに納得した。この解説は、たぶん著者でもはっきりとは気づいていなかったこの旅の意義を、これ以上ないくらいに的確に暴いていると思う。

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スティーヴン・ジェイ・グールド 『ワンダフル・ライフ』(ハヤカワ文庫NF)
サイモン・コンウェイ・モリス 『カンブリア紀の怪物たち』(講談社現代新書)
 いまさらではありますが、メアリー・アニングの伝記を読んだ勢いで、大著ゆえ拾い読みに終わっていた『ワンダフル・ライフ』を最初からじっくりと読み直してみました。動機がはっきりしていると読めるものです。これが書かれてからだいぶたつので、内容的には古くなったところも多いようですが、やはり面白かったです。バージェス頁岩の生き物たちの面白さはすでに楽しんでいたところですが、発見者でありながら研究し切れなかったウォルコットの生涯についても、ウィッチントンのチームの研究スタイルの流儀も、今だからこそいろいろと考えさせられることが多かったです。気の長い研究が必要であり、しかも実用性からは遠い分野の学問は、教育面も含めて、これからますます厳しくなっていくのだろうなあという感慨もしきり。グールドの語り口の妙は、何度読んでも大いに楽しまされます。それにしてもオパビニアの姿を思い浮かべながら、グールドの悲運多数死、偶然性と進化の理論をもとにして、あれこれと想像をめぐらすのは楽しい事です。
 で、そのウィッチントンのチームの一員で『ワンダフル・ライフ』にも当然登場するコンウェイ・モリスは、『カンブリア紀の怪物たち』でグールドの理論をやっつけています。当事者としての詳細やバージェス頁岩以降の研究の成果(ハルキゲニアの復元は「さかさま」だった、とか)、時間旅行に見立てたカンブリア紀の再現など、これもまたなかなか想像を刺激する書きぶり。理論の勝敗は私には判断はつきませんが、まだまだ古生物学のナゾは果てしなく深く、興味をそそられる世界には違いありません。

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吉川惣司、矢島道子 『メアリー・アニングの冒険』(朝日選書)
 ダーウィン以前の19世紀前半、イギリス南西部の海辺の町ライム・リージスの貧しい家具職人の家に生まれたメアリー・アニングは、生計のために化石を掘り続けた。冬の嵐の後、波浪に洗われた断崖をよじ登って。イクチオサウルス、プレシオサウルス、プテロダクティルスの全身標本をはじめとする発掘品は、当時の学界に大きな役割を果たした。彼女は様々なところで取り上げられ、伝説化され、有名なところでは映画『フランス軍中尉の女』のモデルとなった。本書は多くの資料に当たりながら彼女の実像に迫る、丹念な伝記である。
 女性の活躍という意味では、メアリーのみならず多くの女性が登場するのも小気味よい。フィルポット三姉妹の支援、サマーヴィル夫人やシャーロット・マーチソンがキングス・カレッジの地質学の公開講座に参加する経緯、イグアノドン発見者マンテルの妻メアリー・アンやメアリー・バックランドのエピソードも興味深い。そういえばグールドの『ワンダフル・ライフ』にも、頭蓋骨のバラバラの破片をくみ上げるリーキー夫人の才能について触れられていた(リーキーはそれがまったくできなかった)。
 とはいえ当の本人は、生活のために化石を扱ううちに、技術的にも知識としても比類のない第一人者になったわけで、当時の女性「らしさ」にこだわらずに熱中するものに熱中できたところが、素晴らしい仕事に繋がったのだろう。学界の評価は紳士的なものではあったが、階級差は越えがたく、彼女の人生も決して幸せなものとは言えないかもしれないが、こうしてその偉業とともに、彼女の存在は興味を惹き続けている。メアリー・アニングの人物像がよく分かる本である。

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水木しげる 『ほんまにオレはアホやろか』(新潮文庫)
 「変わった人」というものはいるものだが、その人のことを「面白い人」と思って徹底的に面白がることのできる人もいて、そういう人もまた「面白い人」だ。水木しげるの場合、まず家族がそうだ。男兄弟三人の真ん中で、彼だけが型にはまらないことを両親は早くから心得ていて、彼のためにできることをいろいろしながらも、押し付けずに好きなことができるように導いている。特に、父親がすばらしい人だ。さぞかし変わった人だったのだろう。学校でも軍隊でも、型にはまらないがゆえにずいぶんとつらい目に遭っているのだが、あまりにもマイペースなので、それを受け入れる人が必ず現れる。よくもまあこれで生き延びられたものだという経験をしながら、ラバウルの現地の人々、彼はあえて親しみと憧れと敬意を込めて「土人」と呼ぶが、彼らと仲良くなり、「パウロ」の名さえもらって、唯一現地除隊を希望する(それを思いとどまらせた軍医もなかなかの「面白い人」のようだ。なにしろ、水木しげるが「一風かわった人である」というのだから・・・。終戦後は国立病院の院長になったらしい)。戦後の紙芝居から貸本マンガを経てようやく雑誌連載で成功するまでのすったもんだも面白い。成功してからの話はほとんどまったく、書かれていないところがまた面白い。仕事で偶然であった元軍曹と二人で意気投合してラバウルに再訪、「土人」たちに大歓迎されて幸せなひとときを過ごす話で終わる(ここでも水木しげるは元軍曹の奥様に「お宅の主人も変わった人ですなア」と言って、「・・・二人ともですよ・・・」と言われている)。「変わった人」であることにちょっと疲れたら、読んでみることを勧めたい。

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椎名誠 『カープ島サカナ作戦』(文春文庫)
 一週間ほど入院する羽目になったので、学園祭の古本バザーで買った文庫本を何冊か持ち込んで楽しんだうちの一冊。椎名誠のエッセイは、こんなときに読むのにピッタリ・・・と書き出したのだが、どんなときでもサッと読んでフッと世界が開けてホッとするので、別に入院中だからということもないのだ・・・と思ったがしかし、またまたここで意外なことに気づいた。この本の中で椎名誠はダン・シモンズの『ハイペリオン』を二回絶賛している。最初に「おもしろくておもしろくてたまらない」と言い、ザマミ島のパラソルの下の日かげでビールを飲みながら楽しんでいる。後からは「10年に一度と言いたいくらいのSF傑作が出た」と、続編も含めて「コーフン」している。で、私もまったくこの意見に賛成で、今はこの『ハイペリオン』四部作は文庫で読めるから、コニー・ウィリスの『ドゥームズデイ・ブック』と並んで、嫌がる人にも無理やり勧めてしまう傑作大作SFのマストだが、さてこの『ハイペリオン』を読んだのはいつだったか、というところで、それが入院中だったことを思い出したのである。なんだか怪しげな肺炎になって、熱もないのだがとにかく点滴打ってメシ食って安静にしてるだけという拷問のような一週間を過ごしたのだが、このときにたしか『ハイペリオン』と『ハイペリオンの没落』を持ち込んで「コーフン」していたのだ。椎名誠は南国のビーチでビール片手に楽しんでいたのかと思うと一寸うらやましくなったりもするが、入院の無聊を慰めてもらえた恩義で二冊の本がつながる偶然がちょっと面白く不思議だった。エッセイでは「二丁目には困った」が特に印象に残る。これは私がいつも考えている問題につながる、ウラとオモテ、ハレとケの問題だ。私もこれはあらゆる場面で、大いに困ったことだと思っている。この本は、病棟の談話室の本棚に寄付してきました。

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渡邉信一郎 『江戸の寺子屋と子供たち』(三樹書房)
 最近、教育史関係の本をよく読むのだが、あんがい本筋から少し外れたところで面白いものに出会うのはあいかわらずだ。著者は川柳の研究者で、本書は川柳に描かれた寺子屋や江戸時代の子供や親、先生や若者の様子を解説したもの。図版や資料や解説が豊富で、川柳にはずぶの素人の私が読んでもわかりやすく、当時の様子が生き生きと伝わってきて、たいへん楽しく読んだ。概して子供の様子や親の思いには今とそれほどの違いもなく、独特の風俗にも興味深いものがあるにせよ、可愛がったり梃子摺ったりする有様はいつもほほえましい。寺子屋についてもその基礎知識が川柳を楽しみながらよくわかる。庶民にとっては決して低廉とはいえない費用を支払っても子を通わせていたのだ。はじめは手習いから、やがて算盤が盛んになり、また寺子屋以外の習い事にも流行り廃りがある。ワカモノ風俗もいろいろ出てくるから、この一冊でなんとなく江戸の町の雰囲気が伝わってくるかのようである。

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テッド・チャン 『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF)
 間違いなく傑作ぞろいで、現代SFの最先端を行っているが、読みながらいつも戸惑いというか不安というか、不思議な気持ちにさせる作品群だ。並行する物語やエピソード、あるいはそっと横から滑り込んできたモチーフが最後に収束するパターンは、ここで結末をバラすわけには行かないが、とにかくあっけにとられる。一番気に入ったのは「七十二文字」だ。私は最初、これをたとえば『ディファレンス・エンジン』のような設定の話として読み始めたのだが・・・と、これだけでもネタをばらしてしまったかもしれない。たぶん、アイデアの秀逸さに加えて、言語、文字、情報に対する徹底的な批判と、緻密さを極めた構成が、内容と形式の両面から迫ってくるので、読者としては戸惑いというか不安を感じるのでしょう。

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ローレン・チャイルド 『あたしクラリス・ビーン』(フレーベル館)
 絵本。本人も家族も親戚もちょっと変わっている。普通に考えれば「問題がある」といわれるだろう。でもそれが日常の風景だったら? 家族というのは多かれ少なかれ、そういう外から見れば問題というか異常なものをかかえながら、なんとなくやり過ごしていて、危機的な状況になんとか乗り越えることができたら、それはふだんかえってそういう状況を楽しんでいる家族ではないか、つまり目をそむけずにうまく付き合っているのではないか、などと思いながら読んでいた。『テッドおじさんとあたしクラリス・ビーン』『あたしの惑星! クラリスビーン』と続編もあって、前者はなかなか面白かったが後者はちょっとまともすぎるかな。

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