バックナンバー(03年7月〜9月)




E. L. マスターズ 『スプーン・リヴァー詩集』(国文社)
 ファブリツィオ・デ・アンドレのアルバムから知ったこの詩集、アメリカで最初の詩集のベストセラーということだ。作者のマスターズは弁護士から詩人に転じた人。スプーン・リヴァーという村の墓地に眠る人々の告白という、墓碑銘形式の240余りの詩が、形式もさまざまに連作されている。スプーン・リヴァーという河は実在し、イリノイ川の支流で、このあたりは東部と南部からの移民が共に暮らす地域。そのあたりで育ったマスターズも父は南部、母は東部の出身だった。そういう文化的背景の異なる人々が、開拓時代も過去のものとなっていくころに、田舎町で暮らす中で起こった大小さまざまの出来事を背負ったまま、墓に入っていったのだろう。一度読んだだけでは、一つ一つの告白に触れるだけだが、それぞれの告白に登場する人物を、目次をひっくり返しながらたどっていくと、断片的な事件が繋ぎあわされたり、別々の思惑や解釈が対比できたりと、楽しみは尽きない。個々の詩としては、ユーモラスな「ハナ・アームストロング」や、繰り返しもシンプルな「めがね屋ディポルド」あたりが気に入ってしまうあたりが、詩集読みとしては素人の自分らしさである。解説によると、1914年から発表されたこの作品、1961年には70版を重ね、まもなく8ヶ国語に訳され、イタリアでは劇に仕立てられてスカラ座で上演されたというから、デ・アンドレがこの作品に親しんでいたというのはじゅうぶんありえることというわけだ。

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玄侑宗久 『私だけの仏教』(講談社+α新書)
 一冊で仏教がわかる本がない理由の一つは、経典が多すぎるからである、と著者は言う。「・・・とにかく何か仕事をしながら読もうなんて芸当のできる数ではない。僧侶などという雑用の多い仕事をしていたら尚更である。・・・」。もうこの一発でこの本が気に入ってしまう。著者は芥川賞作家にして臨済宗の僧侶で、その破天荒な経歴については、つい最近のアエラの人物ルポで詳しく知った。この本は、自分なりの仏教を、仏教ヴァイキングから皿にとって作ってしまおう、という発想で書かれている。仏教のさまざまな教えを、宗派を超えて、軽妙な語り口で解き明かす。思った以上に豊富な仏教の教えの一つ一つの解説のわかりやすさもさることながら、その教えをどのように説明すればよいかということについても、ヒントが盛りだくさんなのは、さすがに作家か。普通に読んで面白いのはもちろん、倫理の教師としてもたいへん便利な本。

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青木省三 『思春期の心の臨床』(金剛出版)
 清水将之『子ども臨床』と並んで、時折読み返しては仕事の基本に帰るための本。最近また読んでいて、ここに紹介していなかったことに気づいた。こちらも医師の書いたものだが、副題に「面接の基本とすすめ方」とあるように、臨床家すべてに求められる「面接」の話が中心である。往々にして心理の人間は、医療を意識してか、妙に構えて臨床を語りがちだったり、発達障害の新しい知見などに過剰に反応しがちの感もあるのだが、本書を折に触れて読むことで、まさにその「面接」そのものの運びや、臨床の場の創造において、肩の力が抜けて、大いに励まされたり、実際に参考になったりするのである。青木先生の「がっかり療法」をめぐる考察、情報を速やかに詳細に伝え「すぎない」ことの指摘、「問題」をただちに「病気」にしてしまうことへの迷いなど、読むたびに医療だの心理だの教育だのの準拠枠を超えたところにある援助の本体がよみがえる気がする。これがまた、薄れたりはっきりしたりの繰り返しになりがちなのだけれども。

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島泰三 『親指はなぜ太いのか』(中公新書)
 進化の道筋を「何を食べるか」を手がかりに明らかにしていく、これは一種のきわめてスリリングな推理小説(・・・というのはおかしいな、推理ノンフィクション?)だ。だから結末はここでは書かない。さまざまなサルの手と口の仕組み、そしてニッチという概念がそもそも非常に興味をひくのだが、実際に観察された事実から丹念に食べ物や食べ方を読み解いていく過程にはぞくぞくさせられる。
 在野の研究者としてこれだけの成果を挙げるにいたった、著者や周りの人々の人柄も、随所に読み取れて、これもまた本書の魅力の一つである。夕刻のタンガニーカ湖で水浴びをしながら、イボイノシシが草の根を食べる独特の姿勢を見て、「いつかは、あのイボイノシシの食べかたの秘密を解き明かす・・・」と考えて、頭を振る。「とてもそこまでは、私の人生がもちそうにない」。この一節で結ばれる本書の第5章は、読み物としても圧巻である。

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T.ディーシェ、H.M.エンツェンスベルガー作、M.ゾーヴァ絵 『エスターハージー王子の冒険』(評論社)
 不思議な絵本。体の小さな子しか生まれなくなったウイーンのウサギの伯爵家が、体の大きな相手を探して結婚するように孫たちを各地に送り出す。なかでも一番小さかった王子はベルリンで壁の崩壊という大きな出来事の前後を過ごすことになるのだが・・・。ウサギの世界と人間の世界との微妙な重なり合いとすれ違い、人間の大事件がウサギの世界ではまったく異なった意味での大事件であったりするモノゴトの意味の輻輳が妙味。絵のしっとりとした品のよさというか格調の高さは気持ちを和ませる。

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J. G. バラード 『千年王国ユーザーズガイド』(白揚社)
 『坊っちゃん』を手に取った時の感覚について下に書いた後で、本書収録の「読書の快楽」を読むと、似たような思いが書かれていて(といっても、読書量では到底比較にはならないが)共感する。本書はバラードの映画や本を主とした短編評論集だが、60年代から90年代までの幅広い、90編を越える大量なコレクションで、かの有名な、「記憶を失った男が浜辺に横たわり、錆びた自転車の車輪を見つめ、その車輪と自分との関係のなかにある絶対的本質をつかもうとする」という、「真のSF」についての一節にも出会うことができる。『太陽の帝国』で描かれた収容所体験もまたリアルに追想され、文明とテクノロジーと戦争について、時折顔を覗かせるユーモアで煙に巻きながらも分析を進める怜悧さには圧倒される。元ネタの映画や本は、見たり読んだりしたことのあるものは少ないのだが、だからといって退屈なわけでは全然ない。レムが架空の書評で証明して見せたように、評論は対象を知らなくても読める、それも楽しく読めるのである。

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夏目漱石 『坊っちゃん』(ポプラ社文庫)
 子どもの本棚を整理していて、『坊っちゃん』を手に取った時、ふと、自分はこれを読んだはずだが、さてどんな話だったか、あまり印象に残っていない事に気付いた。テレビドラマなどであとから形成されたイメージには、豪快でバンカラな坊ちゃん、美しいマドンナ、やんちゃな学生達、人間くさくどこか憎めない同僚達・・・まあ、いかにもドラマにありがちな人物像が並ぶのだが、しかし昔読んだはずの小説「坊っちゃん」のイメージが重なる感じがしないのである。あるいは、夏目漱石自身の松山での教師生活に重ね合わせて、坊ちゃんを漱石自身のイメージで見てしまっているのかもしれない。そんなこんなで読み直してみて驚いた。こんな話だったっけ!
 坊っちゃんの人物像は、無鉄砲な江戸っ子としか言いようがない。正義漢といえば確かにそうだがいたって単純で乱暴である。その目から見て描かれる限りの学校や学生たちもどうしようもないもので、松山も温泉くらいしかとりえがない田舎である。教師になったのも他にあてがなかったからで、一騒ぎ起こしてやめてからは都電の技手になっている。清の存在感は非常に強く、清が呼ぶまさにその坊っちゃんという呼び方がタイトルになっていることからも、この小説はむしろ清の物語として読める気さえするが、マドンナにいたっては全くの端役に過ぎず、ほとんど人物像すらつかめない。
 全体に、痛快さよりははるかに、皮肉に満ちた作品であるわけで、坊っちゃんの目に映る周りの人間たちだけではなく、坊っちゃん自身に対しても呆れながら読むところが妙味になる。だから今となってはなかなか面白く、さすが傑作だと思うのだが、これでは私が中学生時分に読んだところで、とうてい面白く感じるような話ではなかった。読むには読んだがよく分からなかったか、あるいは途中で投げ出してもいたかもしれない、というあたりで得心がいった。なぜこれが子ども向きの読書課題になっているのか、と思う。

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斉藤貴男 『機会不平等』(文藝春秋)
 いまさらではあるが、2000年当時物議をかもしたというか、特に学力論争の流れをたどる上では最も象徴的ないくつかの発言を引き出した、重要なインタビュー集である。著者自身が驚いているように、これらの発言は、特に苦労して引き出したわけではなく、いたって無防備に語られている。「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。個人一人一人の違いを認める教育とは、つまり、そういうことだ」(江崎玲於奈、教育改革国民会議座長)、「できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。(略)限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえればいいんです」(三浦朱門、教育課程審議会会長)。
 教育のみではなく、雇用、労働組合、保育環境など、著者が明らかにしていく実態はどれもこれも陰鬱であり、本書発行後2年余りが過ぎた時点で、事態はさらに進んできているように思う。結果の平等ではなく機会の平等を、という表向きの競争原理が、実は機会の平等そのものをどんどん奪い取っている現実はあまりにも明白である。私には突破口が見えない。教育という仕事の場でも、この悪性の腫瘍は膨らむばかりであり、抗う力もわれながら心もとなさ過ぎる。もしこの事態が変わるとしたら、今の首相が言うような改革の痛み程度のものではすまない、よほどの痛い思いをすることになるであろう。それでも手遅れにならなければまだましだが・・・。

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グレッグ・イーガン 『しあわせの理由』(ハヤカワ文庫SF)
 毎度お楽しみイーガンの短編集である。謎解きの要素のある作品では展開の強引さが目立つ事も多く、そのあたりは不満もあるが、「何かが変わっていって、しかしそれは元に戻るようでいて、しかしやはり元のようではない」という感覚を描き出すいくつかの作品には、まったくもってしてやられたという感がある。こうなってくるとアイデア面でのいわゆる「理系SF」という分類はどうでも良いといいたいほどのものである。全体的にはその辺りの色々なバランスが取れている『祈りの海』に比べると、ちょっと物足りないかもしれない。

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エリッサ・モーゼス 『ティーンズ・マーケティング』(ダイヤモンド社)
 うーんこの本はかなりヤバイ。副題が1000億ドル市場の攻略法。ティーンエージャーの平均週間支出額を見てみれば、3位はブラジル、4位はアルゼンチンである。香港やアメリカより上位であり、日本は15位。「現代社会」の授業では、ブラジルやアルゼンチンは、南北問題で債務国として登場する。しかし若者に金を使わせるには欠かせない国ということになる。インドは12位で日本より上、しかもティーンエージャー人口が中国と並んで桁外れに多い。さてそこで、国際化された情報と経済環境のなかで、どんなマーケティングが可能になるのか・・・。早い話が、ワカモノからどうやってカネをむしりとるかということを、きわめて丁寧にリサーチし、きわめてお上品に説明している本なのだ。すごく面白く、すごくコワイ、夏向きの本。

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ピート・ハミル 『新聞ジャーナリズム』(日経BP社)
 ピート・ハミルにしても、ボブ・グリーンにしても、かつての新聞ジャーナリズムの力や魅力を語るとき、そこに言い尽くせぬ思い入れが滲み出してきていて、いつも素直に感動し、あこがれてしまう。スクープや調査報道のはなやかな成果も、日々の小さな記事がもたらすちょっとした幸せも、新聞を愛してその仕事に打ち込むひとりひとりのジャーナリストの思いの結晶である。ハミルが駆け出しの頃、一流紙が初めて雇った黒人記者のテッド・ポストンはハミルに語る。「世界中で、これほど素晴らしい仕事はない。どんな政府よりも多くの人間を助けることができる。だからこそ新聞の名誉を汚すようなことをしてはならないんだ。わかるかい?」ハンガリー移民で英語も話せなかったピュリッツァーは、新聞の事業に乗り出してからも、率先して貧しい人々の中に入り、その貧富の差を厳しく告発し続けた。もちろん、カラー紙面や新聞マンガという画期的なアイデアも次々と出しながら、である。そんなエピソードをつづりつつ、クリントンのスキャンダル報道に明け暮れた挙句に世論にそっぽを向かれた、今日の新聞のありかたを一つ一つ分析し、経営者のありかたを糾弾していく。9.11以降に訳出されたことを顧慮して、新たに書き加えられた日本語版序文、訳者によるわが国の新聞事情についても詳しい解説が、さらに読み応えを増している。

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辻 秀一 『スラムダンク勝利学』(集英社インターナショナル)
 余談になるが本書の書名を正確に思い出せず、池袋東武の旭屋書店で「えーとスラムダンクなんとかって・・・」といううろ覚えで尋ねたところ、店員さんはコンピュータを調べて「わかりましたっ」と広い店内に消えたかと思うと、瞬く間に戻ってきて「これですかっ」。それは『スラムダンクを読み直す』だったっけな、そんな本で、「いやこれではなくて、確かナントカ学ってタイトルだった・・・」と言うと「わかりましたっ」。二度目でこの本を無事に入手。テキパキした応対にプロの技を見て好感度大。しかし後で考えてみると、最初に出てきた本もなんとなく気になる。金の斧銀の斧じゃないけど、さりげなくカウンターに置きっぱなしにしておくと、「あっこれも一緒に・・・」なんて買ってしまったかも。まあそういう押し付けがましさがないのもかえってよいのか。
 ・・・などと、前置きが長すぎたが、著者の辻秀一はスポーツドクターで、さまざまな保健事業やスポーツ事業にも取り組んでいる。学生時代はバスケをやっていた人。私はさるところで講演を聴いて、面白そうだなと思ったのでこの本を買ってきたわけである。確かに、アニメのスラムダンクは、子どもたちと一緒になんとなく見ているうちにけっこう楽しみになって、案外早く終わってしまったように思えてがっかりした記憶がある。辻氏は「あれはもう、哲学です」とまでおっしゃっていましたが、氏の視点でこうやって読み返すと、確かにそうですねえ。スポーツだけでなく、日々の物事のとらえ方や考え方を勝利というか満足に導く手立てが、いろいろと見えて楽しい。審判席のテーブルの上に立って「ヤマオーはオレが倒す!! by天才・桜木!!」と観客席に宣言する有言実行なんかは、確かにいいなあ。「大丈夫!」の解釈もいいなあ。・・・とまあ、いろいろあって、楽しく読めて、ヘタな心理学書よりもためになるところがある。
 ところで、後日別の書店に行ったときにびっくり。テニスや碁などほかの漫画をネタにしたものもあって、シリーズになっていた。著者はそれぞれ別々なので、たぶん中身もそれぞれなのでしょう。

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ジャウディン・サルダー、ボリン・ヴァン・ルーン 『 INTRODUCING カルチュラル・スタディーズ』(作品社)
 久しぶりに買ってみたマンガ版入門シリーズ。カルチュラル・スタディーズという呼び名は、1964年設立のバーミンガム大学の「現代文化研究センター」(The Centre for Contemporary Cultural Studies)に由来するが、階級社会イギリスの文化創造と実践を研究するところから出発している。そこに現れる問題意識は、歴史の視点に立てばさらに植民地への視線や科学・技術論(著者もパキスタン出身で科学批判の研究が多いようだ)、虐げられたものへの視点としてクイア論、そして文化環境としてメディア論と、各国で各様に展開していく。特定の理論や方法論によらないので、流れによっては果てしなくいかがわしくなっていく危険はあるが、その分、常に状況をかき回す論争性に富んでいて、また従来の思想の再発見にもつながるところがあって、まあなんともにぎやかなことである。本書によって、この怪しくも激しい「文化研究」のすべてがわかるわけではまったくなく、マンガだからといって易しいということも言えないが、この得体の知れない分野のまずどの辺から齧ってみようか、という目安は立てられるだろう。

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三谷幸喜 『気まずい二人』(角川文庫)
 人気脚本家の初の対談集。人と話すのが苦手な著者が、有名な女性たちを相手にしどろもどろの対談をするという企画自体がユニークで、これは普通に期待するような対談集とは違う。文庫解説で香山リカが書いているように、読んでいるとハラハラしてフラストレーションがたまっていく、しかしその気分を三谷幸喜と共有することを楽しむようになってくれば、もうあとは快感である。八木亜希子、西田ひかる、桃井かおり、鈴木蘭々、林家パー子、平野レミ、加藤紀子などなど、相手が会話をまったく引き出さないところに、それぞれの人柄がよく現れてくるようにも思える。単行本化の段階で二人が落ち、雑誌連載の段階でも一人が落ちていて、著者によるとこれがすごく面白いらしいのだが残念。

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養老孟司 『バカの壁』(新潮新書)
 ベストセラーの養老先生語りおろし。まずはタイトルの勝利。なんとなく、最近の学力論争や、新保守主義の雰囲気にハマるが、実は二十年前の著書で使ったことば。だから昨今の風潮とはまったく無関係に、「分かる」と「分からない」を隔てるものの意味だ。そもそも「分かる」とは雑多な知識を仕入れているという意味ではない。そこにはソクラテスの姿も見えるし、デカルトやベーコンの考えも繋がりあう。話が通じるか通じないかを一次方程式で表わしてしまうとか、「個性」の欺瞞性とか、なにが変わってなにが変わらないかとか、「働かなくても食える」ことを目指してきたのになぜホームレスを否定するのかといった、前半部分の「逆転」はきわめて示唆に富む。後半教育や経済の各論に踏み込んでくると、やや散漫な印象はある。

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藤沢晃治 『「分かりやすい表現」の技術』(講談社ブルーバックス)
 分かる分からないという話を、具体的な場面で取り上げているのが本書。標識、文章、話し方も含めて、豊富な実例にチェックリストもついた実用性の高いガイドブックになっている。そもそも分かりやすさの出発点は親切心であるということ、これを最初に肝に銘じておくことから始める必要があると分かる。当然、分かりやすい親切な本だから、学生さんにはお勧めです。

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