バックナンバー(02年07月〜9月)




コルネイ・チュコフスキー 『2歳から5歳まで 普及版』 (理論社)
 小学生の息子が解いていた国語の問題に、昔話を扱ったものがあって、アリとキリギリスの話がアリとセミとなっていたので驚いていた。この話はキリギリスの行く末について手が加えられてきたことはよく知られている。そういえば去年あたりだったか、昔話のオリジナルはとても「こわい」話だという類の解説書がずいぶんブームになっていたことを思い出して、この本を読み直してみた。チュコフスキーは、どんなに「こわい」お話でも、子供たちはハッピーエンドに作り替える天才であることを見抜いている。昔話を作り変えるのは、大人たちの浅知恵とばかりも言い切れないかもしれない。
 私は、本書にたくさん取り上げられている子供たちの発話が大好きである。拾い読みするだけでおおかたは楽しいし、ときにはドキッとさせられるし、ときには切なくなる。そして、文化的社会的状況が異なっていても、子供たちの言葉には、共通するものがあるのにも驚かされる。これらの言葉は、だから、楽しみであると同時に、子供について考えるときに今でもなお多くの示唆を与えてくれる膨大な資料として価値がある。
 それにしても、旧ソ連の教育学というのは、私が大学生だったころはテキストとしてけっこう取り上げられていたように思うが、今ではどうなのだろうか。私も実は「マカレンコ全集」なるものも書棚にそろえてはいたのだ。余談になってしまうが、たとえば教育学の講義でマカレンコのこれこれを読めといわれると、それが著作集や全集にしか入っていない場合、どうも気持ち悪くて全巻そろえてしまうクセがあったのだが、やがてこのクセは金欠のためあっさり挫折し、かなりの蔵書は次の書籍購入(と四畳半アパート住まいの寝場所確保)のため泣く泣く処分することになったのであった(^^;。などという思い出話はどうでもよかったのだが、いまは手元にマカレンコの著作がないのでここでは精確な引用はできないということの前置きである。
 で、何篇か読んでマカレンコは確かに実践者としてすごいやり手だと思ったのだが、「塔の上の旗」だったか、ブルジョア思想に芯まで染まったヤツは更正不可能、というような表現が出てきて、いやーこれはちょっとついていけないかもしれない、と感じて遠ざかってしまった。余りにも「非科学的」というのが当時の私の感想で、他の何よりもこのブルジョア思想とやらがなぜ別格になるのかがいささか理解を超えていたのである。日本人が書いた文献でなかなか面白いと思って読んでいると「ところでこの思想はマルクス主義的には・・・」という、明らかに本筋からは必要のない無意味な章が唐突にくっついていて興ざめすることもあったから、当時は日本にあってもそういうイクスキューズが必要だったとすれば、旧ソ連は想像を絶するものがあっただろう。
 チュコフスキーの前書きには、マカレンコから「叱責」を受けて教育的視点を強調したという経緯が書かれている。一読すれば淡々とした事実の記述であるが、深読みすればチュコフスキーの本心がたくみに隠されているようにも読める。そしてもちろん、本文はちゃんと「科学的」、たんねんなデータの収集にもとづいた、控えめな仮説の提示という形式をとっていて、それでいてなお「教育家ではなく作家である」という最初のスタンスを、愛や美やユーモアのセンスという形で、ちゃっかりと、しかし堅固に残していると思う。そして、その「教育」的部分は、ガチガチの「俗流左翼理論」(訳者あとがき)に果敢に対抗し続けてきた姿勢として描かれている分、なかなか痛快である。でもこういうことは、別に右も左も関係ない。「お話退治」に躍起になっていた俗流左翼理論家たちの姿は、かつて日本で教科書問題が勃興しつつあったころ、「かさこじぞうは貧しさをたたえ、大きなカブはロシアの民話だから」といって教科書に載せるのはけしからんといった人々がいたことを思い出させるのである。
 大人たちの言葉に澱む腐臭と、子供たちの言葉が醸す芳香が嗅ぎ分けられない人はいない。そう確信するには、本書を拾い読みするだけで十分だ。

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酒井邦嘉 『言語の脳科学』 (中公新書)
 本書を読むと、実にたくさんの仮説が頭の中を駆け巡ることになる。脳科学の最前線(なのだと思う)を、論争を豊富に交えて紹介しているので、いささか煩瑣だったり難解だったりするのだが、結局それが面白い。これだけたくさんのことが分かっていながら、全体からみればこれっぽっちのことしか分かっていない。脳科学はそこがミソである。著者はチョムスキーの生成文法を脳科学が裏付けてきているという立場にたつ。遡れば、カントの「知識は経験によって生じるが、経験からは来ない」にも行き着くであろう。さて、読みどころいっぱいの本書のなかでも圧巻は、アシモフを例に引きながら、やがて「心を持つコンピュータ」はできる、と言い切るのだが、それが要するに心を「持つように見える」機械を作ることと同義である点である。アシモフの「アンドリューNDR114」以外にも、星新一の「ボッコちゃん」やさまざまな「人工無能」を思い出すこともできる。ここには自己過程と観察される他者の問題が端的に姿を見せているのであり、このわずか一ページあまりに、「心とは何か」についての答えがあるのだ。もちろん、ある種の哲学者は納得しないだろうが、別種の哲学者は大いに喜ぶはずだ。

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アンヌ・モレリ 『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社)
 たぶん、これは「正義の作り方10の法則」と読み替えてもよい。第一次世界大戦時、主にイギリスにおける戦争プロパガンダを批判したポンソンビー『戦時の嘘』を読み返して、以後現在にいたるまでの戦争プロパガンダを実証的に明らかにした、フランスの歴史批評学者の著である。
 「われわれは戦争をしたくはない」が「敵側が一方的に戦争を望んだ」、「敵の指導者は悪魔のような人間だ」から「われわれは領土や覇権のためでなく、偉大な使命のために戦う」、「われわれも誤って犠牲を出すことがあるが、敵はわざと残虐行為におよんでいる」うえに、「卑劣な兵器や戦略を用いている」、しかし「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」で、「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」ように、「われわれの大義は神聖なものである」から、「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」。10の法則を並べてみれば、これが第二次世界大戦からユーゴスラビアやアフガンを巡って、当事者の双方が繰り返してきたであろうプロパガンダであることは想像はつくであろう。本書では、多くの実例を挙げて、これを明らかにしている。この実例は欧米のものがほとんどであるが、日本に当てはめるのに何の困難も感じないであろう。鬼畜米英、大東亜共栄圏、大本営発表などすぐに思いつくキーワードすらある。
 ユーゴスラビア空爆の際、ほとんどのジャーナリズムがNATOスポークスマンの報告をそのまま流すなか、空爆のさなかコソボに入り、セルビア人=悪の公式に取材に基づいて疑問を呈したフランス人ジャーナリストが、マスコミや知識人の総攻撃を受けたことなど、非常にショッキングである。つまり現実は何も変わっていない。これは人が歴史から学んでいないからというのではなく、支配者の側は大いに歴史から学んでいる、つまりどうすれば民衆がよく踊るかを心得ているということだろう。ヒトは数百年ではたいして変化しないから、第一次大戦で有効だった心理学は、状況判断を的確にしさえすれば、現在でも有効なのだ。となると、やはりこちら側が歴史に学ぶほかはあるまい。
 もちろん、こういう本を読むと、南京大虐殺や東京裁判を連合国側のプロパガンダに過ぎないとして勢いづく向きもあるだろう。それはもちろん、わが国とプロパガンダにおいては五十歩百歩だと言っているに過ぎないのであって、それをもって何かが正当化されるわけではないことは当然である。

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中野重人 『学力低下論とゆとり教育』(明治図書)
 「学力低下」論への反論の書である。いわゆる「学力低下」論については、複数の視点から論じる必要がもちろんあるし、大学の大衆化に対応できない知的エリートの勝手な言い分、という逆批判にも一理はある。そういう意味もあって、力のある反論を期待していくつか書かれたものを読んできたが、今のところ腑に落ちるものは見つからない。そのなかでは、本書は比較的手ごたえを感じた一冊なので、少し長くなるが、思ったことをまとめてみたい。
 著者も指摘するように、批判する側が「では、どうしろというのか」という処方箋を提示しきっていない(まったくしていないわけではないが)ことや、ましてこの期に及んで新学習指導要領の実施を凍結せよと訴えていること(審議会答申段階でけちをつけなくては遅いのである)に関しては、私もいささか無茶な話であると感じている。確かに今回の改訂は、教科内容の三割削減と総合的な学習の時間の導入という、目立った変化が目を引くが、このいわゆる「ゆとりと充実」の流れはこれまでずっと続いてきて、改定のたびに現場や現場に近いところからは問題点が指摘されてきたし、隔週5日制の唐突な導入や国旗国家を巡る混乱など、学校がそのたびに無駄に疲弊してきたことについて、いったい学力低下論者のかたがたは何をしてきたのか、という気持ちもある。文句のつけ方がちょっと過激にはなったけれども、結局のところ手遅れに過ぎることにかけては従来と何も変わりはしない。
 かといって、私は著者がいくら教師や児童生徒を力づけ、学校づくりを促すという視点にたつと言われても、本書を読んで力づけられたという印象はとても持つことはできない。学力低下論者による「危険なシナリオ」について、著者は「こんな教師がどれほどいるか、ほんとにいるか」と言う。実は私も、さまざまな研究会や学会で出会う小学校や中学校の先生方のすばらしい実践に触れてきて、そう思いたいし、実際に思ってきたのだが、いざ自分の息子たちが小学生になって、親として直面し、それに取り組んできた事態からは、「いったい、私が知っているあの先生方は、どこにいってしまったのか?」と思い知らされる現実に、文字通りぶつかってきたといわざるを得ない。もちろん、自分の経験を軽々に一般化する誤りを犯しては同じ穴の狢になってしまうので、まあこういうこともめったにないのかもしれないが、だとしたらあまりにも大当たりだ! と言うに留めておくが、地域差・学校差・個人差をまったく丸めてしまったような話にはついていけないとだけは言っておきたい。
 また、学力論の歴史的整理も参考にはなったのだが、その非生産性は、やはり実証性にかけているところからくるのであって、たとえば今や「学力低下」論が「個性尊重」と相反するものという視点はまったくずれている。学力低下論者はどういうつもりか知らないが、すべての大学生に分数計算のスキルが必要なわけではないにしても、ごく少数ではなくこれだけの比率の大学生に分数計算が身に付く程度の学習経験がないということは、たとえばその個人が分数計算を活用することで可能となるような分野についての適性をみずから判断できるような機会を奪われているからであり、分数計算についてそうであるならば算数全体、理科全体についてその恐れがあるからである。100%の子供に分数計算をマスターさせよといえば個性尊重に反するかもしれないが(しかし指導要領のミニマムについては100%できるようにするというのがむしろ文部科学省の当初の正式の見解だったのだ!)、そういう問題ではないのである。だから、私は「基礎・基本」を固定的に捕らえるかどうかというのは問題のすり替えか、少なくとも本質からは逸れていると考える。みずからの進路を幅広い可能性の中から選択する、そういう現実的な機会を奪い取っていることを、大いに危惧すべきである。
 そういう意味では、本書の副題が「どちらができない子に心痛める教育か」というのだが、本書においてどうしても感じざるを得ない、問題のすり替え(あるいは単なる読み違い)を象徴しているように思われる。学力低下論は、全体としてみればエリート教育のみを問題としているのではない。明らかに、庶民の教育の問題として危惧しているのである。
 教育課程の次元で学力論を具体化した指摘がなく、唯一のよりどころは学習指導要領であって、これに匹敵するものはないという認識であるが、これはもう文部科学省が音頭を取って膨大な人員を動員して膨大な作文をさせてぐんぐん膨らませていく指導要領とその解説書類に対して、いったいほかの何を比較の対象にするのかということは措くとしても、学習指導要領自体にはほとんど学力論を具体化するときの実証的な根拠は示されていない。おそらく法的拘束力のお墨付きを得て安心したのか、指導要領は次第にその傾向を強めてきたのだが、理論や整合性がまったく薄弱な、玉虫色の答申に基づいたあいまいな作文なのである。つまり現実は、学習指導要領が「ある」という以上の、その優越性を支える実証的な根拠は何一つ示されていないという、落胆させられるオチになってしまっている。学力論からは離れるが、たとえば高校公民科の『現代社会』の学習指導要領が、課題解決型の学習を取り入れる部分と、最初から単位数を半減する前提で内容的な整合性を欠く「選択」の仕組みが取り入れられていることなども、指導要領やその解説をいくら読んでも論理的につじつまの合った説明など存在しない。
 それにつけても、ありとあらゆる、人間の知的活動を包含する教育において、いつのまにか役所と審議会で仕立て上げられ、今回は寺脇某を前面に押し立てるという奇策が講じられたものの実は匿名性に守られた「新しい学力観」とはいかなるものか。勝田守一の指摘は慎重であるが、それなりに了解できるものではないのだろうか。「関心・意欲・態度」を他の評価カテゴリと並列して多面的評価にのせたときに、実際に現場で何が生じているのか。ドリルを増やすことで実際に学習意欲や生活態度、進路実績に効果が現れているという報告も実際にある。私自身の課題は、「新しい学力観」がいかなる具体的根拠の元に打ち立てられているか、納得のできる論証を探し出すことにある。
 そして、教育全体を覆うこのちぐはぐさ、入学者を確保するために受験科目を競争して減らしておいて、学力低下を憂えて今度は科目数を増やすといい、学力低下論が盛り上がると学習指導要領は最低基準であると腰砕けになる、こうした主体性のないありさまというか体たらくについては、本書にも指摘のあるとおりであるが、それはいったいどこから来るのか、あきれたり怒ったりするだけでなく、きちんと考えなければならないだろう。
 最後に、これは本書の内容とは直接の関係がないのだが、明治図書の本の装丁は、もう少しなんとかならないものだろうか。本書に限らないのだが、デザイン、とくに配色やレイアウト、フォントなど、正視に耐えないとさえ言いたいときがある。この社の本はほぼ学校関係者のみが注文で買うことが多いと思われるから、普通はあまり装丁に凝るのは無駄なのかもしれないが、このような本は、相対立する立場の書物と並んで議論を呼んでほしいのだから、こういう売り物とは思えないような装丁では折角の機会を失う。ぜひ多くの人に読んでほしい一冊なのだ。

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ニール・スティーヴンスン 『クリプトノミコン』1〜4 (ハヤカワ文庫SF)
 やっと完結した4分冊。一ヶ月おきの発刊で読み始めてから読み終わるのに三ヶ月あまりかかるというのは、ちょっとひどい。一冊読むのに、せいぜい二、三日、あとの一ヶ月近くを「続きはどうなる!」と思いながらすごすことになるのだから。
 というのも、もちろん、面白いからである。日本、アメリカ、フィリピン、ドイツにまたがって、第二次世界大戦と現代の間を行き来して繰り広げられる、暗号解読と日独の財宝、国際的ネットビジネスをめぐるサスペンス。エピソードにしても人物像にしても、厚く書き込まれていて、そこに暗号のみならず歴史や文化まで薀蓄が傾けられ、さらに突拍子もないユーモアまで。小説読みの楽しみがこれでもかといわんばかりに詰め込まれている。

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永六輔 『職人』・『芸人』・『商人』 (岩波新書)
 永六輔の語り口は書き言葉になっても相変わらず軽妙。もっと無名の人々の言葉に自ら語らせる部分の割合を多くすることはできなかったかと、著者の饒舌に食傷することも時にないではないが、一気に読ませるところはさすが。しかし、今更この三冊を読み返したのは、最近特に気になっていることがあるからである。
 この道一筋、という生き方は、その道が廃れてしまえば成り立たなくなってしまう。私はずっと、職人や芸人や(「あきんど」と読ませる限りにおいての)商人にとってのジレンマはそこにあると思っていたし、また永六輔のこの三部作を最初に読んだときにも、あまり深く考えずにいた。しかし最近思うのは、どのような道であれそれを一筋にきわめて行くという生き方のスタイルそのものが成り立たなくなってきているわけで、廃れているのは個々の道ではなく、一筋という生き方そのものであるということに、もっと目を向けなければならないということである。たぶん、このことを考えていくことが、現代社会の根本的で解きがたい課題を読み解く糸口になるはずである。

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帚木蓬生 『賞の柩』・『空の色紙』 (新潮文庫)
 先日、著者がフランス留学の思い出の人々を訪ねるというテレビ番組を見て、帚木蓬生の人柄に魅力を感じた。東大仏文を出てテレビ局に入社したが二年で退社、九大医学部に入りなおして精神科医として働きながら、小説家として活躍している。なんとなくその経歴から、もっとこう、バリバリというか、なにか張り切った感じを予想していたのだが、やさしく穏やかな白髪の紳士であった。というわけで、多分、父から渡されていた何冊かの本の中にあったのだと思うが、手元にあったこの二冊を出張の途上で読みきって楽しんだ。
 『賞の柩』のほうは、ノーベル賞受賞の研究者をめぐるスキャンダルをめぐって、賞レースから脱落していった人々、研究者や家族やマスコミのそれぞれの思いが交錯する。サスペンス仕立ての割には結末がやや物足りない気はするが、医学の基礎研究をめぐる人間模様が、まあどこの世界にもこういうことはあるわなあ、と思わせるリアリティがあって、すっかり引き込まれる。『空の色紙』はやはり医学テーマの中篇3編で、ここではいっそう人間関係を深くえぐるところがあって、特に夫婦の嫉妬や研究者たちの軋轢が息苦しい。しかしあの番組で見た著者、そして精神科医という職業を思うと、そうした人間の醜さに注がれる視線の精密さが、愛とも言うべき丁寧さを感じさせるのではないか。

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ブレイク・モリソン 『あなたが最後に父親と会ったのは?』 (新潮社)
 1950年生まれのイギリスの作家・コラムニストの作品で、イギリスでベストセラーになったという。かなり俗物の医者であった父親の死に際して、現在進行形の出来事と、子供のころからの思い出をつづった、「セラピーのつもりで書いた」日記やメモをもとに構成されたエッセイ。人格高潔な名医でもなく、かといって特別な変人でもなく、父親の権威を振りかざし、医者の特権を使い、けちで浮気もはたらく、そんな父親に反抗して文学の道に入った息子の目から、父親との日々を振り返り、衰え行く父親と向き合い、絆と亀裂、喜びと不和をすべて抱えこむ家族を見渡す。
 父と息子とは、どういう関係なのだろうか。著者の父親は息子の人生に力を振るいたがるが、息子は息子でやっていこうとする。それでも、父親は父親である。私の父は健在で、先日も喜寿を祝ったばかりだ。一方、自分にも息子たちがいて、長男は高校生、そろそろ父親の人間性にも鋭い目を向けているであろう。私も父の勧める進路や職業には就かなかったが、私の息子たちもどうもあてにならない(^^;。私などは父が偉大に感じられて、同じような道を歩いて負けを認めたくなかったのかもしれないが、むしろ親と同じ職業に就いて勝負したかった友達の話を聴いても、結局は父親は父親であるというだけでこの勝負は結果が見えているという。逆の意味で思い出したのが、ボブ・グリーンのコラムにあった一編で、大学を出て間もない自分が出世した矢先、父親は長年勤め上げてきた職場で失職する。息子は自分の昇進を父親に告げることができない。社会人として尊敬し、自分にアドバイスを続けてきた父親がこんな目に遭うことに、息子は世の中の理不尽さを思い知らされてしまうのである。
 父親と息子との関係の歴史には、尊敬と愛着、抵抗と恭順が交互に密に編みこまれている。その思いのきめ細かさを味わわせる物語だった。

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アラン・ド・ボトン 『哲学のなぐさめ』 (集英社)
 著者はロンドン大学の哲学の先生だが、同じ6人の哲学者による構成でテレビシリーズも作ったらしい。とにかく面白いので、各国に訳されベストセラーというのもわかる。
 かつて『ソフィーの世界』がベストセラーになったとき、内容的には高校倫理の参考書になるほどオーソドックスだが、哲学好きを生み出すような気はあまりしなかった。あの本の魅力はソフィーというキャラクターに負うところが多かった(少女と一緒にテツガクする気分が、読者を惹きつけたところは否定できないだろう)のにくらべて、本書を読む読者は、まああいかわらずそこらのおっさんおばさんとして、素のままでテツガクを楽しめる、つまり日常とテツガクがくっつきやすいと思う。著者がいかにも哲学者らしい香気を漂わせているようでいて、しかし現代を生きる大人としてごく当然な欲望や苦悩に巻き込まれつつ、まさにその只中に哲学の楽しみを見出し、過去のちょっと変わった哲学者たちと気軽に、あるいはちょっとはらはらしたりいらいらしたりしながらお付き合いする方法を示してくれる。だから、今、もし哲学についてちょっと興味があって、本でも読んでみようかな、という人がいたら、迷わずこっちをすすめる。

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フランソワ・ジュリアン 『道徳を基礎づける』(講談社現代新書)
 久しぶりに、比較思想のスリルを味わわせてくれる本だった。フランスの中国思想の研究者による、孟子の紹介であるが、「道徳を基礎づける」という、今日ではほとんど打ち捨てられたも同然、重厚長大産業のような「問い」を、孟子を読み西洋哲学にぶち当てながら、大胆によみがえらせていく。
 孟子は、教科書的には四端の心、性善説といった用語が暗記されておしまい、ということが少なくないのではないか。しかしこの四端が、西洋倫理学が頓挫した「道徳の基礎づけ」という根本問題を切り開くきっかけになっていく。ルソーやカントが、孟子と火花を散らしたり、時にはふっと融和する。そこに人間性そのものにもとづいた「道徳」の可能性が閃く。その問いへの答えは必ずしも見えてこないし、西洋近代思想のいわば限界が問われるのとはまた別のところで、しかし少しずつ重なり合いながら、孟子のいわば限界も見えてくる。けれども、ニーチェとも呼応しつつ、超越の高みへと急上昇する終結は、まさに鳥肌が立つ。
 難解なところもなくはないとはいえ、私には孟子の読み直しの視点を与えてくれたというだけでも、おおいに参考になった。

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黒野耐 『日本を滅ぼした国防方針』 (文春新書)
 歴史教育論争もそろそろマスコミでは話題に上らなくなってきたかと思っていたら、鹿児島県議会が、中国を訪れる県立高校の修学旅行先から、南京市の南京大虐殺記念館を除くよう求めた陳情を採択したというニュースを聞いて、まだまだいわゆる「つくる会」は活発に活動しているのだということを再確認した。殺された人数など疑問点は多いにせよ、もちろん「中国側は日本をどう受け止め、国民に伝えているか」を知るための、格好の教材のはずである。それを「見に行くな」とは、まあなんとも狭量なことで、なさけない話である。平和と民主主義のスローガンを口にさえすれば事足れりとする浅薄な人々と同じレベルに成り下がってしまいましたね、結局(というか、最初からそうだったとか?)。
 それはさておき、日露戦争を高く評価する理屈はわかるが、そこから大東亜戦争になだれ込んでいくプロセスについての説得的な肯定的評価には出会わないので、そのあたりを特に軍事的側面から丹念な資料批判を通じて明らかにしている本書は、大いに参考になる。著者は防衛大学校卒、陸自出身で、防衛庁防衛研究所戦史部主任研究官という、まさに専門家である。とにかく、これを読むと、大日本帝国の政治と軍事の、なんともとてつもなく無責任な様子が、うんざりするほどによく分かる。国家戦略があり、それを実現するための国防があるはずなのに、国家戦略はまとまらず、陸海軍の主導権争いを通じて国防方針もむちゃくちゃ、そして国策はその争いに都合よく引っ張られていく・・・。もちろん、一部には堅実で納得のいく考え方を進めようとした人々もいたのだが、そうした思想や人はことごとく排除されていってしまう。たとえば、日中戦争の長期化に陸軍は一旦、兵力の大幅な縮小を決定していた。しかし、ドイツの西方攻勢の成果を見て方針転換、大東亜共栄圏を謳い始める。真珠湾攻撃の成果に幻惑されて、東条首相は和平工作を主張する東久邇宮防衛総司令官に「この調子なら・・・オーストラリアまでも容易に占領できると思う」とその意見をはねつける。いやまったく、この人たちは国家を何だと思っているのか、というよりは、国家よりも陸軍であり、海軍であり、政権であり、いわゆる国家主義の姿すらそこには見られない。日露戦争のころまでは維新以来の元老が力を振るっていたからまとまったが、彼らが引退してしまうととたんにまとめる力のある人はいなくなり、勝手気ままで行き当たりばったりになったわけだから情けない。それでいて「民主主義国民はいざとなれば強いのだとなす今日の世論は軽薄である。すべては作戦である。作戦さへうまく行けば、民主主義国民は真先に参るものと信ずる。」とまで言うのである。政戦略センスの著しい欠如もさりながら、現実を冷静に見つめて考えることの出来ない愚鈍さは救いがたい。
 日本に「誇り」を持つようにと「つくる会」の人々は言うが、日露戦争以後のこの国策と国防の崩壊過程を、まずはいやでも「自虐的に」なりつつ見つめなおしてからでないと、今後の国防を考えるにしても、話は始まらないだろう。臭いものにはふたをして、嫌なものは見せない、ものを考えさせない発想を続けていては、まともにものを考えることのできないご都合主義者を垂れ流して、大東亜戦争にいたる道を再び歩ませることになりかねないだろう。いやまあ、それが狙いなのかもしれない。国の将来を考えているふりをしながら、実はハイハイと言うことを聞く人間を尻に従えていい気分になりたいのかもしれない。

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下田治美 『精神科医はいらない』(角川書店)
 以前にアメリカのいわゆる「トラウマ療法」が社会問題化していることや、翻訳書の解説に「有名精神科医」のおざなりな書きなぐりの文章が使われていることについてなど、この読書感想のページで述べたことがある。精神医学や心理学の知識の普及は、確かに心の病や不調に苦しむ人々に、より気安く精神科医や心理カウンセラーに相談できるようにしたという意味では、多くの人々の救いにつながったことは事実だと思う。しかし、安易に使用される薬物や、マスコミに頻繁に露出するその道の人々への「信仰」は、その深刻な副作用である。
 本書は、エッセイストの下田治美が、自らのうつ病体験からのつながりで、実際の体験や出会った人々の経験に基づいて、「有名精神科医」や修養団体が、苦しんでいる人々をより苦しめている実態を生々しくつづる。一部は実名入りであって、著者の必死の思いが伝わってくる。こういう書きぶりには当然批判もあるとは思うが、研究本でも調査本でもなく、承知の上で危険を冒して書いているのだろうから、そのことで本書を軽視するのは的外れというものである。

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細谷亮太 『小児病棟の四季』(岩波現代文庫)
 医療の闇を覗き込むような本を読んだあとで、この本を読んだのだが、もう泣けて泣けて・・・。この先生、聖路加国際病院の小児がんの専門家だから、医者として有能とか優秀とかいうことであれば、当然そうなのだろうが、病を持つ子ども達に向き合う気持ちにとにかく打たれる。幼い姉弟に、さらに幼い弟の死について語りながら泣いてしまう。子どもの追悼の言葉を頼まれると、大勢のスタッフもいるのに途中で大泣きしてしまう。ありがたい先生だと思う。もちろん、病院の体制やスタッフの質のすばらしさ、小児医療が発達して救われる命がはるかに増えたことにも感動するが、親としてのあり方や生き方、そして子どもがもつ力や放つ光を考えさせ、そこから人のはかなさ、はかなさゆえのやさしさがひたすら胸にしみる。

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