バックナンバー(01年4月〜9月)




成瀬悟策 『リラクセーション』 (講談社ブルーバックス)
 リラクセーション、と言うと昨今のブームで垂れ流される「癒し」系のハウツー本にまぎれてしまいそうだが、本書は著者のグループが臨床の分野で長年にわたって研究を続けてきた「動作法」の紹介である。
 私たちも大学院で大野清志先生からリハビリテーション・カウンセリングとして動作法の入門コースを受講したことがあって、これはたいへん貴重な経験だったと思っている。脳性まひの子が、我を忘れてテレビに見入っているとき、それ以外のときには不当緊張で曲がってしまっている腕が伸びていることがヒントとなって、研究されてきたという話であったと思う。実習に入ると、硬いと思っていた筋肉が緩み、限界と思っていた関節が動くのである。理屈では聞いていたこころとからだの関係を、これほど身を持って味わうことは、なかなかできるものではなかった。
 本書はもちろん写真も豊富で、自分で実践できるように書かれてはいるが、ハウツー本のようにカラー図解で一目瞭然というような種類の本ではない。じっくり読んで使うか、あるいはテキストとして使うことが必要である。

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横山正編 『時計塔』 (鹿島出版会)
 発行が1986年だからもう古い本なのだが、これの成り立ちが面白くて、「チャイム銀座」という和光の宣伝雑誌に連載されたものをまとめたもの。執筆者はたいへん豪華で、建築プロパー以外からも由良君美、猿谷要、四方田犬彦といった人々が、それぞれに所縁のある各国各地の時計塔を、それぞれの切り口で取り上げて語っている。ちょっとした薀蓄、例えばなぜビッグ・ベンはそう呼ばれるようになったのか、札幌の時計台についている赤い星のマークは何なのか、といったことも面白いし、建築、町並み、社会制度との関係などは考えさせられる。もとより機械式時計の普及と近代合理主義思想とは深いつながりもあるし、都市の歴史の中の風景をイメージするのにも重要だろう。一番目立つところに誇らしく時計が掲げられている風景とは、何を意味するのだろうか。例えばそこに大仏の顔が見えた時代との本質的な違いはどこにあるのだろうか。

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ポール・オースター 『シティ・オヴ・グラス』 (角川文庫)
 今まで知らずにいたが、読んでみてびっくり、これは推理やサスペンスというよりは、SFである。児童虐待、犯罪被害者保護などのタイムリーな設定に引き込まれるうちに、不条理に不条理が縺れていき、事件らしい事件も、従って解決らしい解決も起こらずに終わってしまう。作者自身の名前が、そしてやがて実体が現れながら、すれ違うように存在意義が薄れていくことに代表されるように、いくつかの分岐点が存在し、どこかで間違ったか、あるいは間違い続けているような不全感が拭えない、現実に薄絹をかけたような彷徨が悩ましい。なんとも気味悪くも面白い小説である。

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門脇厚司・佐高信 『〈大人〉の条件』 (岩波書店)
 山形県庄内地方出身者のための学生寮の先輩後輩である両氏の対談である。3章からなり、第一章は門脇の造語である「社会力」を巡っての教育談義、第二章は学生寮、および当時の監督(寮監)佐藤正能の思い出、第三章は本書のタイトルである〈大人〉の条件、という構成である。
 門脇の言うように「社会力」をシチズンシップであると考えるなら、この概念自体は例えば公民教育ではずっと追求してきた概念であって、それをここでは寮生活や現代の教育から実例を挙げて話しているということになる。もちろん、そのために重要とされる「総合学習」も新しい概念ではなく、すでに数多くの実践は積み重ねられてきている。私もシチズンシップの養成とその場としての総合学習の意義には、異論はない。
 だから問題は、今の学校に「総合学習」を構成していくだけの力があるのか、学校が地域に切り込み、巻き込んでいく力があるのかということである。この地域格差・学校格差は非常に大きいのではないだろうか。私の息子の小学校でも、ある「総合学習」がおこなわれたのだが、内容は昨年度まではPTA活動で行っていたものだった。学校はどうもPTAのかかわりを何かにつけて制約しようとしているふしも合って、やや釈然としないところがある。総合学習を取り入れた代わりに教科の内容は削減されたが、削減した分みんなに100点を取らせるように指導するのだそうだから、それによって教科指導の労力が3割削減されるわけではもちろんないので、知人のベテランの小学校教師は、総合学習の準備のためにもう授業参観の準備すら不十分になってしまったという。むろん、これらの私の身の回りの出来事だけで判断することは無茶なのだが、現実的には力のない学校の状況にどうしても目が向いてしまうので、教育は理論と状況と政策の三方向から一気に考えられなければならないという立場をとる私としては、どうにもすっきりしない話に終わっているように思える。
 第二章は、当時の寮生活の思い出話で、これはもちろん面白かった。その教育的な示唆が豊富であることも、否定はしない。第三章は、だれだれは〈大人〉だ、だれだれは違う、という噂話のような流れになってしまっているが、これもまた、読み物としてはなかなか面白い。結局、二人の博学なおじさんが、古きよき時代の寮友として語り合った、という潔い割り切り方をして読めば楽しいので、そういう本として読みたい。決して、教育社会学者と評論家の、息もつかせぬ白熱した議論を期待してはならない。

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ジョージ・ドーソン 『101歳、人生っていいもんだ。』 (飛鳥新社)
 大リーグで活躍する新庄選手が、ヒットが出ないときにインタビューを受けていて、べつに打てなくたって「死にゃーしねーよ」と明るく言っていたのがとてもうれしく思い出される今日この頃です。新庄選手はイチロー選手と比べられることについて、「イチロー君ははるかにすごい選手。どうして比べられるのか」というようなことを言っていたが、これこそが自分流に生きるということでしょう。自分らしさとか個性的とか言いながら、実はあまりにも周りを気にしすぎている人が多い。他と比べること自体思いつかないようであれば、自分らしい生き方ができる。
 アメリカ南部の解放奴隷の家庭の長男として学校にも行けず、親しい青年が白人にリンチされ殺されるのを目の当たりにし、早くから親元を離れて低賃金で働き、仕事を探しながら時にはメキシコからカナダまでを放浪する。工場を退職してからも庭師をやって働き続けたものの、道具一式を盗まれてついに引退、・・・と並べれば、何か悲惨な話になりそうだが、まるで違う。ここにあるのは悲嘆でも諦めでもなく、人生における徹底的に肯定的な態度である。
 ジョージが知られるようになったのは、98歳になったときに識字クラスに誘われて通い始めたことが新聞に紹介されたことによる。というと、ボブ・グリーンのコラムにも「男の中の男」という話があったのを思い出す。この本も、ジョージの記事を知った小学校の先生リチャードが、思い切ってジョージを訪れて話を聴くことで実現した。
 聞き手のリチャードは、最初はジョージの生い立ちからアメリカの歴史の暗部を引き出そうとするのだが、公民権運動やケネディの暗殺、ベトナム戦争を知らなかったわけではないし、当然ながら人種差別の渦中にあるわけだが、それはそれとしてジョージは常に自分らしく生きてきたのである。人を裁いてはいけない。仕事は一所懸命やる。原則は単純だが、単純だからこそ原則を曲げずに貫き通すのは、普通は並大抵のことではない。ところが、ジョージはそれをごく自然体でやってのけてしまっている。貧乏な暮らしのはずなのに、子どもたちも貧乏だと思ったことはない、という。みなカレッジまで進んで、長男たちも近くに住んでときどき寄ってくる。そうした家族と同様、学校の仲間たちも、リチャードも、ジョージのかけがえのない仲間として溶け込んでいく。
 心理学的に見ても、大変に興味のある話ではある。グリーンのコラムに登場した人物に比べて、ジョージの言葉の習得はかなり順調に思えるのだが、このことはエピソードの記憶のすばらしい迫真性と無縁ではないかもしれない。あるいはこうした能力とパーソナリティの間にも何らかのつながりがあるかもしれない。・・・しかしまあ、そんな理屈はどこかに置き忘れてしまうような、人生のよさを繰り返し見直すことのできる、力強い暖かさのある本である。

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ブライアン・ステイブルフォード 『地を継ぐ者』 (ハヤカワSF文庫)
 不老長寿社会テーマということでは、スターリングの『ホーリー・ファイアー』を読んで間がなかったので、どうしても比較してしまう。カルチュラルなイメージの広がりについてはスターリングの持ち味が群を抜くが、こちらはイギリスのベテラン作家だけあって、端正な構成と文章でありながら、起こる事件がなかなか派手で飽きさせない。ただ、このテーマの宿命なのかもしれないが、いずれも結末が収斂しすぎていて物足りないというのはわがままだろうか。

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北村俊則 『精神・心理症状学ハンドブック』 (日本評論社)
 あとがきによれば、国立精神・神経センター精神保健研究所社会精神保健部の部内研究会における講義にもとづいているという。広義の精神保健にかかわる精神医学の非専門家にとって必要な症状学の基礎知識を学ぶには絶好の書。本文記述の充実はもちろんだが、実際の見立てに求められる道筋がコラムの形で豊富に取り上げられているのがありがたい。しかしこのせっかくのハンドブック、わたしが使っているのは第2刷なのだが、誤植が目に付くのは残念ではある。未知の専門用語で間違いがないか不安になる。

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灰谷健次郎 『子どもに教わったこと』 (NHKライブラリー)
 親、教師、もちろん子どももそうなのだが、物事の自分にとって都合の良いところだけをつまみ食いする人によく出会う。自主性とか、子どもの可能性とか、管理教育とか、知育偏重とか、否定する側も肯定する側も、文部科学省も含めて、実に怪しい話が多い。
 灰谷健次郎も、自主性を重んじること、子どもの能力をのびのびと伸ばすことを語るし、管理教育や知育偏重を批判する。しかし、それがどういう文脈の中で語られているかは、きちんと読み直したほうがよい。単にてんでばらばらに子どもをほったらかしている教師が、一人一人の興味関心を大切にする、という。では学校で有名なやんちゃ坊主がとにかく絵を書きたがるときに、輪転機の巻紙を買ってくることができるのか。悪さをした子どもを見過ごしがちな教師が、子どもには将来があるから、という。では万引きをしてしまった子どもにぎりぎり向き合ったときの一言で、子どもを自分の心にぎりぎり向き合わせることができるのか。・・・もちろん、あらゆる批判は自分にも撥ね返ってくる。あきらかに「現代社会」の教科書のことが言われている一節があるのも、なんとも面目ないことである。
 それにしても、あふれ出る子どもたちの言葉はすごい。読んでいて何度も泣けてしまった。子どもたちの言葉がたくさんのことを教えてくれる・・・というのは、気が付いてみれば書名そのものではないか。

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ブライアン・オールディス 『スーパートイズ』 (竹書房)
 先日、映画館でスピルバーグの新作『A.I.』の予告編をみた。うーん、と唸らされるうまい出来だった、と思う。本作のほうがどのようなものか、少なくともその設定は予想がついたが、そのときはオールディスが原作であるとは知らなかった。
 本書は、『A.I.』の原作となる『スーパートイズ』三部作を含む短編集である。表題作の成り立ちについては、なんと故クーブリックの映画化の構想にオールディスが長年付き合いながら果たせず、それを受け継いだスピルバーグとのやり取りを通じて成立した経緯が、巻末の「スタンリーの異常な愛情」に綴られている。この数奇な運命をたどった映画の仕上がりは、スピルバーグ作品にはとんと無関心になっていた私にも気になるところである。
 表題作の悲しみは、しかし私には馴染み深さというか、懐かしさを感じさせた。つまりこれは「鉄腕アトム」である。子どものころに読んだり、テレビで見たアトムのストーリーは、実はほとんど覚えていない。ただ覚えているエピソードの一つが、アトムが自分には人間のような感情がないと「悩んでいる(!)」場面である。この矛盾を考えつづけていて、息が詰まりそうになった覚えがある。デイヴィッドにとってこれが自己の存在をかけた苦悩になっていくのは、もちろんデイヴィッド以外の人間が病んでいるからである。その点、天馬博士から離別したアトムを取り巻く人々は健全なので、アトムは自己の存在に苦悩するよりは、それをより崇高なもの、おそらくは正義にかけることを余儀なくされる。結末は対照的であるが、あるいは逆説的なのかもしれない。
 他の作品は、私にはいささか寓話的に過ぎる物が多いのだが、オールディスの厚手で肌触りのよい、しかしやや不審な温かみや湿り気を帯びた表現に、警戒させられながらも絡めとられていくのが癪である。

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河野義行 『「疑惑」は晴れようとも』 (文春文庫)
 松本サリン事件については、複雑な思いがある。報道に接して、私自身も河野氏が犯人である、という思い込みに見事にとらわれていたからである。この手記も、単行本で出たときには読んでいない。恥ずかしかったのだ、と思う。ふだん、ジャーナリズムの問題について語ることも少なくないのに、あっさりと陥穽にはまってしまった自分はなかなか許せるものではない。文庫化されたのを店頭で見て、読んでみる気になったのは、この無力感と恥ずかしさが、かえって問題を語る重さにつながれば、とようやく思えるようになったからかもしれない。
 「この事件は冤罪が走り出す要件を備えていたから」と弁護を引き受けた永田弁護士や、取材を通じて早い段階からまとまった手記を発表すべきであると考えた中川氏のような判断が、事件の近くにいた人々によってなされていたのに、ほとんどのメディアはしばらくの間、警察の予断に満ちた捜査にほぼ完全に方向付けられ、実質的に牛耳られていたことになる。警察の不祥事が次々と問題になるのはこの事件の後であるが、そこから振り返ってみれば、警察が何を傷つけて何を守ろうとしていたかがよく見えてくる。そして謝罪を引き延ばすメディアのありかたも、同じベクトルにあることは恐るべきことである。おそらく、本質は今も何も変わってはいないだろう。この危険さを忘れると、私はまた、被害者になるよりははるかに高率の可能性で、加害者の一人になってしまうだろう。
 それにしても、この手記は人間への信頼や家族のあり方を考えさせられるものでもある。当時高校生のご長男が、家族を守るためにがんばった姿、いまだに意識の戻らない澄子さんをやさしく、しかし全力で介護する河野氏の生き方、最初から河野氏を信じつづけた人々など。あのような目に遭いながら、人間への信頼を捨てなかった(というか、捨てることなど考えもつかなかったように見える)河野氏に、私自身が励まされる思いなのだ。

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ロバート・J・ソウヤー 『フラッシュフォワード』 (ハヤカワSF文庫)
 この話は、どうにもならないこととどうにかなることについての物語である。自分の未来の一瞬を見てしまったとき、人はどう振舞うだろうか。例によって豊富なSFのアイデアが盛り込まれていて、さらにサスペンスもロマンスもありだから、枝葉の部分でも退屈することは全くないが、やはりこの面白さはテーマが骨太だからだろう。ただそのわりには、ちょっとオチが気が利きすぎているかもしれないのだが。

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清水将之 『子ども臨床』 (日本評論社)
 非常にシンプルなタイトルなので、著者名に気づかなければ見過ごしてしまいそうであるが、まさにこのタイトルはこの本のためにあるといってもよい。この本は子ども臨床の教科書ではない。未だに絶対的に不足している児童精神科医師として40年、三重県立こども心療センターあすなろ学園の園長を定年退職されたのを機にまとめられた論集。事例報告あり、データに基づいた提言あり、子どものPTSDやインフォームド・コンセントといった、非常に重要だが研究が不足している分野での、事例に基づいた論考ありで、中身の濃さは尋常ではない。非常に分かりやすく丁寧な叙述だが、それは根底に第一章の扉の短い言葉に凝縮されているような、子どもへの誠実さが込められているからだろう。臨床家のみならず、福祉や教育に当たる様々な人々にとって、この中身と姿勢の二つながらが参考になるはずである。

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城山三郎 『イースト・リバーの蟹』 (新潮文庫)
 短編集だが、いずれも概ね海外に駐在しながらもう少しのところで躓いてしまう企業人、といった趣の人々が描かれる。世代的には戦争経験者からその少し後まで、といったところ。私とは全く境遇の違う人々なのだが、ある種の「中年の危機」のエピソードとして、何となく他人事とは思えないところがあって引き込まれた。普段の私の読書傾向からは出てこない本だが、引退したサラリーマンである父が回して来たのである。親心かも知れぬ。

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ロイ・ポーター 『健康売ります』 (みすず書房)
 カウンセリング心理学で修士号を取り、学生相談の仕事を続けてきて、最近どうも気になることがある。臨床心理士の資格認定である。もともとカウンセラーに一定の専門能力を保証する資格認定は必要だと思っていたし、臨床心理士の資格認定が始まった頃はさほど抵抗はなくて、いずれ自分も取っておこうか、ぐらいに思っていたが、認定協会に文部官僚がおさまり、臨床心理士の資格をもった教官が一定数いる大学院を認定するという話になってきていて、なんだか生臭くなってきた。私のカウンセリングの師匠がもともと学校カウンセリングに治療的傾向の強い臨床心理士ばかりが入り込むことに批判的だったこともあって、ちょっとげんなりしている。専門性を高めることと、ギルド化することとは違うと思うのだ。
 前置きが長くなったが、本書はイギリスを舞台に、医療の制度化が進むことによってより強く排除されるようになった「ニセ医者」の歴史をたどる研究である。これが頗る面白い。17世紀ころの段階では大学や医療そのものがかなりいかがわしいうえに、国王が触れることによって病気が治ると信じられていたこともあり、いわば国王自身がニセ医者であったことも加わって、医療や健康に対する関心が強い教養ある一般人も「正規の」医者であるかニセ医者であるかを第一の条件とは考えていなかった。その両陣営の散らす火花が華々しい。
 今日ではさすがに医療も進歩してきたし、専門的知識のないニセ医者が調合した薬を飲んだり手術を受けたりしたいと思う人はほとんどいないだろう。しかし、医者に言われるままに与えられた薬を飲んでいた時代は終わり、医者や薬剤師の説明だけで満足しなければ自分で薬の情報を調べる患者、複数の医者に診断させてもっとも納得のいく治療を受けるという患者も増えてきたと思う。「お医者様」の時代が終わってみると、何の事はない、18世紀ころのイギリスの状況は、あんがい今われわれが置かれている状況によく似ていて、読んでいてしばしば苦笑してしまうほどである。
 なぜだろう。(1) ほんとうに腕のよい医者と、(2) かなり怪しげな医者と、(3) ほんとうに腕のよいニセ医者と、(4) かなり怪しげなニセ医者がいたとする。もし病気になったとき、われわれは(1)にかかりたいし、(4)は絶対に避けたいだろう。しかし(2)と(3)のいずれかを選ばなければならないとすれば、どちらを選ぶだろうか。医師に限らずさまざまな専門職の資格というのは、クライアントが(1)を容易に選べるようにするためのものであるべきで、タテマエとしてはいつもその点が強調される。しかし、(1)というのは実は数が決して多くはないのであって、実態としてはクライアントに(3)よりも(2)を強制的に選ばせるための道具になっていることが案外多いのではないだろうか。
 水で薄めた割高なビタミン剤(時にはアルコールを添加したあたり、本書に出てくる当時の「専売薬」と全く同じだ)をありがたがるところまで似ているわれわれの、これは多分(1)よりも(2)のほうがかなり多そうだという思い込みあるいは卓見(どちらかは知らない)によるものだろう。最初に述べた、私自身の問題について言えば、私はカウンセリングのウデをせいぜい磨いておくことにする。それで(2)よりはむしろ(3)に分類されてしまうときが来たら、それはそれで仕方があるまい。

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