バックナンバー(01年10月〜12月)




國分康孝監修・著、國分康孝ヒューマン・ネットワーク著 『國分カウンセリングに学ぶ、コンセプトと技法 教育現場からの報告』 (瀝々社)
 本書はちょっと風変わりな本である。國分康孝ヒューマン・ネットワークとは、何らかの形で國分先生に教えを受けることのできた人々の集まりで、年に一度の総会と報告のほかは緩やかにつながりながら、それぞれの現場で活躍している。本書は、國分カウンセリングのさまざまなキーワードを、國分先生の顔が見え、言葉が聞こえるように教え子たちが説明しようという企画で、その目論見は成功したと思う。ということは國分先生のパーソナリティに関心がもてない人からすれば、そうとうな内輪受けの内容に見えてしまうのが確かに本書の微妙なところだと思うのだが、國分カウンセリングに少しでも関わろうとしたならば、本書を通じてそのツボがたくさん押さえられると思う。というわけで、カウンセリング初心者向けではなく、一通りの理論・技法を見渡したときに、國分カウンセリングにある程度シンパシーを感じたところでぜひ試していただきたい一冊。

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國分康孝・監修 『現代カウンセリング事典』 (金子書房)
 これは画期的な事典である。「現代」とあるように、最新の理論や技法、カウンセリングを取り巻く状況を網羅している。そして「カウンセリング」が臨床心理学の支配下におかれることに対しては、徹底的に戦っている。最後に、「事典」というだけに一つ一つの項目はじっくりと書き込まれ、じっくりと読める内容になっている。ちょっと高い本なのだが、カウンセリングの実務家にも学生にもぜひそろえて欲しい一冊。さて私も一ページ分だけですがお手伝いしています。何を書いたのか探してみてください。

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大江健三郎 『「自分の木」の下で』 (朝日新聞社)
 たまたま同じ新聞社だが、朝日新聞に連載中の中坊氏のコラムで、氏が森永ヒ素ミルク事件の弁護団長をした時に、被害者宅を回っていたころの話が載っている。症状が重くすでに亡くなられたお子さんが、小さかったころ、いつもいじめられるのにどうしても遊びに出て行くという件があって、これには私も胸を打たれた。子供とはそういうものなのだ、という思いが私にもあったからだ。だから光氏がかつて「特殊学級」に通いだしたときの父親としての思いは、分かると言い切る自信はないが、たぶん分かる。だから、私も「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」という問いに対する大江氏の答には、深く共感する。私は父親としても教師としても余りにもハンパ者だが、「ある時間、待ってみる力」はつけさせたいと思っている。

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鷲田清一 『ことばの顔』 (中央公論新社)
 哲学者鷲田清一のエッセイは明るくて好きだ。本書も、一般紙などに書かれたものをまとめたものだから、気楽に読めるのだが、中にはさすがにハッとさせられるものがある。第一部の「名文句を読む」はいずれも考えさせられる。しかし私が一番感動したのは、「ふろく」の中の「職業を超える職業?」である。とっつきにくく厳しい数学の教師の車の中にお経の本を見つけて・・・という話だが、その真実に出会った鷲田青年は大きな衝撃を受けたのだが、そういう発見に出会わなかったらその教師は一生そういうイメージのままだったのだろうから、この職業は因果ではある。でも案外、あとから考えると「あの先生、自分の知らない何かがあったのかもしれないな」などと振り返ることもあるかもしれない。私のようにあまりにも無防備で思慮の浅い教師にとっては、厳しく迫られる話だった。
 もう一つ、気づいたのは、流行語や死語について語る言葉は、いかにその視点が面白くても、時が経つと間が抜けてくる、ということだ。蛇足ながら。

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デニス・ダンヴァーズ 『エンド・オブ・デイズ(上)・(下)』
 『天界を翔ける夢』の続編に当たるが、一言でいってたいへん面白かった。意識を巨大な仮想世界に展開するテクノロジーのおかげで不死を獲得した人々と、それでも現実世界に残り続け、狂信の集団に支配されている人々、そしてその断絶した世界を橋渡しする、改造されたクローンたち。この設定に、前作でも登場したあらゆる重要人物がたち現れ、文字通り入り混じる展開は奇想天外だが、彼らの思弁はあまりにも人間的で重い。文学と哲学と宗教のアイデアが惜しみなく投入され、ラストが近づくにつれての聖書的メッセージは圧倒的である。というとなにやらややこしい話のようだが、そんなことはない。ローラをはじめとして魅力的な登場人物が続々。アクションもお色気(なんて今時言わないか?)もちゃんと楽しめるSFである。

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雑誌 『こころの科学』第100号 特別企画「脳とこころ」 (日本評論社)
 ここで雑誌を取り上げるのは例外的なのだが、特集も連載もハズレがなくて、私にしては珍しく定期購読している『こころの科学』が、100号記念増大号。しかも特集が「脳とこころ」で面白い論文や対談が満載なので、ちょっと紹介したい。まず座談会「こころに迫る脳科学」がエキサイティング。グリア細胞に注目する中田の勢いに他のメンバーは押されっぱなしである。友永雅己の「こころの起源をさぐる」はチンパンジー実験が多く紹介されていて楽しい。仙波純一「こころの化学信号ネットワーク」は神経伝達物質についての簡明なガイドになっていて親切。長谷川寿一「人はなぜ人を殺すのか」は進化心理学を殺人の研究に即して紹介していて、たいへん面白く、参考になった。他の論文も含めて、それぞれ脳科学の最前線がよく分かる特集であった。

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デイヴィッド・ブリン 『変革への序章(上)・(下)』 (ハヤカワ文庫SF)
 〈知性化の嵐〉シリーズ全三作の第一作。これだけで上下二冊というボリュームだが、まずこの世界の作りこみがこれでもかと言うほど濃い。辺境の惑星ジージョに隠れ住んでいる、ヒトを含む主要な六種族の特徴や関係が、エピソードや歴史を絡めて少しずつ具体的になっていくのだが、他の種族や、もちろん固有名詞を持つ登場人物もぞくぞくと現れ、一つ一つ追いかけるだけで精一杯、私などには時折イメージを結ぶことすら困難になってしまう。それだけのことはあるのだが、その分どうしてもストーリーの進行は遅くなる。微妙で複雑な均衡を保っていた住人は、新たな侵入者の出現によって混乱に巻き込まれていく。下巻に入って後半あたりからいよいよ急展開・・・と思ったら、あらら、謎がほとんど解けないままに第二部に続いてしまう! これだけのディテール、忘れないうちに第二部、第三部の翻訳を出して欲しい。私のような、熱しやすく冷めやすい、しかも覚えの悪いタイプの人は、続きの翻訳が出てから読んだほうがよいかも。

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澤地久枝 『自決 こころの法廷』 (NHK出版)
 戦争の真実を追い伝え続けるノンフィクション作家澤地久枝による、陸軍大佐親泊朝省の生涯を追ったルポルタージュ。親泊大佐は沖縄に生まれ、陸軍大学校専科卒業後、各地を転戦、とりわけガダルカナルでは限界状況を生き延びる。のちに大本営報道部の一員として戦争宣伝に邁進、敗戦を迎えて妻と二人の子供とともに自決する。
 戦中や敗戦後の多くの自決に関しては、どう考えたらよいものか。そもそも自殺には何らかの強い怒りのエネルギーが必要なことが多く、詫びの気持ちを語っていても裏返しの怒りがたいていは読み取れる。親泊の場合は、遺書を見てもいくつかの怒りの対象はあるものの、あるいは引き裂かれた自分自身への怒りがもっとも強かったのかもしれない。努力して士官となり、ガダルカナルの地獄でも参謀付きの当番兵に食事を分けるなど部下への情に厚い。身近にいた人々からの信頼はゆるぎない。戦況の悪化を身をもって知りつつも「大本営発表」を支え戦意高揚の宣伝をひたすら大胆に続けていたわけだが、かといってそれは不本意ながらの仕事というよりは、自らも含めて戦争の完遂に強引に巻き込んでいこうとする悲壮な行軍のようである。子供たちのことを思うとなんともやりきれないのだが、もちろん空襲や原爆で命を落とし、あるいは身寄りを無くして孤児となっていった、あまりにも多くの悲惨の中におけば、一つの小さなエピソードに過ぎないのかもしれない。
 著者は、満州で敗戦を迎え、朝鮮にいた叔父一家を自決で喪っていて、そこでも子供二人が道連れになっている。戦争と一家の自決という出来事は、常に絡み付いているという。2001年の7月に発行された本書であるが、わが国は歴史教科書や首相の靖国参拝問題でまたもや動揺を繰り返し、かつての敵国はテロの恐怖にさいなまれている。あとがきの「よきことあれと願いつつ」の結びの一言の思いの行き場のなさがやりきれない。

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中島義道 『生きにくい・・・ 私は哲学病。』 (角川書店)
 著者の小文を集めた、面白い本だった。思いつくままに感想を並べてみる。
 たぶん哲学は病気と言うよりはパーソナリティなのだと思う。だから、哲学病というよりは哲学障害と言ったほうが良いのかもしれない。が、まあそれは置くとして、私自身は、大学で倫理学を学んでいた当時、むしろ哲学病にかかっていない自分についてかなり悩んだことは確かである。
 例えば、著者の専門である時間論なら、物理学ではどうなっているのか、心理学ではどうなっているのか、人類学では・・・と、あれこれ気になってきりがない。しかも、そっちこっちにちょっとずつ首を突っ込むのが面白くてしかたがない。だから、一向にテーマが定まらない。著者の言う意味での「哲学者」になれないばかりでなく、「哲学研究者」にもなれない自分には、倫理学科に身を置くものとして、憔悴もし、幻滅もし、絶望もしたのである。
 しかし、おかげで確かに著者のような悩み方はせずにすんだ。例えば時間論についても、時間を空間に置き換えて捉えるのはおそらく認知上有利なクセなのだろう、と早いうちに思い込んでしまったので(正しいかどうか確信はないが)、空間そのものにも実は認知上は測定可能な座標があるわけではないのだし、過去・現在・未来も連続しているとかカテゴリとか順序とかではありえず、それぞれ独立した名前に過ぎないと考えたし、いずれにせよあまりこだわりを持ち得なかった。そもそも、哲学者が断定するほど、物理学や心理学は単純な空間・時間観を持っているわけではないだろう。
 私にとっては、(大昔の受験勉強は別として、)わからないことがいっぱいあるのは楽しいことなのであって、苦しいことではない。ただ、あまりにも分からないことだらけなので、何かテーマを絞って突っ込んでいくことがどうしてもできないのが最大の悩みだっただけである。それは今でも変わらないし、そのことで時々不快な思いをすることはある。明確な専門がないと、この仕事では不利なことがあるのである。けれども私の仕事は私においてインテグレートされているのだ、と確信するようになってからは、とりたてて悩むということはないし、この生き方を改める気もない。死すべきものであることを引き受けたからといって、その日暮らしの楽しみを捨てる必然性はない。
 著者がこだわっている音に対する敏感さにもパーソナリティがあると思う。私もできれば静かなほうが良い。視覚刺激よりも聴覚刺激は遮断が難しいことも確かである。しかし私はパターナリズムよりも過剰消費にうんざりさせられる。私の場合、機械や決まりきった言葉による案内は、まともに相手にする気がないので、ある閾値以下はそれほど気にならないというのが正直なところで、その場合は見る気がしないテレビ番組や読みもしないで破り捨てるダイレクトメールとほぼ同じ無関心度にレベルダウンすることがまだ可能なのだが、音楽のほうが暴力的に入ってくるので嫌である。繰り返し流される音楽を不快に思ったのは、6年生のときに転校した先の小学校で給食時に毎日流される「石鹸で手を洗おう」の歌だった。私は「石鹸で手を洗おう」の歌(正式には題名があるのかもしれないが)が大嫌いなのに、リフレインの箇所は今でも歌えてしまう。中学や高校でも、昼休みに放送部が一方的に音楽を流すのが不愉快で仕方がなかった。店でもテレビでも当たり前のようにBGMが流される。ニュース映像でさえ大げさな音楽で演出される。流行の歌は録音技術の発達で、アコースチックな楽器を使っていてさえ攻撃的な音作りがされているようだ。これが町に出るとあちこちから聞こえてくるのが、不快そのものである。公共空間でのおせっかいな放送のほうは、おせっかいというよりは誰がその場の主人なのかを思い知らせるための放送であろう。初心者に親切なのではなく、文句を言わせないことに第一義的な目的があるに違いない。
 と、まあいろいろと思いつくが、とりあえずは哲学病もさることながら、他にも深刻な病気はたくさんあるので、哲学病者に対して余計なパターナリズムを発揮するのは止めておいたほうが良さそうだ。

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國分康孝、片野智治 『構成的グループ・エンカウンターの原理と進め方 リーダーのためのガイド』 (誠信書房)
 構成的グループエンカウンターについては、エクササイズ集はかなりたくさん出てきたし、また研究も蓄積されてきたが、実際に例えば二泊三日で実施するときのリーダーとしての取り組み方を手ほどきする本書は、実用的であるというだけでなく、エンカウンターを口にする人間が増えてきた今、敢えてその原点に立ち戻るためにも重要である。細切れでエクササイズをやってみてエンカウンターをやったつもりになることへの諌めも読み取れるし、またエンカウンターにおいて必ず生じているはずの抵抗の問題を研究してきた片野の視点があちこちで光っている。

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池田清彦 『正しく生きるとはどういうことか』 (新潮OH!文庫)
 『さよならダーウィニズム』で紹介されていた内容に倫理学的な可能性を見ていたので、期待して読んだ。著者は道徳や倫理は嫌いだと言い切っているものの、もちろん本書で述べられていることは倫理そのものであり、書き振りに関わらず一冊の倫理学書である。「自分なりの規範を決める」とはもちろんカントであるが、論拠は基本的には英米流の功利主義あるいはプラグマティズム倫理学の流れに位置付けられると思う。内容的には了解できるところが多く、例えば身体論などは私も同じ考えである。この前提にたてば、少年犯罪や精神障害者の犯罪についても(死刑を否定するので)妥当な結論になっている。ただし精神鑑定をめぐる議論はやや雑である。医師などの免許などはいらないという論点は、私が『健康売ります』の感想で述べたところに通じていると思う。ただし国家論は食い足りない。環境問題、人口問題の論点が、国際関係を論じないと力がないからである。その点、本書は終りに近づくにつれて、各論に踏み込みながらどうしても単純化された思考実験になりがちな倫理学書の限界内にとどまってしまう。倫理学書として興味深い一冊であることは確かであるが。

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西原理恵子、鴨志田穣 『どこまでも アジアパー伝』 (講談社)
 西原&鴨志田のオシドリならぬ闘鶏?コンビのアジアパー伝パート2。とにかく西原マンガと鴨志田エッセイがまったく噛み合わないばかりか、ひたすら戦いつづけるすごさ。安物の読み捨て本として出すように言っておきながらハードカバーになったという前作に続いて、結局やっぱりハードカバーの本書だが、どちらも人間を描いてコッテリ壮絶な西原マンガと鴨志田エッセイがほとんど別の物語をつづっていることを考えれば、2冊分の濃さであるし、それでいて(決り文句を言えば)糾える縄のような二人というかかの直木賞夫妻のウラとでもいうべきカラミの危うさまで楽しめるのだから、さらに割安とも言えるだろう。

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パオラ・カヴァリエリ、ピーター・シンガー 『大型類人猿の権利宣言』 (昭和堂)
 わが国が、人間と自然が一体となった伝統に長らく置かれながら、いまや環境倫理に関心が低いという現実は、おそらく禁断の果実の味わいに出会うことが遅すぎたからであろう。われわれは転向し、その生き方は過去と断絶している。しかし、シンガーらの環境倫理学の方法は西洋の倫理学の伝統の延長線上にある。シンガーらの有感覚主義の根拠はたいへん明快である。インタレスト(利益・関心)こそ倫理的価値であるから、インタレストを持つ主体が人間であるか動物であるかは価値判断の根拠にならない。だから人間の余剰なインタレストのために、動物の必須のインタレストがないがしろにされてはならない。インタレストを持ちうる存在は価値を担いうるから、とりわけ大型類人猿のように、人間と共通するインタレストを持ちうる動物の権利の保護は、当然なすべきことになってくるのである。
 そういう立場であるから、曖昧な根拠で過激な行動に出るグループのアジテーションとはまったく異質であり、またこの権利宣言に賛同する研究者達の報告集なので、大型類人猿研究のさまざまな成果を、分かりやすくまとめた本として読んでも、十分に楽しめる(ちょっと古くなってしまったかもしれないが)。
 もちろん、私にはこの大型類人猿の権利宣言という、有感覚主義の必然的な派生物に違和感がないわけではない。なるほど有感覚主義は説得的なのであるが、私は現象学を手がかりにしつつ、より大きな生命の営みの中で、種や有感覚といった概念を越えたところに愛を見出したいのである。しかし、残念ながら、それを説得的に説くことに私自身取り組んでいないし、十分成功していると思われる論者にはまだ出会っていない。これは失敗すると宗教になってしまうのである。シンガーらの仕事は、宗教にならない環境倫理の道を示していることが貴重であり新鮮なのである。

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正高信男 『子どもはことばをからだで覚える』 (中公新書)
 乳幼児の発達にはいろいろな説があって、そのそれぞれに応じて「子育て論」が語られる。その語りには流行もあればイデオロギーもあるというのが実際のところで、きちんとした発達心理学的な根拠が伴っていないものも少なくない。だからこそ、これから赤ちゃんを産んで育てようという方には、ぜひ本書を勧めたい。
 著者たちは卓抜な発想にもとづいた地道な実証研究を積み上げ、あるものは昔ながらの子育ての常識を裏付け、またあるものは学界の通説をひっくり返す成果を挙げている。テキストに偏った言語観から、音楽や身振りの運動に深く結び付いたことばの獲得という視点は、そのまま近代批判につながる深さがあるし、また個々の研究の紹介が発達心理学研究の方法論として非常に興味深い。一般向けとして以上に、発達心理学研究入門としても読まれるべき本である。

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