バックナンバー(01年1月〜3月)




佐藤学 『授業を変える 学校が変わる』 (小学館)
 今日もある教育雑誌をパラパラめくっていて昨今の学力低下がらみの反=批判の記事が目にとまり、ちょっと期待して読んだのだがやはり肩透しを食らった。ちっとも根拠らしい根拠がないのは毎度のことだが、やはりなにか手触りと言うか現実感がないのだ。データを示して根拠で迫る東大の教育社会学系の研究者の仕事もさすがだが、手触りと言う点では佐藤学をしのぐ仕事は最近見当たらないような気がする。二十年にわたってさまざまな教室に入り込み、教室で起こっていることの手触りを記述しながら、そしてときには丸ごと一つの学校改革を任されもしながら、創造力のカケラもない「ゲンバ」主義にも政治力が絶望的に欠如した制度論にも巻き込まれない、現実感のある教育理論を創りあげてきている。
 本書は一般向きに書かれてはいるが、あらゆる校種のあらゆる職種の教職員に読んでもらいたくなる本である。するどい「主体性」神話批判と、総合学習を見据えた「学び」の共同体創造が両立することを、きちんと納得させてくれる。子どもたちが求めているのは「明るく元気な学校」ではなく「落ちついて安心して学べる学校」である、という主張、あるいは「しっとりとした教室」という言葉には、私は涙が出てくるほど共感する。

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ブルース・スターリング 『ホーリー・ファイアー』 (アスペクト)
 医療技術の進歩に伴って古代ギリシアのポリスをモデルとした徳治国家が出現した未来が舞台。不老技術によって若返った老女が主人公。お金のかからない社会で創造性を求めながらも、老人社会の息苦しさから逃れられない若者たちの中に入って、自由に写真家としての生き方を求める。舞台設定の社会工学的な巧妙さがまず興味深く、その中でさまざまな立場の人々がどの様に振舞うかについてのシミュレーションをしつつ読むのが楽しい。後半、若者たちの感情が言葉の奔流となってくるとやや鬱陶しいのだが、そこを超然と乗り越えていく主人公の生き方をどう解釈するかが最後の楽しみになる。やはりスターリングは長編の読み応えがうれしい作家である。

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幸田文 『回転どあ 東京と大阪と』 (講談社文芸文庫)
 端からこんな喩えでは恐縮だが、最近トニー谷の「さいざんすマンボ」を改めて聴いていて、「しょっている」という言葉がうれしかった。もう絶対に使わなくなったけれども、気の利いた言葉はいろいろとあって、幸田文の随筆など読んでいると、楽しんでいるつもりでもちょっとニュアンスがつかめなかったり、意味そのものが怪しいところがある。でもそういう言葉に出会うたびに、辞書をひいて首をひねるのではなく、おそらくこういう意味なのだろう、と怪しげな斟酌をしながらその興趣を味わうのが、またうれしいのである。
 幸田文は私からすれば祖母の世代である。私はいずれの祖母とも同居したことがないのだが、時折ともに過ごすひと時は心地よかった。祖母たちからすれば私などは数多くの孫の一人に過ぎず、物心ついてからは取り立てて可愛がられたという覚えも残らないのだが、祖母といることの深い安心感、遠い懐かしみのようなものが、感じられたのではないか。たぶん、幸田文の文章を読んでいると、それが若いときに書かれたものであったとしても、孫の世代の私にとっては、幼すぎて自分には語られることのなかった祖母たちの世代の思いに触れるような心持がするのではないか。
 さて、どれもしみじみとしたり愉快であったりでうれしい短い文章であるから、ここで一つの引用も適当ではないように思えるが、たとえば「こども」は、文庫の見開き二頁、たったこれだけで、私にはこどもの可愛さを描ききっているように思えて、涙が出そうになるのだ。

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安達一紀 『人が歴史とかかわる力』 (教育史料出版会)
 『社会科教育』誌上でいわゆる自由主義史観なるものが提唱されたとき、イデオロギーに囚われずにリアリズムで歴史教育を見直そうという姿勢にはむしろ共感できたのだが、そこに「誇り」や「教訓」の言葉がかぶさってくるのがどうにも解せず、結局距離をおくほかはなかった。そうこうしているうちに少なからぬ人々がこのグループに連帯していき、最近では教科書をめぐって大きな議論になってくると、私もこの問題をどのように定位するかということをはっきりさせなければならなくなってくる。
 私は歴史が専門ではないから、歴史学的な論争にかかわる力がもともとない。とはいえ、事実としての史料の吟味に限界があることは常識的に理解できる。どのような史料であっても、それが存在すると言う以上の事実は保証されない。つまり来歴や内容について疑うことは必然であり、その上でより「確からしい」解釈を暫定的に採用するほかに、史料を扱うすべはないはずである。となれば、困るのはある種の物語=筋書きを仮説として持っている場合(というよりも、持っているのが普通なのだろうが)、どうしても史料の収集や「確からしさ」の判断が物語=筋書きに合致する方向に傾くのがごく自然であろうと考えられる点である。私から見ると、その点では東京裁判史観?や大東亜戦争肯定史観?に比べて、「誇り」や「教訓」を語る自由主義史観?にあっても、特段「リアリズム」と言うほど自由であるとは思えないのだ。
 さて、本書は現職の高校世界史教師が正面から取り組んだ歴史教育論である。その目配りは幅広く、深い。真摯な文献研究にもとづいて、そしておそらくは多くの授業実践に支えられて、物語に絡め取られて歴史を分かっていくのではなく、物語を生きながらも分かることを拒否し、分かろうとしつづけること自体を楽しむことに歴史教育のあり方を見出そうとしている。私の倫理教育にひきつけていけば、ソクラテスの愛知の営みに通じる点でも深く共感する。しかし、こういう観点で授業をしつつ、楽しみの境地にいたるまでは、実際にはなかなかきつい。やってみれば分かるが、事実の解釈を求める授業はむしろ地味な退屈さに陥りやすいのに比べて、威勢の良い物語を語りはじめると時間はスムースに流れ、気持ちが良いのだ。この気持ちよさの誘惑を拒絶し、自分の物語を簡単に語ってしまわないきつさに耐え抜くことが、真に自由な教育の条件なのだ。

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ブルース・スターリング 『タクラマカン』 (ハヤカワ文庫SF)
 こちらはスターリングの短編集。大の日本びいきの作者の楽しい日本版序文がついている。一つ一つの作品はそれぞれ面白いのだが、こうして続けて読むと、何となく物足りないのは、せっかくの舞台設定が意外に小さく決着してしまうからだろうか。いつもながら展開は圧倒的に面白いので、長編だったらこういう気分にはならない。クラゲとロボットのこれからは楽しみだが。

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カート・ヴォネガット 『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』 (早川書房)
 絶筆を宣言したヴォネガットだが、本書はヴォネガットの研究者が収集・編集し、ヴォネガット自身が手を加えた、新編の初期短編集であり、ヴォネガットによる読み応えのある序文・後書もある。1950年代の作品が多く、もっとも新しい物で1963年。ディテールでは時代遅れになったものもあるのかもしれないが、しかし不思議なほど読んでいて違和感がなかった。夫婦や、親子や、教師と生徒など、ありふれていながらも親密な関係の中に、暖かなまなざしとさりげない憤りの表明があって、それに対する共感は時代を超えている。
 序文を読むと、当時の出版状況もよく分かる。雑誌の短編小説を読むことが、家庭で過ごす余暇の当然の楽しみの一つであった時代。ユーモアと皮肉と、ちょっとしたモノゴトの新しい見方をさりげなく提案するような短編小説を読むことの楽しみは、今の私にとってもちょっと代わりが見つからないものである。だから逆に、今は実はそれがすでに失われてしまっているのだということに、愕然ともするのである。確かに、そういう短編小説には、文芸誌でも買う(買ってないけど)か、こうして敢えて短編「集」を買うか、ということでしか、ほとんど出会えなくなっているのだろう。そんな状況だから、こういう本は読んでいるうちに、永遠にとは言わないまでもしばらくは、読み終わりたくないという気分にさせられる。読み終わってしまっても、しばらくは机の上に置きっぱなしにしておいて、ふとしたときに読み返したりもする。短編集は、うんと部厚いほうが良いです。

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小谷野敦 『バカのための読書術』 (ちくま新書)
 『もてない男』で有名な?著者の名調子が楽しめる。ここでいうバカとは、小難しい理屈が分からない、という意味であって、無知や怠惰には手厳しい。まず勧められるのは歴史を読むことで、小説でも漫画でも良いから、楽しみながら概略をつかむこと、書評をなぜ信用してはいけないか、「国語」はなぜ面白くないか、などが痛快無比に語られている。読んではいけない本のリストも小林秀雄や、ユング・河合隼雄がバッサリ斬られていて納得。最後には小説ガイドがついているが、これも一ひねりしてあって面白い。事実をないがしろにして屁理屈をこねている難解本は相手にする必要なし、事実を知っていれば、頭が悪くても頭の良いヤツに勝てる、という発想は(ほんとうは当たり前のことなのだろうが)小気味よい。ピンチョンが分からずにくじけた自分の励みには・・・なったのだろうか?

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トマス・ピンチョン 『ヴァインランド』 (新潮社)
 まず読みはじめて思ったのは、なんとまあ古臭い話だ、ということだ。溢れ出すモノゴトの洪水は、完全に前世代のジャーゴンである。饒舌な訳注に付き合うのもわずらわしく、無視して筋を追おうと思っても混乱を畳み掛ける展開がかような長編ではさらにわずらわしい(十分の一ぐらいの長さならイケたかも(^^;)。困ったことに、共感できる登場人物もいない。次々と演出されるばかばかしさや、悪役の大阪弁に付き合うのにもすぐにウンザリしてしまう。つっかえつっかえでなんとか読み終えたものの、結局、こんなことでなぜこんなに長くゴチャゴチャと引っ張られなくてはならなかったのか?という気がしてしまうのは、要は分かってないからなのだろうが・・・。単に長い小説が読みたくて手を出した自分がバカだったのだろう。

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グレッグ・イーガン 『祈りの海』 (ハヤカワ文庫SF)
 私、実はこの本をもう少しで読み終わるというところで、立ち寄った立ち食いソバ屋に置き忘れ、翌朝尋ねたがもうないといわれた。「本は普通、残っているんですけどねえ」と気の毒がられたが、このご時世で良く見かけるようになった、古雑誌集めに構内をまわるオジサンたちの手を経て、誰かがまた読むかもしれない、と思うと諦めがつき、結局もう一冊買ってしまった。その最後のほんの数ページのオチは、買いなおしても悔いのないものだった。最初に買った一冊が、別の読み手に楽しまれていることを願う。
 さて、まずはなんと言っても、注目のオーストラリアSF作家イーガンである。これまでに『宇宙消失』や『順列都市』で、すでに私はすっかり参ってしまっている。この日本独自編集の短編集でも、『ミトコンドリア・イヴ』の量子古遺伝学、『放浪者の軌道』のアトラクタといった発想、あるいは表題作はじめ舞台となる異世界は、長編に見られるような、壮大な展開はないのだが、かえってその分、微妙なリアリティあるいはその欠如が、手が届きそうで届かないような、現実感覚のゆらぎをもたらすところが、あまりにも魅力的である。

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氏家幹人 『江戸の少年』 (平凡社ライブラリー)
 歴史や教育をめぐっての議論は相変わらず盛んであり、そのこと自体は結構なのだが、単純な戦後批判のような論調は、かつての左派知識人の決り文句以上に(というのが偏向と取られるのなら、「同程度に」とでもしておこうか?)空疎である。少年犯罪や成人式の混乱などをめぐる議論に接するとき、「では昔はどうだったのか?」という問いかけは常に忘れるべきではないだろう。
 江戸時代の少年から若者、アウトローたちの動きを社会史的に丹念に資料で追いつつ、著者自身の関心にのっとってわれわれ一般にも親しみやすい読み物として仕上げられた本書は、いくつかの貴重な知見を与えてくれる。愛される子供たち、虐待される子供たち、暴れまわる若者たちに出会うと、案外、子供たち、若者たちの総体はじつはどの時代にも一定の動きや力を持っているのだけれど、そこに向けられる目、語られることばによって、さまざまな現われ方をしているということ、つまりその現われ方に問題があるとすれば、対象としての子供の側ではなくて主体としての観察者、行為者にその根本原因があるのではないかと思われてくるのである。

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ロバート・キヨサキ 『金持ち父さん 貧乏父さん』 (筑摩書房)
 多分、資産形成に関する本というのはいっぱいあるのだろうが、私のような典型的な「貧乏父さん」はそういうものを読んだことがないので、この本のどういうところが優れているとか、ユニークだとかいうことはまったく分からない。制度的にも日米の違いがあるだろう。ただ、金持ちの哲学というのは決して不健全なものではない、ということは、よく理解できるのである。お金のために働くな、お金を自分のために働かせよ、という基本理念、クレジットカードやローンはなぜダメかというあたりから、自分が欲しいと思ったらまず人に与えよというあたりまで、むしろ倫理性と合理性が両立する地平を指し示しているかのようなスリルがある。もちろん、よりグローバルな、あるいは歴史的な視点に耐えられるかどうかは未だ見えていないのだが。そして、金融のグローバル化やらオンライントレードやらがもてはやされている中にあっても、実際のところ「金持ち父さん」たちは濃厚な直接的コミュニケーションの世界に生きていることが実感できるところも妙味である。
 それから、著者が作ったゲームも面白そうなのだが、いわゆる消費者教育などの世界ではどのように評価されるのだろうか。ずばりお金の教育が必要だという主張には、私はかなり魅力を感じる。

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大庭健・安彦一恵・永井均 編 『なぜ悪いことをしてはいけないのか』 (ナカニシヤ出版)
 叢書【倫理学のフロンティア】9のこの本の感想は、実は何度か手直しを続けたまま宙ぶらりんになっていた。でもいつまでも暖めておいても仕方がないので、とりあえず載せてしまうことにする。非常に長いが、まだ中途半端で、スッキリした物になっていないことは自分でもよく分かっているので、こっち方面に興味のない方はゴメンナサイ。

 事情を知らない人がこのタイトルに興味を持って本書を手にしたら、かなり戸惑うに違いない。日本倫理学会では知らないもののいない(しかし学会の外では知る人のほとんどいない?)大庭×永井論争が繰り広げられているからである。論争に絡む諸論文も、必ずしも論点に迫るものばかりとは言えず、このタイトルでこのシリーズにいれることが適切だったのかどうか、・・・というのは部外者のよけいなお世話である(^^;。でもこの論争は、外部から見れば倫理学者が道徳的であるべきか否か、というハナシに読めてしまうのではないか。

 部外者たる一般の人=非・倫理学者からすれば、「道徳」という名詞は、既成の規範の集成と受け取られるのが通常である。しかし、「道徳的」であるとか、「道徳性」と言ったときには、なにか規範の集成を「超えた」何らかの「機能」もまた、期待されているように思う。そこには遵法性「以上」のもの、おそらくは「規範生成的な機能」とでも呼ぶべきものが期待されているのではないか。このように、一般人には、道徳の語をめぐる二重の認識がある。通常の状況においては、これはあまり問題化することはないのだと思うが(そして、道徳「教育」をめぐる議論では、どうもこの二重性を両側でわざと曖昧にごまかして果てしない棚上げが続いているようだ)、規範が揺れ動くような状況においては、一般の人はおそらくは並以上に「道徳的」な、あるいは「道徳性」のあるヒトによって、何らかの寄る辺を示してもらいたがるのではないか。倫理学者は、そういうヒトとして期待されていて、しかも実際にそういう倫理学者も少なくないのだろうが(シンガーなどは典型だろう)、しかし、そうではない倫理学者ももちろん多い。だから、こうした論争に接すると、そうではない倫理学者がいることのみならず、そうであるかのような倫理学者の議論があまりにも難しいことに気づかざるを得ない。

 そうであるかのような倫理学者の話が難しいのは、道徳について語るとき、部外者が了解している「道徳」とは違って、「規範生成的な機能の生成物としての道徳」を仮定して話していることが多いからであろう。「規範生成的な機能の生成物としての道徳」という仮定は、たぶん、規範だから守るということではなく、自らの判断力が結果として規範に沿った行動を産み出しているという認知によっているのだと思う。少なくともカントの定言命法はそうである。

 しかし、大概の場合には、一般の人は心理経済的な行動、すなわちあまり頭を悩ませずに、物理的にも社会的にもトラブルに巻き込まれないような行動を、学習の結果として選択しているのであり、だから道徳的な行為の大部分はそれほど高貴な機能の生成物ではないであろう。一般的な程度にあまり道徳的でない人とは、この学習に失敗していて、大小さまざまなトラブルをあれこれと引き起こす人である。一般的な程度に道徳的な人とは、概ねこの学習を獲得しているので、普段それほど道徳的であると意識してはいないが概ね道徳的な行動をとっていて、ただ限界的な状況においては、しばし混乱して、「道徳的であったり、なかったりする人」である。つまりは、道徳はその程度の物なのであり、またその程度の物でなければ困る。一般の人は盗みを正当化はしないが、しかしおそらく、限界的なところでは、程度の問題だと考えるだろう。飢え死にしそうなときにどのような方法で食料調達をするかで、道徳性を測ることが適当でないのは、変数が多すぎるからである。その変数の一つは、あえて問題のありそうな言い方をすれば、「頭のよさ」である。一般的な程度に道徳的な人が、飢えからの盗みを働くときに、閾値があるとすれば、盗むか盗まないかは質的な差異というよりは量的な差異になってしまう。あくまでも盗まずに飢え死にすることを、道徳的というべきかさえ判断は分かれる。

 さらに、功利的な動機で行動して結果的に善い場合と、何か高貴な動機で善い場合とで、後者を擁護する理論の弱みは、どんな動機も、結果以外からは外から確かめようがないからで、また長期的に見て前者が「しっぽを出す」のを見て、後者の優位を主張するときにも、それは質的な違いというよりは、もしかすると単なる「頭のよさ」の量的な違いに過ぎないかもしれない。もちろん、ここでいう「頭のよさ」もまた多元的な変数であるということもできるから、あくまで質的な違いがあると言いはることはできるのであるが、二値的に「道徳的である/ない」という切り替えスイッチでもない限り、やはり閾値の仮説は成り立つのではないか。いずれにしてもこの違いが仮説的な内的過程だけでしか説明できない、すなわち測定することはできないとすれば、部外者にとっては、興味深く思うことはまれにあるにせよ、あまりためになる話ではなさそうだと、早々に見切りをつけてしまうことになるだろう。

 「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問いは、部外者にとっては、してはいけないことが悪いことだからである、というトートロジーに陥るのが自然であると思う。もしこの種の問いが力を持つとすれば、それは、各論の問いかけ、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」というような、実質を持ったときに限られる。もちろん、これでもまだ一般論に過ぎないので、答えも一般論にしかならない。たとえば、一般に人は殺されたくないからである、という程度のことであろう。「されたくないことはするな、されたいことをせよ」というのは黄金律というほどのリッパなものではなく、どちらかといえば濃厚な直接的コミュニケーションが主流だった時代以来の、一つの技法にすぎない。たとえば戦争の技術の向上は、すでにそのメッキをだいぶ剥ぎ取ってきたし、いまではあえてされたくないことこそをしてはほくそえむ匿名ネットワーカーの存在などが、さらにこの技法のありがたみを目減りさせていく。こういう時代にあっては、このような黄金律のような道徳以外の社会的装置を用意せざるを得ない。いくらハイジャックをしてはいけないという教育を充実させたとしても(ハイジャック防止教育と言うと滑稽に聞こえるが、何か極端な事件が起こるたびに××教育をせよといわれるのである)、金属探知機は必要である。

 そうなると、真剣な議論になりえるのは、より具体的な対象を持つときであろう。「なぜ××××を殺してはいけないのか」という問いであろう。そして、一般論では「人を殺してはいけない」という規範に合意しながらも、「××××を殺す」という決意ないし同意に到ることは、現実には起こりえるし、起こっている。一般的には反道徳であると思われるような事態において初めて、規範生成的な機能は働くのであり、その生成物が反道徳的であることも珍しくないという、この道徳の深淵を間近に見下ろす場所においてでないと、最初の問いは限りなく拡散していってしまうのではないか。

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