バックナンバー(00年1月〜3月)




細野真宏 『経済のニュースが面白いほどわかる本 日本経済編』 (中経出版)
 高校公民科の「現代社会」の教科書を作っていると、私は倫理や心理学の分野の担当なので、授業を担当する政治や経済の先生方にもわかりやすくしてくれ、とよく言われる。言われるわりに、政治や経済の分野は倫理や心理学の教師にわかりやすいかというと・・・さっぱりである(^^;。私も昔は授業で教えたことはあるが、タイヘンだった。だからその程度には政治経済の先生方も倫理心理を勉強して授業してくれよと言いたいけれども、これはもう力関係でどうしようもない。ブツブツ・・・と愚痴っていても始まらないので、こちらとしても勉強しないといけない。そこで「数学が面白いほどよく分かるシリーズ」で200万部突破というカリスマ予備校講師が書いたという、話題の経済入門。しかしこれ、・・・ホントに分かりやすい! とりあえずこれ一冊読めば、昔の私の経済の授業よりはためになりそうで情けない。もちろん、読み物としては、制約の多い高校の教科書よりは、はるかに分かりやすいことは確かだ。私の立場としては、せめてこれくらい分かりやすく倫理や心理学の授業をしなければいけませんね。

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V.S.ラマチャンドラン & S. ブレイクスリー 『脳のなかの幽霊』 (角川書店)
 ヒトゲノムの解析がもう後少しで終わるそうであるが、そのなかからたとえば遺伝子治療に役に立ちそうな情報を獲得するには、さらにたいへんな研究が必要なのだそうだ。こういう大掛かりで話題性の高い研究も大切だろうが、最先端の分野であるという意味では同様である脳科学の研究であっても、ラマチャンドランのように、患者の幻肢痛の苦しみをダンボール箱と鏡で治してしまうことが、どれだけ(しかも、驚くべき低予算で!)人の役に立つかということにも、よくよく思いを致したほうがよいだろう。ヒトゲノムがすべて分かったとて、目の前の患者の思いが理解できないのなら、さし当たって臨床家のやることは決まっている。それは、患者をじっくりと診ることである。患者の臭いでおどろくほど多くの病気を正しく診断してしまう医師のエピソードなどからも、その大切さが伝わってくる。どんな心理学の本にも必ず載っている錯視の図版も、実物を作って「違う」大きさに見える模型を取ろうとすると「同じ」幅だけ指が開くことから、視覚情報の通り道が二通りあることがわかる。こんなに簡単な実験で実に不思議なことが分かるのだ!
 そういう意味でたいへん刺激的な内容であるが、出身のインドへの思いもあってかヒューマニスティックな姿勢が根本にあって実にそのまなざしは暖かく、説明はわかりやすく、話題豊富で、しかもユーモアに溢れている。脳科学の最新の成果を理解するのによいというだけではなく、楽しめる本である。お勧め。

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アンドレイ・タルコフスキー 『タルコフスキー日記』 (キネマ旬報社)
 日記と言えば思い出すのがこのタルコフスキーの日記。副題は「殉教録」である。70年から86年の死まで、タルコフスキーの遺稿から編纂されたもので、ドイツで出版されたものよりも分量的にも多いものだという。弾圧され、お金がなく、満足な家に住めず、病気で、予算も資材も揃わず、戦いつづけてようやく作品が公開される。海外で評価されればされるだけ、仕事の邪魔も増える。ソラリス、鏡、ストーカー、ノスタルジア、サクリファイス・・・。あの作品群が、こうした憂鬱な戦いの中から絞り出されてきたのは、驚くべきことなのか、だからこそのことなのか。・・・いや、おそらくタルコフスキーは、どのような状況にあっても(もしかすると、先ごろ訃報に接したロジェ・バディムのような境遇にあっても・・・?)、かような作品を作りつづけたであろう。
 言論の自由の保障や、検閲反対をわれわれは訴えるのだが、本当に言いたいことを言えないときにも、戦いつづけることができる人はどれだけいるのだろうか。たとえば今の日本だって、自分が不利にならないように言いたいことを言わないなんて状況はいくらでもあるだろう。本書を読むと、タルコフスキーを気の毒がるよりも、言論の自由があるのに物言わぬ自分自身の惨めさを笑うべきだということに気づかされるのである。

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鴨下信一 『面白すぎる日記たち』 (文春新書)
 日記を書く、という行為はいかなる行為なのか。自分を振り返ってみると、まとまった日記(のようなもの)を書いた時期がある。結婚してから長男が生まれたころの数年間、手帳に書き込んでいった。そのうちぱたりと書かなくなる。書き始めたきっかけも、書き止めたきっかけも、いまひとつはっきりとしない。内容は仕事と子どものことがほとんどである。天気や気温も書いていないし、世の中のことについてもほとんど触れていない。また、このホームページの「ごあいさつ」、これも不定期ながら一種の日記(のようなもの)と言えなくもない。
 しかし、日記と一口に言っても、こうしてみるとさまざまなものがある。政治家、芸術家から無名の市井の一人まで、当時の政界の動きを淡々と綴るものあり、性愛のなまなましさを伝えるものあり。日記に書かれたことばかりではなく、書かれなかったことを探るなど、なるほどと思わせる、様々な視点があることも分かる。そして、やはり第二次世界大戦前後の政局や東京裁判の関係者、あるいは兵士や司令官の書いたものは、考えさせられるところが多い。

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須藤功 『葬式』 (青弓社)
 私は、ある親戚の葬式に参列して、感銘を受けたことがある。関東地方の農家で、近年まで土葬の慣習が残っていたところだ。村人の手伝い、墓までのぼりを立てて歩いての野辺送りなど、本当は記録を撮っておきたいほどだった。それでもすでに、楽師は衣装を整え楽器を構えるのだが、肝心の演奏はテープになっていたり、土葬の時の手順が残っているので葬式前に火葬は済ませ、野辺送りにお骨を運ぶようになっているなど、時代に合わせて変化してきていた。
 民俗写真家の著者が言うように、葬式の記録は難しい。葬式を期待して待つわけにも行かないし、いざその場面になっても記録を撮ることははばかられる。本書は村の生活の記録を続ける中でたまたま出会うことになった葬式の記録から始まる。雪下ろしの最中の事故で倒れた、著者が世話になっていた家の当主の姿や、新盆に盆踊りをするその家の娘の姿もある。そのような始まりのエピソードだけではなく、本書を貫いているのは、重厚な民俗の記録であるという以前に、人の生と死をめぐる思いである。特に子どもの死をめぐる部分は、著者の生い立ちへの思いもあって、ポツリと立つ後生車の写真など、しみじみと悲しみを誘う。しかし一番最後の写真は、生まれ子の祓い、大人たちの笑顔に取り巻かれたそれはそれはかわいらしい赤ちゃんである。人の世の命の営みにあらためて深く思いを巡らせることになる本であった。

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鈴木康明 『生と死から学ぶ』 (北大路書房)
 デス・エデュケーション、デス・スタディーズなど、「死の教育」もしくは「死の準備教育」など、このところその必要性が強調されるようになってきた。本書は、東京外国語大学で実施している授業のテキストをまとめたものである。豊富な資料が収められているが、特に新聞やパンフレットなどは生のままのコピーが載せられていたり、学生のレポートも含まれているなど、大教室に入りきれないほど学生が集まるという講義の臨場感に溢れている。「死の教育」としての充実した内容もさることながら、実際の講義に臨む著者の誠実な取り組みが伺える。

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橋口譲二 『子供たちの時間』 (小学館)
 この写真集には、素直に感動した。著者が3年間、日本のあちこちをまわって、そこで出会った「小学6年生」に、インタビューをし、ポートレートを撮る。それだけなのだが、じつにさまざまな「小学6年生」が、そこにしっかりと存在を主張している。ちょうど私の長男の世代の子どもたちである。小さな子どもたちは、可愛い。しかし、「小学6年生」は、子どもの可愛さを越えていく時期である。そういう子どもたちを、どのような目で見るのかを問うというのは、ユニークな問題提起だと思う。
 百人を越える「小学6年生」たちは、ありふれた家族、ありふれた生活の中で生きていても、施設で暮らす者、障害をもつ者、海外から来た者など、社会とのかかわりを自覚せざるを得ない境遇にあっても、それぞれ自分なりのやり方で自分を表現しながら、自分を見つけようとしている。わが息子たちを振り返ったとき、あるいは一人一人の子どもたちを見ているとき、ここで語られ、あるいは一枚のモノクロームのポートレートに写し出されたような、手ごたえのある生命感を私は受け取っているだろうか。子どもたちに向ける眼を、子供たちの声に傾ける耳を、しっかり持つこと。その大切さと楽しさを感じさせられた。

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団士郎 『不登校の解法』 (文春新書)
 システム論にもとづく家族療法をずっと続けてきた著者による、分かりやすい解説書。著者は漫画も書くようで、そういう幅広いというか余裕のある雰囲気が、本書を暖かく楽しいものにしている。理論的に、これこれこういう事例にこうアプローチしたらこうなった、と記述しているわけではなく、さまざまなケースに、うまく行ったものも行かなかったものも含めて、どのようなアプローチが行われたかを紹介している。たとえば不登校の子どもをかかえている保護者が本書を読んで、ちょっと肩の力を抜いて家族療法に興味を持ってもらえる、そんなねらいが感じられる。

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ダニエル・F・ガロイ 『模造世界』 (創元SF文庫)
 世論調査で動く社会、社会環境シミュレータというアイデアが面白い。そして現実と非現実の境が曖昧になる過程はディックを思わせるが、本書はあくまでアイデアSFとして展開する。面白かったが、オチにもう一ひねりないのか、という気がするが、・・・もしかするとひねりに気づいていないだけかも?

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J.K.ローリング 『ハリー・ポッターと賢者の石』 (静山社)
 まったく味も素っ気もない紹介になるが、ストーリーは、魔法使いの子どもが魔法使いの学校に入る話である。たぶん、そんな設定の話は、他にもいくらでもあるだろう。だのにこれは、とにかく、面白かった! 全世界で800万部のベストセラーなどといううたい文句にはつられない(というか、意地張って目をそむけてるというのがホントかも(^^;)つもりだが、著者や訳者のエピソードにちょっと心動かされ、手にとってみたらこれがもう、途中でやめられない。大人も子どもも楽しめるというのは確かだと思う。豊かな発想をよい言葉と文章でつづった物語なら、子どもも大人も読めるのである。トールキン、ルイス、ルグウィンなどのファンタジイは実はどれも途中で投げ出してしまった前歴を持つ(^^;私だが、これはもう早くシリーズの続きが読みたい。ところでこの作品も映画化予定ということだが、「ネバーエンディングストーリー」みたいだったらがっかりしてしまうかもしれない・・・。日本アニメだったら見に行きたくなると思う。

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アレッサンドロ・バリッコ 『海の上のピアニスト』 (白水社)
 一生船から降りなかったピアニスト、という設定が、私の愛読書、カルヴィーノの『木のぼり男爵』を思い出させて、同じイタリア文学だし、ついつい購入してしまったが、たいへん楽しく読んだ。芝居用に書き下ろされたためもあろうが、語り口が軽妙でまず引き込まれ、音楽へのイメージが広がり、はかない結末に胸騒ぐ。心に残る小品。映画化されたとのことだが・・・見に行きたいような行くのが怖いような・・・。芝居の語り口と映画の言葉は違うし・・・でもシネパラの監督だしなあ・・・見に行くかも。

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マーク・トウェイン 『不思議な少年』 (岩波文庫)
 中野好夫の名訳が30年ぶりに改版になり、この物語の成立の経緯について詳しい解説がついた。もともと未刊の断片をつなぎ合わせ、また内容にもやや手が加えられているということで、改変そのものは研究者から見れば論外であろうし、その改変が成功しているか否かについても諸説あるようだが、解説で紹介されているような、ある登場人物の扱いを除けば概ねうまくいっているのではないかというあたりが、私のような平均的な読み手には妥当な見解であろう。そういわれてみれば、構成上ちぐはぐなところや、唐突なところもあるのだが、ペシミスティックな繰言か、あるいはシニカルな苦笑のいずれにも堕することなく、物語性と哲学的な含蓄によって絶妙な均衡が続き、一気に読ませるところがさすが。私ごときがこんな風にとやかく言うべきではないが、いまさらながら、いや実に面白い小説である。

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國分康孝・河村茂雄 『学級の育て方・生かし方』 (金子書房)
 あるお母さんが、お子さんの学級が落ち着かない雰囲気なので−−−つまりいわゆる「学級崩壊」なので、面談の折にもう少し何とかできないものかというようなことを、遠慮がちに担任の先生に言ってみたところ、その先生はこう言ったそうだ。「私は30年間このやり方でやってきました。いまさら変えるつもりはありません」。そのお母さんは、もう何も言うまいと思ったそうだ。実際、あまりにも話が通じないので、何も求める気がしないどころか、下手に求めるとかえって子どもがひどい目に遭うので、話もしたくなくなるようなような教師に出会うことがたびたびある。
 実のところ、私自身も教師であるから、何もかも教師や学校のせいにされてはたまらん、ということは身にしみてよくわかっている。しかも私もけっして「良い」教師ではないから、他の教師のことをとやかく言うのは気が引けるのである。しかしわが子たちが学校教育を受けるようになって確信したのは、まさにこの気が引けるという感覚と不可分の教師の事なかれ主義、教室王国と不干渉の態度、かばい合いと馴れ合いの因習が、学校教育を悪くしてきたということである。
 学級崩壊の原因は複雑である、という。それはそうだ。しかし、複雑であるからという理由で、手をつけられそうなことすら手をつけようとしない怠慢な教師も少なくない、と率直に思う。ベテランになるまでの30年間やり方が変わらない教師とは、いったい30年間何をしてきたのだろうか。おそらく「やり方」というほどの「やり方」をそもそも持っていないのではないだろうか。不登校の子どもがいる場合もそうだ。「不用意に登校刺激を与えるのは良くない」ということが理解されるようになって、学校に引っ張っていくような教師は減ったようだが、反対に学校に来ない子どもを一様に放っておく教師がいる。本当にやらなければいけないことは、一人一人の不登校の状況をつかみ、臨機応変に対処できるような理論やスキルやネットワークを身に付けることではないのか。「困ったときは(教育相談)センターに行ってください」と保護者会で言い放った校長も知っているが、現場の教師に工夫が足りないと感じることも多い。
 ・・・と、私などは親としても教師としても、ときにはケンカしてしまったりするのだが、ケンカしたのでは根本的な解決にはならない(・・・反省)。この本の著者の一人の河村さんは、とにかく辛抱強くまじめに物事を解決してきた、ベテランの小学校教師だった。だった、というのは、今は教員養成の仕事に就かれているからである。私がわが子のことや仕事のことですっかり熱くなってしまっているときにも、河村さんやその仲間の先生たち、そしてわたしたちの共通の師である國分康孝先生は、どのように対処すればよいかを直接間接に教えてくださったように思う。この本には、よくわかる理論、すぐ使える技法が満載である。だから私なども本当は、困った教師にこういう本を読んでもらい、やり方を変えてもらうようにことを運ばなければいけないのである。しかしそういう教師にはそもそも本を読まない人も多いんだよなあ・・・(また言っちゃった)。

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中村とうよう 『ポピュラー音楽の世紀』 (岩波新書)
 私の音楽鑑賞のページをごらんいただければおわかりいただけると思うが、私はアメリカの音楽やいわゆるJ-POPの類はまずほとんど、少なくとも積極的には、聴かない。聴こうと思わなくても、テレビや町でどうしても聴かされてしまうという、騒音の暴力にさらされているので、すぐに嫌になるということもあるし、学生時代になけなしのバイト代をはたいてレコード漁りをしていたころの感覚、つまり「いつでもどこでも聞けるようなレコードを、なんで買わなきゃいけないのだ」という意識もある。しかしやはり、のべつ幕なしに垂れ流されるヒット曲の(すべてとは言わないが)ほとんどが、つまらないからである。
 洋楽の楽しさに目覚めた十代前半、アメリカのヒットチャートもののラジオ番組をよく聞いていたが、その一つに中村とうようさんが解説をしているものがあって、ほかにも出演者はいたのだが、中村さんの薀蓄の豊かさや独特の語り口は今でも思い出される。学生時代には(ニュー)ミュージックマガジンの「とうようずトーク」が楽しみだった。当時の私はいわゆるプログレが好きで、いっぽう中村さんはプログレにはかなり手厳しかったが、なぜ中村さんの語りや記事が印象的なのか考えてみると、どんな短いものであっても、生きている音楽と息づいている生身の人間が現れるからだと思う。そういう意味では中村さんがそこそこ評価するプログレジャンルの作品もあったし、一方プログレにこだわらず面白い音楽を探して楽しむようになれたのは、中村さんのお書きになったもののおかげである。
 この本は、そんな中村さんの真骨頂とでも言うべき著書である。これを読むと、アメリカ流の音楽産業とはいったい何なのか、イヤになるほどよく分かるのも確かだが、その支配との関係に危うさを残しつつも、音楽の新しい芽が萌える希望と喜びが感じられる。結局「周縁」の音楽がないと音楽産業も行き詰まるのである。様々な音楽ジャンルの由来が分かるのも、もちろん楽しい。ポピュラー音楽の楽しみを大いに高め、かつ考えさせられる好著だと思う。

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ヒルトン 『チップス先生さようなら』 (新潮文庫)
 正月に実家に帰ったおり、本棚に置きっぱなしの本を何冊か、再び紐解いた。こういう本はもう時代遅れなのだろうか。教育は本当に、高度情報化に適合する方向で変わらなければならないのだろうか。学校は共同体的な機能を解体していく宿命にあるのだろうか。私が教員になったころにはまだ「チップス先生」は多くの学校にいたと思う。公立学校では強制人事異動が始まったから絶滅したかもしれないが、私学などには今でもまだ、少しは残っているかもしれない。学校の機能が変わっていくとしたら、これからはどうなのだろう。教員としては、こういう変化を受け入れるのがやむを得ないのなら、受け入れざるをえないだろうが、しかしだとしたら、子どもたちは学校以外のどこで「チップス先生」に出会えるのだろう。親としては、私は自分の子どもたちには自分の「チップス先生」にぜひどこかで出会って欲しいと思っているのだ。

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