バックナンバー(99年10月〜12月)




ジョー・ホールドマン 『終わりなき平和』 (創元SF文庫)
 ヒューゴー、ネビュラ、キャンベル記念のトリプルクラウンだし、あのホールドマンだし、けっこう期待して読み始めたのだが、実のところちょっと戸惑っている。訳者後書きによると、実際に賛否両論があるそうだが・・・。ジュピター計画とソルジャーボーイという二つのアイデアは確かに面白いし、それらをめぐる出来事がそれぞれ外宇宙と内宇宙との革命につながろうとしているという展開に読めるところは大いに期待を持たせるし、神の鉄槌派や学者たちの人間像もさすがによく書き込まれているのだが、そうした全体をスケールの大きなまとまりとして仕上げるには、全体の量が不足しているようにも思える。どうもやはり最後の収まりどころが、自分にとって納得の行く世界像を結ばないのが最大の引っかかりなのかもしれない。まあハイペリオンシリーズを読み終わった後遺症なのかも知れないが・・・。

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ダン・シモンズ 『エンディミオンの覚醒』 (早川書房)
 『ハイペリオン』『ハイペリオンの没落』『エンディミオン』『エンディミオンの覚醒』の四部作が、ついに完結した。今度もすごいボリューム、二段組で700ページ以上といううれしさ。とにかく物語のあちこちにちりばめられた謎がすべて明かされるわけで、それはもう期待は高まるばかりだったが、たしかにすごい作品だった。
 謎解きという使命を負わされたからやむを得ないのだが、やや説明に偏るきらいはある。『ハイペリオン』『ハイペリオンの没落』の重層性、『エンディミオン』のオデッセイのような、構成的な特徴にも乏しい。エンディミオンの問いかけに対してアエネイアーが引っ張る繰り返しも気になる。前触れなしにすとんすとんと謎の答えが出てくる、というような話しの回り方が好きな私としては、やや納得できない感じはする。アエネイアーの受難が、そこにどのように組み合わされるかについても、多少の予測はついてしまう。
 しかし、きわめて豊富であまりにもSF的なイメージや世界観が、冷静かつ精巧な作者独特の語り口によってつむぎだされるならば、読み手はアエネイアーに振り回されるエンディミオンになりきって、右往左往させられながら愛と希望に満たされ、この終わりのない物語に巻き込まれることになる。その楽しみを味わうのに、この分量はまだまだ物足りないほどである。描かれることのない?未来に思いをはせながら、読み終わってしまうことの喜びと悲しみをじんわりと味わうことになるだろう。
 この四部作、ぜひ順番にお読みください。

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金谷治 訳注 『論語』 (岩波文庫)
下村湖人 『論語物語』 (講談社学術文庫)
 岩波文庫の『論語』が改訂新版になっていたので、ついでに下村湖人の『論語物語』も買いなおして(というのも、確か旺文社版?だったかがあるはずなのだが、実家のどこかに埋もれているからだ)、少しずつ読み返している。孔子は授業で扱うから、それなりには読んできたつもりだが、かといってもっとも関心のある分野というわけでもないので、ふと気づくと文字通りの「論語読みの論語知らず」、あるいは「習わずして伝えしか」になっている。
 岩波文庫版の現代語訳はたいそう平明であるし、『論語物語』も読みやすい名著である。『論語』を広く素直に読んで欲しいという思いが、それぞれにあふれていると感じる。こういう思いで思想や哲学を紹介しようという態度やそれができる技量をもつ研究者や教師が、もっといなければならない。
 となると、「不惑」を越えた今、知った風な言葉を並べて戯れを書き散らし、語り伝えることで日々の糧を得ている身としては、改めて読んでみていやはや胸に堪える。昔はどんな思いで「瑚l」など読んでいたのだろう。儒教道徳がどうのこうのと話をしているときには、『論語』の一文一文を噛み締めているときのほろ苦い味わいを忘れている。言葉を歴史の文脈からいったん解放し、今ここで私に語られたものとして響く声を聴く厳しさと楽しみを、常に身近に持ちつづけたい。

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グレッグ・イーガン 『順列都市』(上)(下) (早川SF文庫)
 これはちょっとすごかった。オーストラリアの数学出身の作家で、描かれる世界が果たしてどこからハッタリなのか私のようなものには理解しかねるが、とにかくここまでデータ/プログラムの世界を舞台に稀有壮大な物語を語り尽くす小説には、今のところ出会ったことがない。かつてのサイバースペースやデータスフィアといった場面設定とは、文字通り次元が違う。ちょっとぼんやりしていると数行で百兆年くらいすぐ経過しちゃうし。途中からはほとんど登場人物は〈コピー〉ばかりとなるので、自己論、存在論としても十分に楽しめる。複雑さにときおりついていけなくなるが、下巻の後半あたりから俄然面白くなるので(私にはむしろそこからもっと書き込んで欲しくなるような展開なのだが)、投げ出すと損である。そしてエピローグは爽快なカタルシスをもたらすだろう。面白かった。

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宮田登 『冠婚葬祭』 (岩波新書)
 民俗学者としてよく知られた著者による、冠婚葬祭をめぐる民俗入門編。民俗学の成果が、一般の人々にもわかりやすく、身近な冠婚葬祭という事象を解き明かすように生かされていて、ちょっとした薀蓄として面白がって読んでいるうちに、意外なところに死生観の深みがのぞいていることにも気づかされて、考えさせられる。私たちにとって、世界が本来持っているはずの意味の厚みを忘れないために、冠婚葬祭という手がかりをもっとよく知ることは大切なことのように思う。

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國分康孝監修 『エンカウンターで学級が変わる 高等学校編』 (図書文化)
 シリーズ待望の、高等学校編。すでに、小学校編や中学校編はパート3まで出ていて、高等学校でも応用できるエクササイズはいくらでもあったから、すでにそちらを参考にしている高校の先生も多いかと思う。しかし、高校の場合、最初はいかにもエンカウンターらしいエンカウンターを実施するよりは、授業の中にうまく紛れ込ませるようにして、授業にメリハリをつけるような入り方のほうが、現実的であるように思う。そういう観点からの実践例が多く紹介されているところが、本書の特徴である。学級経営、授業研究のどちらの観点からも、大いに「使える」本である。

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日高敏隆 『ぼくにとっての学校』 (講談社)
 副題は「教育という幻想」、それに中には小さく「人は人をつくれるのか」ともある。著者の日高敏隆は著名な動物行動学者で、京大退官後は滋賀県立大学学長として、ユニークな大学作りに奮闘しておられる(のだと思うが、氏のイメージからはどうしても奮闘しているというよりは楽しんでいるように見えてしまう)。本書は語り下ろしによるもので、専門の動物行動学の話も含めて読みやすく親しみやすいが、内容はなかなかすごい。

 まず、その生い立ちで出会う先生や学校の面白さ、すばらしさ。小学四年の担任の先生は、軍国主義教育の真っ最中に、自殺まで考えた日高少年が心置きなく昆虫に夢中になれるよう、親を説得し、またやさしい校長先生のいる学校に転校までさせてくれる。この先生が担任でなかったなら、動物行動学者日高は存在していなかったかもしれない。教師は毎日のように、生徒たちの伸びる芽を摘みつづけているのかもしれないということは、常に自戒していなければならないと思う。
 中学校からは、親も自由な気風で学ばせようとしたのか、成城学園に進むが、戦中から戦後の時期でもあり、勤労動員や疎開もあって、学校に行っているときも生物部に行っているような生活だったらしい。ここで後の学位論文にもつながる実験もするのだが、解剖を口実に動物を食べる話はとにかく傑作である。死んだ犬を雪の中に埋めてきたがそろそろ食べごろだろうと誘う女子部員がいれば、死んだオオサンショウウオをホルマリン漬けにしたと聞いて「食べられないじゃないか」と嘆く先生もいるといった具合である。時代が時代だった、というだけではないような気がするのだが。
 東大から大学院へ、さらに農工大に職を得るまでのいきさつも面白い。結核を患いながらのアルバイト生活で講義にほとんど出られないのだが、語学の勉強が翻訳や編集のアルバイトに生き、そのアルバイトが後の就職や研究に生きている。アルバイトもやればよいというものではなく、結果的には専門やキャリアにつながることをやっていたことになる。

 後半は、大学とは、研究とは、学会とは、という話になっていく。エピソードも面白いが、率直な直言が効いている。教授は学生をどのように指導すべきかというあたり、まったくそのとおり。私がすごした大学院はちょうど日高先生と同じような考え方で動いていたので、それがあたりまえのように思っていたのだが、いまだに他のゼミの勉強会に自由に出入りできることなど、非常に恵まれているのかもしれない。国際動物行動学会を京都で開くときに、ことごとく国際規定に違反して大成功に導くあたりも、痛快そのもの。結局退職金から一千万円ほど持ち出しになったようだが、「それに見合うだけ十分に楽しんだという気がする。本当におもしろかった」というのは、まったくの本心なのだろう。すごい人だ、本当に。
 教育や民主主義、大学論などについても盛りだくさんの内容だが、とにかくこの面白さである。振り返ってみればローレンツやドーキンス自体も面白いけれども、紹介者が日高先生だったからこそよけいに面白く感じたのかもしれない。

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B.オハンロン、S.ビードル 『可能性療法』 (誠信書房)
 これは、ちょっと風変わりな臨床家と情報科学者が、ちょっと風変わりな味付けで書き上げた、いたって堅実なブリーフ・セラピーの実践テキストである。オハンロンが若いころ、どうして自殺を思いとどまったか、それは「変化の可能性を提供する治療的会話(可能性療法の定義)」に出会ったからである。ミルトン・エリクソンの治療にもとづきながら、すぐに応用がきく51の技法が紹介されている。ド・シェイザーの solution focused とこの solution oriented のアプローチの違いは、たとえば、石の前を掃くことは可能性を掃き開くことであるという、セラピーをカーリングにたとえた話で、「その石があるべきだと思う場所ではなく、その石がいまある場所に注意を払ったほうが良い」という立場にある。オハンロンが自殺を思いとどまったときに抱くことのできた可能性も、臨床家として成功している現実とはまったく違うものであった。
 しかし何はともあれ、著者らの言うように、ここに具体的に示された多くの技法を試してみるのが良い。おそらくどのような理論や技法に拠っていても、そこに付け加えたり、あるいは少なくとも技法としてはっきり捉えなおし位置付けるヒントが、この本にはたくさん詰まっている。そして、ユーモアがある。そこがまた本書の良いところだ。

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W.ドライデン、R.レントゥル 『認知臨床心理学入門』 (東京大学出版会)
 このところ認知行動療法関係のテキストがたくさん出版されていて、大いに喜ばしいことだが、本書は副題にもあるように実践的理解を目指した画期的なものである。従来、個々の学派をまとめて比較するテキストはあったが、本書は症例ごとに各理論や技法の適用を論じていて、豊富な資料をもとにどのようなアプローチがその症例に向いているかを考えさせるものになっている。適宜挿入された訳者解説も理解を助ける。初学者向けではないが、一通りの理論を学んで実践に応用しようというときや、なかなか知る機会のない学派の理論や技法を参照するのに便利な本。

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西原理恵子 『鳥頭紀行ぜんぶ』 (朝日新聞社)
西原理恵子・勝谷誠彦 『鳥頭紀行ジャングル編』 (スターツ出版)
 なんだか煮詰まっちゃったなあ、という時に、ふと手にとって夢中になって読んでしまう愛読書?です。読むとどうなるかというと、・・・「癒される」なんてとんでもなく、「元気が出る」というのとも違う、むしろビョーキになってしまうような本なのですが・・・。煮詰まっているときというのは、おそらく同じようなことしか考えられなくなっているときだと思うのです。そこで、自分にはまったく思いもよらないことをしでかしてくれている人の本を読むと、新鮮な発想が浮かぶのかもしれません。

 まず『鳥頭紀行ぜんぶ』。文春マルコポーロ、スターツ出版オズマガジン、朝日ウノと、一つの連載が三つの雑誌を渡り歩くというだけでもすごいが、文春花田VS朝日穴吹という辣腕?宿敵編集長からスターツ長谷川という(失礼ながら)雑な雑誌の雑な編集者まで、西原はぜんぶ手玉にとって、徹底的にギャグネタにしてしまうのだ。脇役の登場人物も皆壮絶な方々ばかり。巻末収録の「ちん坊」はペーソスあふれる小品で感動的だが、しかしそのあとに「みーちゃん」「あとがきさすらいまんが」を入れてちゃんと荒らしておくところはさすが。

 『ジャングル編』のほうは、アマゾンで巨大魚を釣るという、いかにもスターツな?とんでもなくありきたりでおざなりな企画であるのみならず、釣れたのがトクナレ一匹とピラニアと普通のナマズなのだから、それ自体ではまったくしょーもない話のはずなのに、著者をはじめとする同行のキャラクターのとんでもなさ、それにもちろん西原の発想の突拍子のなさのおかげで、仕上がりは前代未聞アマゾンもびっくりの紀行になってしまっている。同行の人々のコラムも、お互いの人品を浮き立たせるようで興趣があるのだが、これもどうもスターツ長谷川がどたんばになってページが大量に余ることがわかって、同行者たちに無理やり書かせて回ったようだ。とにかく凄い人たちばかり。帰りの飛行機の中で、「鴨ちゃん」が西原にプロポーズするというきわめつけの落ちまでついて何より・・・なのだろうか。

 また最終的には「雑」な長谷川がすべてに勝利しているようで、これもすごいことではないだろうか。たぶんこういう成り行きが、ガチガチに煮詰まったアタマには、最高の刺激になるのだろう。

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