バックナンバー(99年7月〜9月)




澤登俊雄 『少年法』 (中公新書)
神戸の中学生による殺人事件をめぐる報道が盛んだったころ、事件は確かに戦慄させられるものだったが、それにしてもそのことがなぜ少年法の問題になってしまうのかが、私にはまったく納得できなかった。この事件で実名や顔写真を載せることが報道の自由や知る権利に照らして適切かどうかという議論になること自体が、センセーショナリズムをあおって売上を伸ばそうとする昨今のタカ派?ジャーナリズム(タカも自分よりは弱い生き物を獰猛に食らうわけだから、まあタカ派なのだろう)の戦略にはまってしまうわけで、まことに不快なことである。最低でも、現行少年法に不服があるのなら、正面から法律論争をすればよいことで(それよりも先にやるべきことはいくらでもあるだろうけれど)、罰則規定がないのをいいことにやりたいようにやるという不見識なジャーナリズムには言論の自由を旗印に物申す資格はまったくなくなったと言うべきだ。少年事件に限らず、被害者の人権への配慮は重要な事だが、マスコミはそれを謳っているようでいながらも、一方で被害者の心情のみを今まで以上に伝える事で、妙に感情を煽るような報道?が多くはないか。これのどこが被害者の人権を守る事になるのか。言っていることとやっている事があまりに違いすぎて、いちいち呆れるやら腹立たしいやら。

・・・というようなことはともかく、少年法について語るならばやはり少年法について知らないというわけには行かない。現在、もっとも新しく、かつ一般向けに分かりやすく書かれているのが、この本だと思う。法律の精神から実際の処遇までが体系的に分かるように書かれていて、だからこそ性急な少年法「改正」への疑問に説得力がある。きちんとデータをもとにして考える限り、今日の少年犯罪が増加したり凶悪化したりしているとは言えないし、マスコミがあおるように日本も安全な国ではなくなったというほどのこともないのは、本書に拠るまでもなく分かり切ったことである。ただその中でも、犯罪全体に占める少年比は確かに高いといえるので、それへの対処を考えていくべきであるが、しかしまた、考えようによっては現在の処遇が非常にうまく行っているので、結果的には少年比は高く出ているとも言えるのではないか。そもそも現行の少年法による処遇が必ずしも刑法による処罰に比べて軽くもないし、それだけ丁寧に扱われるからこそ、将来にわたって日本の犯罪はまだまだ低水準で推移しているのだろう。まさに著者が言うように、法律を変えれば厳罰化政策は実現するかもしれないが、実際の処遇に当たる多くの人々の活躍がこれまでも、これからも非行防止を支えているのだから、そうした人々の声を生かしたものでなければならないだろう。

とにかく、少年法に物申すというのなら、この本ぐらいは読んでからにしよう。

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津本陽 『大悲の海に 覚鑁上人伝』 (新潮文庫)
かくばんの「ばん」が表示されない場合はごめんなさい。金偏に・・・旁がうまく説明できない(^^;。真言宗のお坊さんで、12世紀始めの混乱期に、高野山の勢力争いや世俗の抗争に文字通り命がけで闘いながら、教学の整備と修行に立ち向かった人物の伝記小説。仏教、真言宗、浄土教などについて噛み砕いて説明しているところは、仏教入門としても読める。皇室や役人や武士たちを巻き込んでの仏教界の抗争のすさまじさ、安逸を決め込んで教学の興隆を抑えこんでまで既得権を守ろうとする守旧派のありさまには、今日の世相を思わせるところもある。しかし、何よりも覚鑁の向上心と、それを実現するパワーは凄い。成すべきことを成すためであれば、どんなに敵を作ろうが、手段をつくして突き進んでいく様は、とても真似できないが勇気付けられるところがある。

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アンドレ・コント=スポンヴィル 『ささやかながら、徳について』 (紀伊國屋書店)
哲学を人々に、あるいは人々と語るということは、わりと基本的なことだと思うのだが、それはたぶん私がそういうシゴトをしているからそう思い込んでいるのではなくて、そういうシゴトをしているから誰もがそうしているということによく気づいているからなのだ。間違いのない哲学、間違いしかない哲学はない(かもしれない)が、間違いの多い哲学と少ない哲学の違いはあるのであり、最高の哲学や最善の哲学は無いし、逆もまたしかりだが、かといって良質の哲学と粗末な哲学の違いは、これはやはりあるのである。わが国の政治家の語る哲学は、お粗末なものが多い。民主主義は多数決であるとか、選挙で選ばれていない閣僚はバカであるとか、そういう類の発言を支える哲学である。もちろん、哲学なのだからそれが絶対的な真理であるわけではなく、他の哲学に置きかえられるはずのものである。そこを知らぬ振りして、あるいは本当にそれしかないと思い込んで、独善に陥っている。政治家は哲学を磨かなければならないのに、そういう発言をする政治家の哲学は町の知ったかぶり俗物オヤジ程度の哲学とちっとも変わらない。

本書は、フランスで23万部売ったベストセラーなのだそうで、18の「徳」について、著者がかなり自由に想をめぐらせ、筆を走らせている。徳とはまだ言えないほどの徳である「礼儀正しさ」(これすら身についていない政治家は多いぞ)から始まって、誠実さ、勇気、正義、寛容などを経て、徳を越える徳としての「愛」に行きつく、けっしてささやかではない(翻訳で500ページあまりもあるのだから!)思索の道筋である。こういう展開は、アリストテレスを思い出させ、卒論で「ニコマコス倫理学」を取り上げた私としては、馴染み深いというかなつかしいものである。記述は概して平易ではあるが、予想していた以上に引用が大変多い。引用で論旨を展開しているきらいのある部分もあるのが、やや不満ではある。しかし多分、これは読書する人に要求される水準が違うのだろう。読み手に引用部分を深読みするだけの素養が期待されているのだろう。べつにこの本が読めなくてもよいから(・・・よくないか?)、政治家にはせめて自分の哲学(のお粗末さ)に気づく程度の哲学の素養を期待したいところである、と、ちょうど講義でプラトン「国家」を扱った直後の私は思うのでした。

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アルバート・エリス 『理性感情行動療法』 (金子書房)
原題は Reason and Emotion in Psychotherapy で、エリスのいわゆる論理療法(REBT, 直訳すれば本書のタイトルになる)のテキストとして最新の翻訳。エリスが改訂新版の序で述べているように、 A New Guide to Rational Living (『論理療法』川島書店)、 How To Stubbornly Refuse to Make Yourself Miserable About Anything - Yes, Anything! (『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』川島書店)に続く、第三の包括的な著作といえるだろう。理論的な内容が豊富なので、現時点では、論理療法についてのある程度の理解を経た上で用いるガイドブックとして、もっとも網羅的で充実したものである。ということは、初学者がいきなりこれで論理療法に取り掛かろうという本ではない(500ページほど、9500円の大部でもあるし)。ところで、エリスは哲学に敏感な人であり、最初に論理療法を発想したときの記述にもエピクテトス(ローマ時代のストア派の哲学者)が引用されているほどである(実は私はエピクテトスが好きなので、それもまたエリスに共感し論理療法を学ぼうとするきっかけになった)。本書でも終章が「結論:ポストモダニズムの観点からみたREBT」とあって、ちょっとびっくりするが、要は反科学主義との比較論である。私としてはコミュニケーション理論からコミュニティ理論への流れを取り入れた展開に期待したいところである。

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ボブ・グリーン 『シボレー・サマー』 (TBSブリタニカ)
大好きなボブ・グリーンのコラム集の新しい翻訳である。最近の彼のテーマとしては、子どもの問題がある。虐待や犯罪、そして司法判断が、子どもをいかに傷つけてきたかを綴る彼の言葉には共感する。一編一編がやや短めなのに、少し物足りなさを感じないでもない。しかし、以前グリーンのコラム集の翻訳を楽しみに読んでいたころと大きく違うのは、出来事も彼の思いも、もはや他人事ではなくなっていることだ。

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松井ゆみ子 『ダブリン 夢の鼓動』 (東京書籍)
アイルランドを愛するフォトグラファーにしてエッセイスト(と言っていいでしょう)の松井さんは、かつて日本の音楽業界でも活躍されていたようだが、アイルランドのアートとの関わりから、ごく自然にミュージシャンのプロモーションまで活動を広げて行く。でも、とにかく彼女に一貫しているのは、自分でよいと感じるものを追及していくという姿勢で、こういう本を書くことや、ミュージシャンの紹介は、あくまでその自然な帰結なのだ。書かれている内容もさることながら、彼女の生き方に元気付けられる思いがする。

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オリヴァー・サックス 『色のない島へ』 (早川書房)
副題は「脳神経科医のミクロネシア探訪記」。サックスの医学エッセイの面白さは、さまざまな脳神経障害の困難さに向き合うサックスの医師としての姿勢の真摯さと暖かさにあると思うが、本書でもその本領が発揮されている。全色盲者の多く住むピンゲラップ島を、全色盲の生理学・心理物理学者とともに訪れる話、グアム島に多く発生したリティコ-ボディグ病に取り組む神経医学者を訪ねる話。いずれも、多くの感動に満ちている。南洋諸島の話だからちらちらと旧日本軍の姿も見え隠れするが、グアムのように日本人だらけのリゾートにこのような神経医学上の大きな関心が集まっていたことなど、知る者は少ないだろう。全色盲は少数者としては大変な不便を強いられるが、それに適応しつつ暮らす者の少なくない社会の存在には考えさせられることが多いし、リティコ-ボディグ病の症状は深刻なものだが、患者を取り巻く環境は今日の医療の課題を突き付けているといえる(手術をする医師が患者の取り違えに気づかないなどということが起こる今の先端医療の怪!)。
ところでサックスは植物にもともと関心があるので、リティコ-ボディグ病の原因として疑われたソテツに関する薀蓄も深い。ソテツの話題に限らず、本書は注が豊富でかつ面白いので、私はいつものクセで参照せずに読んでしまったが、いちいち注を参照しながら読む方が、本書に限ってはおすすめです。

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広田照幸 『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)
あいも変わらぬ文部省のご都合主義の作文をご託宣のように進められる教育改革?だが、苅谷剛彦やこの広田照幸の研究などを読むと、客観的な資料やデータを(わざと?)ないがしろにしての教育改革の行方は、じつに恐ろしいところに向かっていると確信を深めざるを得ない。しかしそんな大げさな事を言わなくても、「家庭教育しっかりせよ、なんて文部大臣は言うけれど、もともとそこそこやっている親はカチンとくるし、やってない親はそんなこと聞いちゃいないでしょ」というくらいのことは、誰でも気がつく。「しつけ」に関して言えば、「昔は家庭のしつけがちゃんとしていた」などということがいかに大ウソかだって、子どもが家庭ではそんなにかまわれていなかったことをちょっと考えれば、すぐに分かるのである。本書では、実に丹念な資料収集をもとに、わが国の近代のしつけと家庭教育の歩みがたどられる。教育改革?のことを考えると、つい頭に血が上る私だが、この本はユーモアを交えながら(というか、資料そのものもとても面白いのだ)冷静に考えさせてくれるので、ありがたい。結論部分は、私はタイムラグ説を取らないので、納得していない部分もあるが、がんばっている親にはホッと一息つかせてくれるところがあるのがうれしい。

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佐藤康邦他編 『甦る和辻哲郎 人文科学の再生に向けて』 (ナカニシヤ出版)
「叢書・倫理学のフロンティア」の一冊として企画された論集。先日、ぜんぜん分野違いのある先生から、唐突に「和辻哲郎はすごい」と言われて驚いた。なにがどうすごかったのか分からなかったが、私がそもそも倫理学を志した?のも、和辻への憧れめいたものがあったことは確かである。何が私を引きつけたか。それは和辻の仕事の幅広さである。西洋倫理思想、日本倫理思想、そして独自の倫理学の確立。その目配りの広さが、私には魅力的だった。しかし、『風土』や『古寺巡礼』の市井での評判の高さが、かえって和辻の学の探求を邪魔する光になっていたかもしれない。戦後の和辻評価も芳しくなかった。しかし、高校「倫理」の教科書では、和辻を取り上げているほかにも、日本思想のところなどはかなり和辻の学説の影響が強い。こういう企画は、和辻の初学者にも必要にして的確な導きとなるであろう。しかし、副題のような、人文科学の再生に向かいえるかどうかは、倫理学者なり哲学者なりが、「人文科学者」たりえるかどうかにかかっているだろう。

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コニー・ウィリス 『リメイク』(早川SF文庫)
あのコニー・ウィリスだから、どんなヒネリが・・・と思ったら、なかなか気持ちの良い小説だった。映画がコンピュータで作られる近未来のハリウッド、過去の作品を切り貼りするばかりの仕事にうんざりする男と、ありえないミュージカルのためにもういないダンス教師を探しながらレッスンを続ける女。映画フリークにはたまらないであろう、さまざまな作品や科白がちりばめられながら、ミュージカルとはなんだったのかということについての作者の真摯な答えが示される。読後感さわやか。

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清野徹 『テレビにつける薬(ことば)』(扶桑社)
著者が『週刊文春』で12年続けている連載「ドッキリTV語録」の、平成の十年間分から選んだコラム集。テレビにおける発言を俎上にあげ、短く簡潔でありながらきっちりと要点を押さえて言うべきことを言う。平成の世相も振りかえりつつ、何よりも改めて「テレビとはなんなのか」とか、「テレビはどう変わったのか」とか、もう生活の一風景になっているテレビについてあれこれ考えさせられる。しかし、本当に「テレビにつける薬」は・・・あるのだろうか。

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