バックナンバー(99年4月〜6月)




松井ゆみ子 『アイルランドのおいしい毎日』(東京書籍)
私は子どもの誕生日などにケーキを焼くのだが、余計なものを加えず、ホイップも機械を使わず、などと素朴さにこだわって作ると、市販品のようにふわふわには仕上がらない。始めた頃は、ふわふわを目指して試行錯誤していたのだが、最近は、自分のウデで無理のない、かつおいしいケーキを作ろうとするとこうなるのだから、これが私にとって正しいケーキなのだ、と考えるようになった。味は保証します。さて、本書にふわふわではないケーキが出てくるので、つい調子に乗ってそんな話をしてしまったが、だからといって私のケーキがアイルランドのそのケーキのようにおいしいということにならないのは当然である(^^;。著者の写真家松井さんは、半分アイルランド、半分日本というような生活をしているらしい。本書をぱらぱらとめくると、なるほどおいしそうな食べ物の写真とレシピが並んでいるので、アイルランド料理についての本かと思って読み始めるのだが、それだけにとどまることなく、アイルランドでの暮らしを通して松井さんの人柄が伝わる、ほのぼのとしたエッセイである。おいしい食べ物と共に過ごす、タイトル通りおいしい毎日が描かれている。日本の食べ物や暮らしについて、なにやら心配にならないでもないのだが、それでもなお食べる喜び、生きる喜びが伝わってくるので、勇気付けられる。

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P.K.ディック 『マイノリティ・リポート』(早川SF文庫)
ディックの初期短編の編集モノ。トム・クルーズ主演でスピルバーグが映画化するという表題作ほか、『トータル・リコール』のもとネタの「追憶売ります」など、ディックらしさが比較的破綻なくわかりやすい筋立てで綴られた作品ばかり。後のディックと比較して物足りないなどとヤボは言わずに、素直に楽しく読んで正解。

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マイク・レズニック 『キリンヤガ』(早川SF文庫)
SF史上最多数の賞を受けたオムニバス長編ということになるらしい。もともと長編作家として知られ、アフリカ、特に東アフリカが大好きであった作者が、その知識をもとに書き綴った短編が、ひと連なりの物語としてまとまったものが本書。キクユ族のユートピアを作り上げようと、小惑星コロニーに移住し、キクユ族の伝統を守り通そうとするムンドゥムグが語る、キリンヤガの変遷、といったところか。そんなに複雑な構造を持った小説ではないから、理屈をつければいくらでもこの面白さを説明することはできる。基本モチーフは伝統と革新の対立であるし、知識は幸福をもたらすのかという近代の反省もあろうし、保守と頑迷、高貴さと偏屈との境界線を引くことの困難もあろうし・・・。きっとこの物語を面白いと感じるのは、こうしたさまざまな二項対立に引き裂かれつづけている場合だろう。どちらかの側にあっさりと立てる人には、それほどまでには面白く感じられないかもしれない。

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長岡利貞 『欠席の研究』(ほんの森出版)
著者は愛知県の高校教諭から教育相談の道に入り、1000例以上の登校拒否事例に関わってきた。「登校拒否」から「不登校」へ、言葉遣いは替わったけれども、まず目に見える現象としてはこれらももともとは「長欠」であり、つまり「欠席」が続くことである。「登校拒否」や「不登校」をジャーナリスティックに語るより以前に、まずだれにでもどこにでも見られ経験される、「欠席」からはじめよ、という呼びかけが、この書名に込められている。欠席についての古今東西の実証的研究に目配りしながら、欠席への現実的対応をさまざまな側面から、事例を交えて説く。研究書としての重みと、「欠席」に関わったときに実際に役に立つ実践性が、ともに充実している。教師必読の一冊。

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苅谷剛彦 『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)
副題に「学歴主義と平等神話の戦後史」とあるように、歴史的経緯や国際比較を踏まえつつ、今日の日本の教育の「常識」に客観的データを突きつけ、再検討を迫る。今日、階層問題は教育問題としてはほとんど語られない(が、もちろん、いくつかの学校に勤務経験のある現場の教師は、それに気づいている)。しかし、まずこの階層問題をあたかもそこにはないもののように振舞ういわば「裸の王様」状態の教育論が、しばしば見当外れの結果を生む。例えば最近の東大・京大の合格者に、私立の中高一貫校出身者が多くなってきていて、「新たな特権階層」を形成する恐れがあるという中教審の問題提起があったが、実は東大・京大合格者の出身家庭がすでに長らく上層ノンマニュアルに占められていることに変化はないことから、その誤りを明らかにしている(ということはつまり、文部省の直接の影響下にある公立学校が、上層ノンマニュアルの要求や嗜好にはどんどん応じられなくなってきているということを、中教審は指摘したことになる)。今日の教育をきちんと、つまりイデオロギーに取りつかれる事なく考えるには、必読の書である。

さて、以下は私見である。確かに教師の授業が上手ければ、みんなそれぞれそれなりに「勉強できるようになる」だろうが、残念ながら苅谷先生が最近言うように「学力のデフレスパイラル」が生じているから、上手な授業のできる教師はどんどん減っている。分数の計算の指導ができる小学校の教師は今や3割しかいないのである。したがって授業に満足できなければ、できない子は補習塾へ、できる子は進学塾へ行くだろう。へたくそな授業でも構わない子、ということはつまり、子どもの学力に関心のない家庭の子は、このデフレスパイラルにどんどん巻き込まれていくことになる。こういう状況の中で、学校は「平等な教育」を続けているのである。「偏差値の追放(?)」や「新(?)学力観」などなど、まだまだ見当外れが続いているのではないのか。あるいは私は最近、文部省は全部分かってやっているのではないか、ことによったら文部省と手打ちした日教組あるいは労働界も含めて、公教育は低質で安上がりに押さえておいて、あまり難しい事をいう人間を作り出さないようにしておきたいのではないか、とさえ思えるようになってきたのだが・・・。

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國分康孝編 『論理療法の理論と実際』(誠信書房)
私は論理療法は基礎理論が平明で分かりやすいこと、技法が豊富で使いやすいこと、効果が直接的で問題解決志向であること、教育的で応用範囲が広いことから、現代のカウンセリングとして最良のものと考えている。このアルバート・エリスの論理療法を日本に紹介した編者が中心となって、理論とその実際的応用を広範に紹介したのが本書である。書き手は日本のそれぞれの現場で、論理療法を実際に用いている人々なので、特に教育とカウンセリングという視点から、論理療法の理論と技法をどのようにアレンジできるのかが分かる。基礎理論をさらった次に読むべき好適書。

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ウィンディ・ドライデン著 『論理療法入門 その理論と実際』(川島書店)
エリス門下のドライデンによる、論理療法の参考書。エリスの理論をドライデンはさらに分析的に深め、分かりやすく説明している。ただし個々の事項をより詳細に分類整理するタイプの書き方なので、入門という割には初学者にはやや煩瑣な印象を与えるかもしれない。より平易な入門書を読んだ後で、あるいは並行して読むと、理解を深め実践に役立つと思う。翻訳は國分康孝・久子・留志先生によるもので、たいへん読みやすい。

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和田秀樹 『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社)
著者は精神科医。灘から東大という典型的な?コースをたどった人だが、受験勉強そのものは要領よくやる事が大切という立場での大学受験関係の著書も多い。しかし本書は、精神科医の立場から、果たして世に言うような「受験は悪」という認識は合理的であるかどうかを、客観的に検証しようとした意欲的なもの。結論から言えばいわゆる「受験勉強」が精神的に悪影響を及ぼすという説は根拠がないということである。例えばノーベル賞を取るような研究が少ないのは受験勉強が悪いと言うが、少ないながらも受賞者は東大・京大出身者であり、受験勉強が悪影響を及ぼしたとは言えない(むしろ、卒業後は外国で研究した事に注目し、問題は大学の研究のあり方にあると言う)。青年時代は大いに波乱万丈の経験をした方が良いという俗説に対して、青年期に精神的混乱を体験するものはむしろ少数派で、しかもそのような荒れを経験した人のほうがかえって将来的にも問題を残す事が多いという調査結果を紹介する。そして、現代の青年に「問題」があるとすれば、それは「偏差値教育」などという実体のないもののせいなどではなく、著者の言うところの「シゾフレ人間」化が進んでいるせいであると言う。予備校のことなど一部を除けば、私には全体的に説得力のある内容だと思われる。どのような立場であれ教育問題に関心のある人は、読んでおくべき一冊。

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エンツェンスベルガー 『数の悪魔』(晶文社)
 ゼロで割ることは何故できないのか、小学6年生のときに友達と議論(というほどのものでもないが)したのを、僕は今でも覚えている。僕はたしか机と椅子か何か具体的なもので考えようとしたら、友達のX君が、そういう具体的なもので考えたらダメなんだ、ということを言って、えらく感心した事を思い出す。僕はその後転校したので、X君がどうしたかは知らないが、もしかすると数学者になっているのかもしれない。僕はやっぱり文系に進んだわけだ。

 朝のニュースを見ていたら、新しい学習指導要領について、審議会委員の一人である長髪の数学者が説明していた。「円錐の体積がなぜ円柱の体積の三分の一になるかは、積分をやらないと分からないから、この体積の公式は削る」。普段はなかなか面白い事を言う人だと思っていたのだが、ちょっとそりゃ違うんじゃないか、はじめに内容削減ありきの文部官僚のスポークスマンにされちゃってるんじゃないか、と、半分気の毒な半分情けない思いで見ていた。透明プラスチックの円錐の容器の水を三杯入れると、同じ底面積の円柱の容器がいっぱいになる、というのが今までの授業だ。不思議だねえ。なぜなんだろう。・・・それでいいではないか。少なくとも、面白いねえ、と思う子は少なくないと思うし、うまくすれば好奇心をかきたてられる子どももいるかもしれない。こういうことを削っていって、練習の時間を増やしたからといって、それで算数が分かりやすくなるのだろうか。子どもにとってますますつまらなくなって、やる気をなくしてしまうのではないだろうか。また数学を志すような人を生み出すきっかけが、失われてしまうのではないだろうか。

 算数嫌いのロバートの夢に現われる「数の悪魔」は、ロバートにいろいろと不思議なことを教えてくれる。悪魔に怒られながら数字や図形をいじっていると、びっくりするようなことが起こる。素数の性質や、フィボナッチ数、パスカルの三角形などなど。へえ!なぜなんだろう!しかも、なぜそうなのかという説明は(いかにも説明でございという形では)出てこないのである。きっと、だから、この本は算数嫌いの人が読んでも面白いのだ。算数好きの人は、全体を通じて、隠された連関を解いていくかもしれない。そしてその中で、さらにどうしても気になる人は、本格的に数学を勉強するだろう。ベルナーの挿絵もすてきだ。

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ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 『星ぼしの荒野から』(早川SF文庫)
ティプトリーの短編集で、ラクーナ・シェルドン名義で発表されたものを含む。女性SF作家の活躍がさかんなころ、唯一注目に値する「男性」作家、といわれながら、その正体は実は女性だったというエピソードはあまりにも有名だ。そのアリス・シェルドンは元CIA職員の実験心理学者、心臓病に苦しみ、87年に自殺。その描写の圧倒的な緊張感、残酷なまでにクールな観察眼は、70年代SFの中でもひときわ目立っていた。しかし、今この短編集を読むと、さらに、通底するテーマが見えてくる。「永遠の喪失」である。ティプトリーはそれをずっと書きつづけてきたのではないか。

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生命倫理教育研究協議会 『テーマ30生命倫理』(教育出版)
主として高校や大学の副教材として使われることを前提として作られたようで、体裁も軽装で価格も税込み900円と手軽な本だが、一般の関心にも十分応え得るものである。単に時事問題としてではなく、あらゆるジャンルから生命倫理を考えるための素材集となっている。医療、歴史、民俗、思想、政治、経済、生物などさまざまな分野の資料が添えられ、要を得た解説が併記されている。生命倫理について考えるテキストとして、まず手に取るべき一冊だと思う。

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生島浩 『悩みを抱えられない少年たち』(日本評論社)
著者は臨床心理士で家族療法家、保護観察官として長年非行臨床に直接関わり、その実践と理論を構成してきた人物。現在は法務総合研究所研究部室長研究官。とにかく最前線で非行臨床に取り組んできたので、その著書にはいずれも納得させられ、勉強させられてきた。本書は、いくつかの論文の集成だが、制度の解説、実態の報告分析から、臨床技法まで、幅広く扱われていて、結果として少年非行はもちろんだが現代の少年がおかれている状況、抱えている問題を、くっきりと浮かび上がらせている。臨床技法以外の部分は一般の人が読んでも分かりやすくためになると思う。親・教師にお勧め。

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