バックナンバー(98年4月〜5月)



佐藤康邦、溝口宏平編『モラル・アポリア』(ナカニシヤ出版)
最近は応用倫理学分野などでなかなか意欲的で面白い本が出てきているが、この本はかなり刺激的で思い切った企画。必ずしも一般向けとは言い切れないが(したがって分類は「お勉強」にしたが)、哲学一般や社会思想に興味のある人なら十分楽しめる本だと思う。

思い切った企画、と言ったのは、21の「モラル・アポリア」と呼ぶべきテーゼとアンチテーゼを提示し、それについて気鋭の倫理学者たちが比較的手短かに検討する、という作りになっているからである。これがアポリアか?というあたりをしつこく追及する者あり、地道に自説を展開する者あり、といった具合で、それぞれのキャラクターも出ていて面白い。しかも、量的に限られた中で論じているので、各論者の論点がまわりくどくなく要約されているところも良い。

テーマの豊富さ、読みやすさ、内容の簡潔さがあいまって、現代倫理学入門としても「使える」本になっていると思う。なおこれは「叢書=倫理学のフロンティア」というシリーズの第一弾で、後続の近刊本も魅力的なテーマが並んでいる。大いに期待。

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きたむらさとし『のどがカラカラ』(評論社)
僕が住んでいるあたりは、あまり良い本屋さんはないのですが、その代わりマンションの斜向かいが図書館というありがたい場所なので、子どもたちと一緒に、あるいは一人でふらりと、図書館に入ることはしょっちゅうです。で、本屋さんにせよ図書館にせよ、何かこの本に呼ばれたような気がして思わず手にとってしまう、ということってありませんか? この絵本も、そんな一冊です。

もう息子たちにも物足りない、見開きにひとことずつくらいしか言葉のない、しかもそんなに芸術的な絵でもないし、波乱万丈のストーリーでもない、小さな絵本です。「どこがおもしろいの?」といわれても、これといっておもしろいできごとが描いてあるわけでもないのです。でもうちのリビングにおいておいたら、家族みんながなんとなくぱらぱらと見て、「フフッ」とか笑って、なんとなく気分が良くなったみたいです。

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マリリン・バーンズ『考える練習をしよう』(草思社)
昨日、道徳教育関係のある学会の案内が届いた。今年の大会テーマはなかなかユニークだが、ちょっと自分の関心とは結びつかないし、日程がきついのでどうしようか考え中。そういえばしばらく前に、別の道徳教育の研究会の事務局の方が訪ねてこられて、道徳教育をどのように変えていくのか、しばらく話し込んだ。今朝はたまたま買った週刊誌で、文部大臣と某作家の、中身のない対談を読んでうんざりした。・・・などなど。このところのいろいろな「事件」の影響で、「道徳」論議が盛んだけれども、どうも政界も含め世間一般では相変わらずの「徳目」主義が横行するから、道徳教育も根付かないし、眉唾で見られてしまう。その隙をついて、例によってナントカ審議会答申を隠れ蓑にして文部省がリード(ミスリード?)した「新」教育課程がでっちあげられて、いつのまにか始まってしまう。道徳に限らず、学校教育がどんなにうまく行かなくても、文部省が責任を取ったためしはない。サッカーくじはうまく行くのかどうか知らないが。

いわゆる「戦後教育」が、いわゆる「道徳教育」を、大勢としては避けてきたことは、まあ否定しがたい。もちろんそのあたりは、日教組も今の考えを総括すべきであろうが、実際にはもはややろうと思ってもできない、という実態もあるだろう。小学校ならテレビを見せたり副読本を使ってなんとか間は持てるかもしれないが、中学校では、少なくとも今のカリキュラムと学校の体制では、一般的には成立させること自体無理である。熱心な先生や学校の実践例には、たいへんよく工夫されたものも多いが、一般的に言えば担任の先生が授業として成り立たせるのには、相当覚悟してかからないと、うまく行かないと思う(覚悟してかかればなんとかなるとは思うが)。

小学校高学年から中学校くらいの発達段階で「道徳」を授業として成り立たせるには、情緒を刺激するような事例中心で運ぶのではなく、まず「考え方」を学ばせることが重要だと思う。「徳目」以前の、道徳的態度や判断力を養うのには、「いかに考えるか」を客観的に工夫することを身に付けさせなければならない。つまりこれはスキルの問題なのである(それにしても、学習指導要領やその解説を読むと分かるが、例えば「学び方を学ぶことが大切」とあるがどうやれば「学び方を学ばせる」ことになるのかについては、無責任なほど何も分からない、という類のことが多すぎる)。

で(ものすごく長い前置きだった)、思い出したのがこの本である。「子どものためのライフスタイル」というシリーズで、大判のイラストブック。対象年齢は「10歳以上みんな」とある。内容的に小学校高学年あたりが向いている気がする。大人には、扱われている例は物足りないが、内容は反省しながら読めると思う。僕は今年の新入生オリエンテーションの講話で、この中のネタをちょっと使った。こういう発想でカリキュラムを作ることが必要だと私は思う。でも多分「徳目」の選別であーでもないこーでもないという話になって、実際にはやっぱりいつまでたっても道徳の授業は成立しない、なんてことになりそうだな。あーあ。

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司馬理英子『のび太・ジャイアン症候群』(主婦の友社)
注意欠陥・多動性障害(ADHD)についての、一般向けの啓蒙書。著者は都内でクリニックを開業しているが、自分や家族のADHDを克服してきた経験から書かれているので、説得力がある。

ADHDは、これまで日本ではあまり認知されず、「落ち着きのない、しまりのない子ども」(著者の言うところの「のび太」)とか、「乱暴で、我慢のきかない子ども」(同じく「ジャイアン」)として、学校制度の中で落ちこぼされ、あるいはいじめられっ子・いじめっ子となって苦しんできた。一定の診断基準によってADHDであることがハッキリすれば、今日では効果の高い薬と環境改善等によって、治療が可能である。

自身の経験をつづった第三章が、子どものADHDに苦しんでいる母親には共感されるであろう。親の育て方が悪いのではない、ということが、どれほど多くの親の苦しみを和らげるか、想像に難くない。しかし、まだまだ薬物療法についての理解が十分でない上に、専門の小児精神科医が非常に少ないし、またADHDどころかちょっとした子どもの個性にも学校教育が対応し切れていないという日本の現状を考えると、まだまだADHDが十分に理解され、子どもたちにふさわしい生育環境がととのうには、(気の遠くなるような?)時間がかかるであろう。

「のび太・ジャイアン症候群」という、分かりやすい言葉を使ったことは、一般の理解を深める上で意義があると思うが、ADHDの症状は環境とのかかわりで多様な現れ方をするので、なんとなく二つのタイプで捉えてしまうようなことのないように、あるいは(AC=アダルト・チルドレンと同じように)診断基準が自分流に解釈されてだれもかれもがADHDということにならないように、気をつけるべきである。しかしとにかく、こういう本が必要であったことは確かだと思う。

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ダン・シモンズ『重力から逃れて』(早川書房)
ダン・シモンズの新作で普通小説と言われたら、これはもう読むほかはない。何と言っても『ハイペリオン』および『ハイペリオンの没落』(ともに早川書房)のSF巨編は、90年代SFの金字塔と言って間違いないと思う。壮大な宇宙叙事詩に登場人物一人一人の人生が重厚に書きこまれた、凄絶な読み応えの連作だった。

本作は、私なりの分類では「帰ってきた宇宙飛行士」モノである。このジャンル(と言っていいかどうか分からないが)は、純粋SFからドキュメンタリーまで、さまざまなタイトルがあって、バラードやレムはもちろんだが、例えばウルトラマンのジャミラだってそうだ。では本作は、というと、アポロ計画の飛行士がモデルであり、背景はほとんど現実で、主要な登場人物のみが創作されている。たぶん航空機マニアには、宇宙船や飛行機やヘリコプターについての細かい描写が気に入るのではないか(私はほとんど読み飛ばし(^^;)。とにかく現実との境目がわからないほどに緻密な描写、そして主人公と、その周囲の人々の思いの深さ、暗示される将来などは、ハイペリオン二部作を思わせる。そして(あまり詳しく書けないが)壮年期以降の発達心理学的なテーマにもうならされる。

SFとの境界領域にある作品と言っても間違いではないのだろうが、私にはこれは教養小説として読めた。

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ペレツ・ラヴィー『20章でさぐる睡眠の不思議』(朝日新聞社)
朝日選書だから一応は一般向けの本なので「ためになる」に分類したが、内容的には案外高度で、「お勉強」のレベル。著者は睡眠研究の第一人者で、イスラエルのテクニオン大学医学部長・睡眠研究所長。レム睡眠や抑圧などに関して、実証的に旧来の定説に疑問を投げかける仮説を提示していることや、イスラエルという国柄からホロコーストや湾岸戦争などの限界状況と睡眠との関係に説得力のある理論を展開しているところなど、きわめてエキサイティングな本である。しかし豊富なエピソードのみならず、ユーモアや失敗談まで披露している書きぶりは、読者を飽きさせない魅力がある。

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藤田雅矢『糞袋』(新潮社)
日本ファンタジーノベル大賞で優秀賞を受賞したという、これはなかなかの奇書。舞台は江戸後期の京都で、肥えとりの少年が糞尿趣味の菓子屋の隠居に才能を見出され、やがて「究極の糞尿」との悲しい出会いに至る一代記・・・なんだろうか?

江戸時代の日本の都市が「肥えとり」のシステムのおかげでいかに同時代の西洋の都市と比べて衛生的であったか、それに比べていとも簡単に「水に洗して」しまう今のシステムにいかに無理があるか、ということはずっと気になっている。しかし本書のような嗜好の問題になってくると、私は全く疎いのだが、いわば「糞尿道」とでもいうべき、糞尿の価値の研ぎ澄まし方というところに、価値論の展開のひとつを見る思いである。私は、ファンタジーというよりはユーモラスなホラ話として楽しんだが、でもまあ糞尿や寄生虫に弱い人は、読まない方が無難であることは間違いない。

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佐々木毅『プラトンの呪縛』(講談社)
プラトンの『国家』を読んだ者なら誰でも、その第八巻における「民主制」の描写が、2000年以上も昔に、しかも海のかなたのギリシアで書かれた物とはにわかに信じがたい思いにとらわれるのではないか。本書を読んで改めてかの一節に出会い、ますますその「民主制」批判の慧眼に感嘆の念を深めた。プラトンを読む気がしない人でも、せめて本書「はじめに」の引用部分だけにでも目を通されてはいかがだろうか。

さて著者は既に良く知られた政治学者である。実は私は「政治学」という学問をまったく知らず、政治学者と政治評論家との区別がついていなかった。しかし、たとえば本書を読めば、鋭く、かつ奥行きのある政治学者とはどういう仕事をする人なのかが分かる。本書は、プラトンの『国家』が「どのように読まれてきたか」をたどることによって、時代の政治と哲学を読み解こうという、大変にユニークな発想と、深い資料発掘と解読に支えられた労作である。なるほど政治学とは、イデオロギーや同時代の政治運動や、せいぜい日本近代の政治史をさらったくらいでは出てこないものなのであり、歴史の見方にも新しい光を当てるものなのだということが分かる。

それなりの歯ごたえはあるが、それだけの値打ちのある本である。

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浅野健一『メディア・リンチ』(潮出版社)
著者は20年以上の通信社勤務経験を持つ、新聞学の教授。一言で言えば、「判決が出るどころか裁判が始まってすらいないのに、被疑者の一市民がマスメディアによって犯人に仕立て上げられる構造」、いわゆる「リンチ報道」を糾弾する。松本サリン事件の例をはじめとして、メディア側が用意するさまざまな「論理」の矛盾を暴き、結局は抜いた抜かれたで売れる売れないを競うために報道の使命などすっ飛んでしまっているくせに、それを理屈になっていない理屈で糊塗して反撃に出るあくどい実態を明らかにしている。所詮は私企業であるマスコミが利潤のために表現の自由を手玉に取っている。問題は、どうするかである。とにかく著者が言うようにまずはメディアの実態についての責任の第一は当のメディア自身にある、ということを、批判する側もされる側もきちんと踏まえなければならない。そしてこれが一番難しい。うーん・・・。

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ニコラ・グリフィス『スロー・リバー』(早川SF文庫)
作者はアメリカに暮らしているが、これは彼女の生地であるイギリスSFの伝統を引く傑作であると言いたくなる。私はイギリスSFを読むときにはある種の重厚さを期待する。クラークや、下で取り上げた『タイム・シップ』は、もうひとつの側面である端正さが目立っていて、それはそれで良いのだが(『タイム・シップ』の帯には「クラーク絶賛!」の惹句があったが、分かる気がする)、ちょっと物足りない。ワトスンやプリーストなどの雰囲気とはちょっと違う。その点、この作品はこうしたイギリスSFの雰囲気を持っているように感じてしまう。簡単に言ってしまえば、誘拐された大富豪の娘の、自立と自己解放の物語ということになる。舞台は近未来。舞台装置として特に目を引くのは環境テクノロジー。そして、ネタばれにつながるのであまり詳しくは書けないが、最初のうち目を引くセックスと暴力の描写には大きな意味がある。

この作品はネビュラ賞とラムダ賞を取っている。ネビュラ賞はSFファンならだれでも知っているが、ラムダ賞?解説によると、これはゲイ&レズビアン文学の年間最優秀作品に与えられる賞であり、彼女は前作でも受賞しているという。だが同性愛そのものが大きなテーマであるとは感じられない。作者にとってはもうそれは当然のことであり、そこから先のもっと大きな問題を捉えているように思う(おそらくそういう作品であるからこそ受賞したのであろう)。本作では確かにセックスや暴力の描写もあるので、そっちが嫌いな人や苦手な人には勧められないし、煩雑な割に様式的なフラッシュバックはあまり私には好みではないのだが、終盤の展開は救いと迫力に満ちていて一気に読ませる。

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フランス・ドゥ・ヴァール『利己的なサル、他人を思いやるサル』(草思社)
適者生存や自然淘汰を引き合いに出して、勝手気ままな自由競争を「自然なこと」だからと正当化する乱暴な議論は、スペンサーの時代ならともかく、今時もう勘弁してほしいなと思うことが多い。「利己的な遺伝子」も一人歩きをはじめておかしなことになっている。こういう話がそもそもおかしいのは、たとえば利他的な行為がたとえ利己的な動機によって引き起こされていると仮定してさえ、それもまた「自然なこと」であると言われる権利を利己的な行為と等しく持っているのは明らかなのに、なぜ行動や制度の根拠としては最近旗色が悪いのか、ということを考えれば分かる。もちろん、行動や制度の根拠には、他の隠された動機が潜んでいるのである。「利己的な遺伝子」は都合のよい隠れ蓑に使われているに過ぎない。

テレビのドキュメンタリーでボノボの群れの行動を追ったものを見たことがあり、もう少し詳しく知りたいと思っていたところに出会ったのがこの本である。著者はオランダの霊長類行動学者。きわめて豊富な事例をもとにして、「道徳性」の根拠に迫る。「道徳性」は(もちろん定義にもよるが)決して人間に独自のものではないことに驚かされるとともに、それゆえにそれはつまらぬことと否定することがそもそも困難であることに気づかされることになる。僕は本書を読んで、少なくとも僕が今日こうして生きていられるような社会においては、いわゆる「道徳性」や、利他的な原理にたつ行動や制度を「採らない理由はない」のであって、にもかかわらず利己的な原理にたつ行動や制度をしゃにむに推し進めようとするからおかしなことになるのだと思わざるを得ない。

そういえば同じ著者の『政治をするサル』(平凡社ライブラリー)もあった。こちらは「政治の起源は人間性の起源より古い」というテーマである。いずれの本からも、人間そんなにえらそうにもったいぶるなよ、というだけではなく、だからこそ政治的にも道徳的にも根本に帰って考えなくちゃ、という気にさせられるメッセージを感じる。

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千石保『モラルの復権』(サイマル出版会)
サイマル出版会が潰れてしまったらしい。私にとっては、グラッサーの『現実療法』や『クオリティ・スクール』など、きわめて重要な本があったので、ちょっと愕然とした。千石保の本も多くがここから出ていた。この『モラルの復権』は、注文したときには遅かったという代物で、あわてて市立図書館から借りてきた。

著者は日本青少年研究所の所長。『「まじめ」の崩壊』など客観的データを元にした(妙な言い方だが)品位のある分析はいつも説得力がある。本書の副題は「情報消費社会の若者たち」。やはり研究所の97年の「ポケベル等通信媒体調査----日本・米国・中国高校生比較報告書」や、(自分たちがやったことなので手前味噌だが)全国高等学校公民科「倫理」「現代社会」研究会の94年の「全倫研全国高校生意識調査」などのデータに基づいて、タイトルのように「モラルの復権」が描き出されている。それはもちろん、古いモラルに息を吹き込もうというような保守のあがきなどではなく(そういうのが最近は異常に多くてうんざり。そういうことを言う人は今こそちゃんと教師や保母(父)や親になって実績を見せてね)、情報消費社会の中で新しいモラルが形成されている様子を描き出している。つまりモラルという概念自体の意味が復権しているのであり、モラルの内容は適応的かつ創造的なのである。モラルの内容的なアナクロニズムではない。

とにかく読めば少しは元気になる本である。どこかで再発されないか。

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清水英夫『情報の倫理学』(筑摩書房)

清水英夫『マスコミの倫理学』(三省堂)

いずれも多少古い本で、『情報の倫理学』は85年、『マスコミの倫理学』は90年。したがって時事的な話題や判例は古い部分もある。もっと新しい論文もあるだろうから、これらをもって著者の現在の所論を論じることはできないが、とりあえず読んで興味深かった2冊なので紹介しておきたい。

倫理学と題されているが、清水英夫はジャーナリスト出身の法学者である。基本的には表現の自由を主張する立場で、歴史的・国際的視点から、豊富な事例を交えて論じている。表現の自由に関わる裁判、ジャーナリストとしての真摯な取材の必要性、法律の拡大解釈の危険など、ジャーナリストかつ法学者という複眼的視点で語っているから、示唆されるところが多い。

しかし、現実のメディアのあり方には大いに批判を提示している。私自身、どちらかといえば最近のメディアにはかなり不信を抱いているのだが、表現の自由という理念とどこで折り合いをつければよいのか、私なりにずっと課題として持ち続けているが、たとえば次の文章は大きなヒントになりそうである。

「(略)日本の週刊誌は、ハムレット型であるよりはドン・キホーテ型であり続けてほしいと思う。ハムレット型とは「思索・懐疑の傾向が強く、決断、実行の力に乏しい」タイプであり、ドン・キホーテ型とは「現実を無視し、自分の空想や独りよがりの正義感に駆られて、向こう見ずの行動に出る」タイプである。 「どちらがジャーナリズムの名にふさわしいかといえば、もちろんドン・キホーテ型であると私は思う。そして、ドン・キホーテは、人間の弱さに対する思いやりを忘れたことはなかった。それを無視していたずらな突進を繰り返すとき、メディアは本当の意味で凶器と化すであろう。」(『マスコミの倫理』p.76-77)

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