バックナンバー(97年8月〜10月)



アーサー・C・クラーク『3001年終局への旅』(早川書房)

個人的な打ち明け話から始める。私は某社の高校倫理の教科書で、前書きを書いた。ちょうど2001年前後に使われる教科書なので、クラークの『2001年宇宙の旅』を引用し、人間の技術がどうしたこうしたと述べたうえで、倫理を学ぶことは「わたしたちがいやおうなく歩み始めている、3001年への旅の道案内なのである」と結んだ原稿を渡した。ところが、ある編集委員(倫理学者)から「倫理学はまず100年先ぐらいを見据えて考えるべきで、3001年はいくらなんでも・・・」という趣旨のクレームをいただいた。「2101年への旅」ではどうか、というのだが、かなりマヌケである。私としては千年期(ミレニアム)の始まりなんだから威勢良く、と思ったのだが、やはり倫理の先生方は謙虚で堅実な方が多い。けっきょく、決定稿には「未来への旅の道案内・・・」と書いた。だいぶインパクトが落ちたなあ、というのが、書いた本人のかってな思い込みである(^^;。

クラークは『2010年』・『2061年』と続編を発表していたが、ここへきてどおんと『3001年』である。私は最初は内心、「例の教科書も3001年のままで頑張っておけば、クラークの先取りと自慢話もできたのになあ」と思った。しかし、である。後書きでクラークは、「最初の契約では20001年のはずだった」というのだから、・・・やっぱりこのスケールには「参りましたあ!」と言うほかはないのである。

さて、私が子供の頃、三大SF作家と言えばアシモフ、クラーク、ハインラインであった。今や健筆をふるうのはもう80歳のクラークだけになってしまった。ストーリーも個々のエピソードやオブジェも、例によってスケールはでかいのだが、クラークとのつきあいの長い読み手には、新しい驚異がなく、「なるほど」で終わってしまうところがある。シリーズが進むにつれて大部になっていった『宇宙のランデヴー』ぐらい、もっと書き込んでほしかったような気もする。エピローグの後に典拠やら謝辞やら後書きやらが饒舌に続き、本筋以外で解説が多いのも、小説読みとしてはあまりいただけない。

そんなこんなで、これ単独で、SF小説として面白いか、と言われれば、「あまり面白くない」と答えざるを得ない。ただし、『2001年』以来の読者には必需品の完結編であるし、何よりもクラークが元気に書き続けていることがうれしい。

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河合塾篇『別冊宝島322 学問の鉄人:大学教授ランキング文科系篇』(宝島社)

本校の学生さんにはほとんど何の関係もない本だろうが、私には大変面白く、役に立った本。全国の教授・助教授に各分野の重鎮・中堅・新進の学者をアンケート調査してまとめたという、けっこう過激なデータである。予備校がそれをやった、というところが面白い。偏差値ではない選択基準を提供する、という趣旨のようだ。私の受験生時代には、この種の情報はまずほとんどなかった。私も「○○先生以来の伝統があって、かつ授業料が安いから」という素朴な(?)理由で大学を選んだ。今はAERAムックの『〜学がわかる』シリーズなんてのもあるから、いろいろな学問分野についても、その気になれば幅広く情報を集められる。そういう点では今の受験生は恵まれている。ただあまり「この人がいるからこの大学!」にこだわると、とりわけ若手や定年間近の国公立の先生はいつ動くか分からないから、下手をすると「行ってみたらいなかった!」なんてこともあるだろう。

役に立った、というのは、自分の専門の分野はともかく、関心があるという程度の分野については、学界の動向がつかみにくい。どんな人の発言を参照するか、というときの参考になりそうである。しばらくご無沙汰の分野など、あれこの人は今ここにいたのか、なんてこともある。研究会の講師探しにも重宝しそう。

あとはまあ、本書の巻末3ページに載っている「従来の偏差値による大学ランキング」のおまけが何だかなあ、ではある(^^;。

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坂野登篇『脳と教育』(朝倉書店)

神経心理学と認知心理学の接点を扱うテキストとして、大変分かりやすく、かつ最新の資料が提示され、充実した一冊だった。単純に「脳の働き」に興味のある学生さんにもお勧め。もっとも、私は実はもう少し「教育」寄りの内容を予想していたのだが。

教育と臨床に主に興味がある私としては、第三章の「感情の教育と脳のはたらき」あたりがもっとも期待した部分であった。教育の要素がもうちょっと充実しているとよかったのだが。右脳と左脳の話題に関する学問的立場からの批判などが興味深かった。

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スタッズ・ターケル『人種問題』(晶文社)

同じターケルのインタビュー集『仕事!』(晶文社)は、私の大好きな本の一つである。133人の人々の、それはさまざまな仕事についてのインタビュー。翻訳書で二段組み700ページ余りの量。それだけ一人一人の語りに読みごたえがある。社会的なステータスの高い仕事もあれば、低い仕事もある。まじめそのものの人もいれば、刑務所帰りの人もいる。でもとにかく、読み終わるころにはその人のことがなんだかとても好きになる・・・多国籍企業の元会長のラリーのことも、売春婦のロバータのことも。

この『人種問題』も、同じ大部の、ナマのインタビュー集である。息子をリンチで殺され、しかも犯人の白人は無罪となった黒人女性の話から始まる。しかしそこには彼女の悲惨な運命への嘆きや、のうのうと生き延びている殺人者たちへの怒りはない。息子を殺された母親は、大学に入り直し、教員となり、問題の多い生徒たちを教え続けている。息子を殺した犯人たちに対して何かをしたいという気持ちはない。このようなインタビューを読むと、人間の可能性を信じる気になれる。反面、昨今の我が国の若者の凶悪犯罪や少年法を巡る議論の中には、ほとんど絶望的に幼稚で原始的なものが目立つことに、あらためて気づかされる。

むろん本書でも、人種問題はきれいごとでは語れない、ということは、基本的な前提である(そうでなければ、このインタビュー集は作られなかったはずだ)。アメリカは公民権運動の嵐を乗り越え、アファーマティヴ・アクションなどを通じて人種問題に血のにじむような努力を傾けてきた。にもかかわらず良心的な人々の心の奥に刷り込まれた差別意識はしばしば顔を出し、長年積み重ねられた施策を反動が一瞬にして突き崩し、問題は深刻化していく。そしてこの段階で居直ってしまう人々も多い。

が、だからといって絶望的に幼稚な人種差別主義に陥ることなど決してできないということを、痛みを感じながら受け止め、なす術を見いださなければならない、ということがわからなければならない。こういう時代だからこそ、まず一方で人間性の根幹をゆさぶる深刻な問題を突きつけながらも、他方それを越えて人間が信じられ、好きになれるような手掛かりを与えてくれる本を、特に若い人は、読むべきだと私は思う(たとえば「ベトナム帰還兵は本当につばを吐きかけられたのか?」という問いへの答えを集めたボブ・グリーン『ホームカミング』(文藝春秋)なんかも、そういう本だった)。また人生の先輩たちにもしっかりしてもらわなければならない。あえて自分のことは棚に上げて言うが、人間性において尊敬できるような先達はいくらいても多すぎるということはない。著者がこの本を出版したのは、80歳のときなのだ。

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立川昭二『病気の社会史』(NHKブックス)

ある人からこの著者のことを教えられて、読んでみた。初版が1971年だからもう26年も前の本で、私が買った本はすでに33刷を数えているから、隠れたベストセラーの一つであろう。著者は、一貫して「病」と人間とのかかわりを追い続けている人である。

本書は歴史を舞台に、病気が社会を動かし、あるいは社会が病気を動かした事実を、豊富な社会史的資料を駆使して説き起こす。ペロポネソス戦争のアテネ側敗因となった「疫病」、中世ヨーロッパのペスト、梅毒や結核と歴史とのかかわりを、豊富な資料を元に分かりやすい語り口で明らかにする。日本史でも、鉄砲よりも梅毒の方が先にやってきたことや、検疫を受け入れなかった外国船に由来するコレラの流行が不平等条約改正の世論を強めたことや、富国強兵策の中で結核が蔓延したことなど、なるほど、という話が一杯である。歴史読み物として純粋に面白いし、こんな歴史の見方があるのかと気づかされる。

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宮田登『「心なおし」はなぜ流行る』(小学館ライブラリー)

気鋭の民俗学者による、都市生活者の民俗誌。都市生活は一見、宗教的要素から切り離されているようであるが、オカルトやホラー、占いやまじないが満ちている。こうした都市民俗の姿が、本書の中心である第一章で主に扱われている。

ところで第二章「都市生活者の原風景」に、われらが航空高専の立つ地、汐入のことが、少しだが出てくる。都市化の影響を受けた東京の「田舎」として、代々木と汐入(「東京府北豊島郡南千住町大字地方橋場の一画である汐入村」)の調査を比較、代々木がさっさと都会の一部になっていったのに対し、汐入は、土地買収で農地が減少する一方で地価が高騰し資産が増え、他所の代替地の地主になるなどしても、「老人などは耕地の少なくなることを好まず、金ができると遣うことを覚える、それよりも農業がいい」という心意などもあって、ながらく東京の中の「田舎」でありつづけた様子が紹介されている。今やその地もとうとう再開発真っ最中であるが・・・。そういえば私の研究室には荒川区教育委員会編『汐入の民俗』という冊子もあるので、興味のある人はどうぞ。

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水越伸ほか『コンピュータ半世紀』(ジャストシステム)

最近、仕事絡みでメディア論について考えなければならないことがあって、そのブックガイドに見つけたのがこの本。副題は「コンピュータ文化を読み解く173冊」。メディア論、計算機技術、人間機械論、認知科学、視覚芸術の5つの「立場」から読む文献ガイドになっているが、それぞれの章の執筆者の観点から立論が為されているので、単なる総花的ガイドというよりは批判的な文献解題の論集として読め、なかなかの手応えだった。

それにしても、第2章が「計算機技術の立場から読む」なのだが、このページ数は30ページ弱と、他の章に較べて目立って少ない。単なる量の問題ではないのは当然なのだが、こうしてみると、コンピュータがいかに「計算機ではない」のか/社会的存在であるのかということに、いまさらながらに驚く。

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土屋賢二『哲学者かく笑えり』(講談社)

お茶の水女子大学の哲学の教授である筆者が、「小説現代」に連載したエッセイを主としてまとめたもの。いしいひさいちが挿絵というかマンガを書いている。哲学者というと堅苦しい頑固者というイメージが、もしかすると今でもあるのかもしれないが、本来論理をあれこれと操作する(へりくつをこね回す、とも言われる)のが商売なのだから、ユーモアはかなり得意なはずである。そのことを証明するのが本書のような書物であろう。もちろん、そのユーモアを支えているのが哲学なのである。僕は第九章「会議は暴れる」がかなり好きだ(と言うか、身につまされる)。某化粧品会社(本文では実名入り)研究員の旧友との往復書簡が、これまたなかなかの真剣勝負で笑わせる。おすすめ。

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ロバート・J・ソウヤー『さよならダイノサウルス』(早川SF文庫)

これはちょっとすごいアイデアSF。恐竜の滅亡、タイムトラベル、−−−(伏せ字)、あたりが大ネタ。いずれも古典的なネタでありどれか一つでも一本のSFになるのだが、反面あまりにも手垢にまみれていて使いにくいと言えば使いにくいものばかり、というこれらを組み合わせて一つのオチに持っていってしまったところが、文句なしに面白い。中ネタや小技も程よく配され、よくできている。うーん、あまり説明するとネタばれするのだが、かといって「古生物学者がタイムトラベルして恐竜の絶滅の原因を探りに行ったら、あら驚いた・・・」じゃああまりにもありがちな話にしかならなくて全然この小説の面白さが分からない。まあこれはかなり広い範囲のSFファンが、つまり初心者からベテランまで、ハードファンからニューウェーブファンまで、概ね楽しめる作品ではないかと思う。

これがあまり面白かったので、同じ作者の『ターミナル・エクスペリメント』(早川SF文庫)も読んでみた。これは脳のスキャニングのネタで、魂の実在が発見されてしまうというアイデアに、ネットワーク犯罪が絡む。ちょっと雰囲気が重いが、やはり傑作である。でもまさかSF読んでいてコールバーグの道徳性発達理論が出てくるとは思わなかったな。

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田宮俊作『田宮模型の仕事』(文藝春秋)

僕もプラモデルに夢中になった時期があった。なかでも「サンダーバード」シリーズは、父親もテレビで観て気に入っていたせいか、新製品が出たら買ってくれる約束になっていた。多分、1号から5号までで終わりだと思っていたのではないか。しかしジェットモグラとかペネロープ号とか、人気のわき役もどんどん製品化されたし、2号のような人気モデルは、ミニモデル入りタンクとかのオプションまで出たと思う。とどめはあの「秘密基地」であろう。あれは当時としてはけっこう高価だったはずだ。親父もしまったと思ったに違いない。ちなみに、数年前に「サンダーバード」がリバイバルしたときにあらためて「秘密基地」を作り、島らしい感じを出そうと息子とプラカラーを塗りまくったのは言うまでもない(^^)。

しかし僕も、自分の親父と同じ失敗をした。息子たちが夢中のミニ四駆、新型が出たら買ってあげるよ、と約束してしまったのである。ブームとともに新製品発売のペースは上がり、オフィシャルレースだ街角レースだ先行販売付きイベントだで駆り出される。そういえば今度の日曜日もイベントの付き添いである。やれやれ。そんなこんなで、本屋で目に付いたこの本のことは気になっていた。

著者は田宮模型の2代目社長。そもそも田宮模型は父親が始めた材木店の副業だったことから始まって、火事で店が焼けて大変だったこと、債権者から学費を取り立てながら大学に通ったことなど、戦中から戦後にかけてのエピソードに、まず引き込まれる。著者自身も含めて「模型が好き!」で集まる人々を会社としてまとめあげ、今日の成功につなげていく様子が、特に模型ファンでもない僕が読んでも、実に痛快である。

僕が読み終わった後で、普段はなかなか本を読みたがらない長男が、読めない漢字も多いだろうに夢中になっていた。将来は田宮模型に就職したいそうである。

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パトリック・オリアリー『時間旅行者は緑の海に漂う』(早川SF文庫)

主人公はユンギアンのセラピスト。ユングと言えば夢、時間、神話などがキーワードになるな、と思ったあなたは正しい。そこにはディック的な夢/現実、過去/現在/未来、虚構/現実の巧妙な混合物が充ちあふれ、奇妙なサイコホラーSFに仕立て上がっている。

セラピストの前にクライアントとして現われた謎の女。異種族の存亡をかけた夢と時間の抗争にとらえられていく主人公。主要な登場人物は皆、とんでもなく混乱した人々ばかりである(ホッとさせる人物はわき役に数人)。オチに関してはここでは言えないが、ちょっともの足りないかも。ユングとディックが好きな人にはお勧め。

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吉見俊哉『「声」の資本主義』(講談社選書メチエ)

著者は「学生時代は如月小春らと芝居ばかりやっていた」と評される(^^;、東大社会情報研究所助教授、気鋭の文化社会学者。なんだか「気鋭」が続くが、同世代で活躍されている先生方の書かれたものを読んだり、お話を伺ったりすると、問題意識の中に「同じ時代」を感じて妙にうれしくなるし、「なるほどお」のうなずきがどこかの老先生の場合とは違ってくるのである。畢竟、人に勧めるときの熱の入り方も違ってくる。・・・必読!

本書では、「声」の流通から今日の資本主義が特徴づけられている。まず音響メディアに関する膨大な資料が紹介されていて、図版も多数あって、それだけでもたいへん面白い。「大道の蓄音機屋」とか「電話による演奏生中継」とか、考えてみればそういうこともあっただろうなあ、と。が、もちろん問題はもっとずっと大きい。ヒトラーが実に的確に拡声器とラジオを活用したこと。わが国がいかに放送メディアを統制していったか。音響メディアの社会史は、今日の情報を含めた消費社会の将来を考える上で重要なヒントを提示しているようである。

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諸富祥彦『カウンセラーが語る自分を変える〈哲学〉』(教育開発研究所)

千葉大助教授の著者は、気鋭のカウンセラー、教育学者。学会などで何度かお見受けしていますが、穏やかな物腰とは裏腹に(ってこともないが(^^;)かなり熱い若者です。何せ高校生の時に國分康孝先生のところに押しかけて以来の愛弟子というのですから・・・。その熱さの意味は、本書を読めば分かりますが、とにかく諸富先生の学問は諸富先生の人生そのものであり、敢えて言えば(すごくクサい言葉だが)生きざまそのものであるからです。

養老孟司の本でも使っていた「臨床哲学」という言葉遣いが、ここでも使われています。ただその意味はむしろ、ソーテの『ソクラテスのカフェ』の実践に近い。諸富先生はここでそれを自力でやっていくためのガイドという観点でまとめています。もちろん、この本を読めば人生ハッピーになる、と言うことではなく、むしろ生半可な気持ちで読み始めるとズシンと落ち込みます。そして「自分を変える」ということがいかにラジカルなことなのか思い知らされます。

もちろん、自分を変えるためには、この本をガイドブックにすればオッケー、というだけではありません。他者との出会いやのたうち回るような苦しみの意味もじゅうぶん納得できるはずです。悩める人には、「覚悟が決まれば」ぜひ読んで欲しい、決定版のような本であると言えます。

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大平健『顔のない女』(岩波書店)

精神科医大平健のこの本は、ハードカバーである。『へるめす』連載記事をまとめたものらしい。岩波から出している大平先生の本は軽装版や新書判であったから、売れっ子になったからハードカバーになったのかな、くらいの気持ちで読み始めた。しかし、読んでいるうちに、これはやはりハードカバーで出す本だ、ということに得心がいった。ここで取り上げられているケースは、『豊かさ・・・』や『やさしさ・・・』とは違う。ユニークなケースを、オリジナルな技法で治療したレポートなのである。

もちろん、医学書ではないわけだから、気軽に読むことはできる。しかし、一つ一つのケースは「明らかに精神科の」ケースであり、けっこう「こわい」ものが多い。あわてて説明させていただくが、「こわい」というのは精神病や患者が怖いと言っているのではなくて、個々のケースが人間存在の闇にくっきりと焦点を当て、目を逸らすことを許さないようなものばかりだ、ということが言いたいのである。そういう意味でも、この本は医学書ではなく、むしろ哲学書に近い。こういう読み方は臨床医としての立場を貫く大平先生には不本意であるかもしれないが・・・。

分類は「ためになる」にしておいたが、かなり重い本であった。特にラストの偽患者の話は、かなり怖い話である。P. K. ディックの小説のような読後感であった。

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ケネス・ラックス『アダム・スミスの失敗』(草思社)

これはきわめて重要な本である。副題は、「なぜ経済学にはモラルがないのか」。著者はもともと心理学者であり、経済学者と共同研究をして「経済心理学」という観点から経済学史を扱っている。

本来は価値的に中立である経済行為を、中世キリスト教会は不道徳としたが、プロテスタンティズムは神とのかかわりの文脈で肯定した。しかし、アダム・スミスは、経済行為の前提として利己心を仮定し、それを無限定に肯定したわけである。やはり最大の問題は、経済行為の前提として利己心を無条件肯定するという無邪気な極端さにある。かくしてその末裔であるマルサスやスペンサーの流れをくむ自由主義経済も、また所詮はその亜流に過ぎない社会主義経済も、ともに破綻している。

ホモ・エコノミクスの問題点を真の意味でラジカルに批判した、重要な書。私は著者のいわば「下手な言い訳はオレは聞かないぜ」とでもいうべき、きっぱりとした態度に共感する。必読!

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E・フラー・トーリー『分裂病がわかる本』(日本評論社)

副題は「私たちはなにができるか」。著者は、もちろん医者なのだが、患者の権利擁護や援助などにも積極的にかかわっている人。分裂病の病理と治療については、徹底した生物主義をとる。生物「主義」というのは適切な用語ではないが、病理はあくまで生物学的異常であり、治療にはまず薬物が第一の選択であり、精神分析療法は、薬物療法の補助ならともかくそれ単独では百害あって一利なし、とする立場である。「主義」がまずい、というのは、統計的に意味のあるデータから導き出された判断だからである。私もカウンセラーのはしくれであるが、精神分裂病や躁うつ病が疑われる場合は、とにかく早く専門医にかかり、薬を処方してもらうことを勧めている。早期発見・早期治療は、明らかに予後をよくする。これもデータが証明している。

病理や治療についても詳しいが、後ろ三分の一ぐらいは、リハビリテーション、社会的援助、権利擁護の内容である。アメリカの現状に対応しているから、現実的に役に立つという性質のものではないが、患者に対する差別、暴行、搾取など昨今わが国でもたびたびニュースになるがアメリカでも同様のことが起こっている。ましてやソーシャルサポートの「お寒い」現状はわが国はそれ以上である。なおわが国の主にリハビリやソーシャルサポートに関する参考書としては昼田源四郎編『分裂病者の社会生活支援』(金剛出版)が参考になる。

決して気楽に読める本ではないが、平易な文章であり、情報を必要としている人にとっては最新の有益な知識を与えてくれる本である。

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川上善郎『うわさが走る』(サイエンス社)

サイエンス社の「セレクション社会心理学」シリーズの一冊。古典的な「うわさ」研究を批判、信頼のおけるデータを集めることがたいへんに難しい「うわさ」研究の現状と展望を、分かりやすく紹介している。

状況によってはマスメディアよりもパーソナルメディアの方が、ニュースの伝播に貢献するということがよくわかる。ニュースをみんなに知らせたいという送り手のマスコミの欲求よりも、ニュースをだれかに話したいという受け手の個人の欲求が決め手になる。これは非常に興味深い。マルチメディア、ニューメディアも、パーソナル性の強さを、宣伝文句としてではなく実感として得られて初めて、普及するのだろう。携帯電話・PHSの普及は、そういう意味でよく分かる。ホームページ作りも「だれかに話したい」欲求を満たしてくれるからやめられないんだよね。

心理学の授業では、社会心理学まではなかなか目が行き届かない。分かりやすい本なので、興味ある学生さんにはぜひ勧めたい。

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