バックナンバー(97年4月〜7月)



オリヴァー・サックス『火星の人類学者』(早川書房)

映画にもなった『レナードの朝』や、『妻を帽子とまちがえた男』、『手話の世界へ』などでよく知られる、脳神経科医師の新作。副題に「脳神経科医と7人の奇妙な患者」とあるとおり、ここには7人の、精神の病を持ちながら特殊な才能を発揮した人々を紹介している。特筆すべきは、研究者としての目は当然持ち続けながらも、温かな人間的な交流をごく自然に求め続ける態度である。おそらく、心の病に対する好奇心から読み始めた多くの読者も、作者の医者としての生き方に共感することになるであろう。「トゥレット症候群の外科医」などはどうしても「驚異」という印象で読んでしまうが、自閉症者を取り上げたもの、とりわけタイトルにもなった「火星の人類学者」の動物学博士のエピソードは感動的である。理論的な部分は斜め読みしたとしても、ぜひラストは読み落とさないように。

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マルク・ソーテ『ソクラテスのカフェ』(紀伊國屋書店)

哲学教授がカフェに集まる人々とディスカッションする話、というので、いわば啓蒙的明るさを味わう(というのは、ちょっと退屈かも、というニュアンスもある)つもりで読み始めたのだが、実はかなり攻撃的な本だった。カフェの集まりは偶発的なものだったが、もともと教授は「哲学相談所」を私的に開設している。マスコミは哲学を商売にし、売名に走っていると教授を攻撃する。しかし、教授はまさにソクラテス的な意味で哲学を営み、その時々の根源的な問いに立ち向かっているのである。

もちろんこの本も、私にとっては「重い」本である。私自身の「相談の哲学」が問われるからである。とは言え、カフェで、相談所で論じられる「哲学」は、確かにエキサイティングであり、面白い。原書の後半部分が続刊ということで、楽しみである。

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大平健『貧困の精神病理〜ペルー社会とマチスタ』(岩波書店)
大平健『拒食の喜び、媚態の憂うつ〜イメージ崇拝時代の食と性』(岩波書店)

私は最近、大平先生に、私の所属しているある研究会で講演をしてはいただけまいかと依頼したところである。あまりにも少ない謝礼にもかかわらず、先生は快諾してくださった。・・・という経緯はあるが、だからといって別に先生のご著書をここでヨイショするわけではない。もともと、大平先生のお話を聴きたいというのは私の希望で、『豊かさの精神病理』・『やさしさの精神病理』(ともに岩波新書)を読んで、現代日本に生きる人々のこころのありさまが、見事にケースを通じて見えてくるのに感服していたからである。他の著書も次々と読んできたが、最近読んだのがこの2冊である。

前者は、いわば大平先生の原点である。ペルーの貧しい人々を相手に精神科の医療を施す傍ら、もっとも貧しい人々や、中流下層の人々の性格傾向を巧緻に絵解きする。その絵解きは、実はペルーの文化的独自性を超えて、われわれの社会に当てはまるものでもある。

後者は、後書きによれば聖路加看護大学の大学院での、おそらくは精神保健の歴史のような趣旨の講義に基づいているらしい。分裂病やヒステリーがたどった変遷を社会史的な視点でとらえるところなど、なるほどと思わせる。そしてタイトルどおりの拒食や媚態の読み解き方が、きわめて深刻でありながらユーモラスとさえ言い得るような語り口で示される。

いずれの本も、現代人の精神病理を考えるという以上に、要は現代社会のありさまを少しでもまともに考えようと思うのなら、よいヒントを与えてくれる。なお一般向きに書かれた本であるから「ためになる」に分類したが、精神医学にまったく疎遠だとちょっときついかも。

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M.スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』(草思社)

もともとかなりハードな精神医学の本で、それほど気軽に読めるとは思えないのだが、話題になっている本である。取り上げられているのは、基本的には、パーソナリティの障害としてきわめて治りにくいケースであり、それ自体特に目新しいわけではない。むしろ、思春期相談などやっていると、親によく見られるタイプであり、文化的背景が違うにもかかわらず、取り上げられているケース一つ一つに、自分の扱ったケースが思い当たるほどである。

ただ、この本がユニークなのは、このようなケースに対して、敢えて「邪悪さ」という観点から迫り、価値中立的であろうとする(が、そうあろうとすること自体が欺瞞である)「科学」としての精神医学に挑んでいるところなのである。技法的に見ればきわめて対決的であり、私ならもうちょっと違う技法を使うだろう、という思いもする。前書きから述べられるように、キリスト者としての立場が明快であるところも、むしろこの世界ではユニークである。読んでいて思ったのは、「邪悪さ」を扱おうとするときに、著者自身述べているようにキリスト教に限ったことではないが、宗教的立場を持ち得ることはかえって合理的ですらある、ということである。これは非常に興味深いことだ。

後半は「集団の悪」の問題になる。本書は、むしろここが中心である。ここでは主にベトナム戦争とアメリカを例として取り上げているが、その解釈は普遍的で鋭い。社会科の教員としては、昨今の「自由主義史観」関係者(両側の、ね)に熟読していただきたいと思うほどであるが、たとえ熟読していただけたとしても一部の関係者はまさにここに述べられているような理由で何にもならないであろうし(^^;、そのおかげでこの手の議論はいつも不毛になる。閑話休題。このテーマは、フロム、オルポート、アドルノらなどの研究がすぐに思い出されるが、著者は「知的怠惰」と「ナルシシズム」が「うそ」・「悪」につながるキーワードとして、「個人の悪」と「集団の悪」に共通する要因であるとする。

このようにいろいろな意味で、私にとっては、複合的なバックグラウンドが試され、態度決定を迫られる、たいへんに息詰る本であった。

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グレッグ・ベア『女王天使(上)・(下)』(早川SF文庫)

グレッグ・ベアといえばかの『ブラッド・ミュージック』に衝撃を受けたSFファンは少なくないはずである。「SFマガジン」のインタビューだったかで『パラサイト・イヴ』の著者が、『ブラッド・ミュージック』のように世界が変わってしまうようなオチはちょっとどうも・・・、というような答えをしていた(と思う)が、おそらく類似のアイデアでもBM風展開がいいかPE風展開がいいかは好みの問題だろう。私は「えええええ、そんなあ・・・」と呆気に取られるのが好きなので、もう絶対的にBM風が好みである。

相次いで翻訳されてきた大作もそれぞれ実に読みごたえがあったが、BMと同様の壮大な変革のビジョンが共通の魅力だと思う。この『女王天使』も、並行するエピソードがそれぞれに自己存在の問題を突きつけるところ、そして、このとんでもないオチ・・・。BMにしびれた人には、絶対におすすめの作品である。

BMは90年代の『幼年期の終わり』だ、という賛辞があったが、その伝で行くと本作は90年代の『2001年』だ、ということになるだろう。

P.S. 続いて『火星転移(上)・(下)』(早川SF文庫)の翻訳も出た。タイトルのまんまのストーリー(^^;で、いつもながらの登場人物の魅力とスケールの大きさで一気に読了。ハードSFファンにはこっちの方がお勧めかも。私の好みに合うのは「自己」テーマの『女王天使』であるが。

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小林紀晴『アジアン・ジャパニーズ2』(情報センター出版局)

『大人袋』が"2"だったからというわけではないのだが、これも"2"である。前作『アジアン・ジャパニーズ』は魅力的な本だった。アジアをさまよう若者たちとの語り合いと写真。著者自身が、新聞社を辞めてアジアを旅するフリーのカメラマンである。モノクロで潔くとらえられたポートレイトが、なにか毅然としたものを感じさせる。文章はたいへんに朴訥である。そういった味わいは、前著も本書も変わらない。

ただこの"2"は、実はちょっとこのタイトルは違うのである。大部分の舞台はパリなのである。著者はふとアジアの旅に煮詰まる。「何者でもなくなることを欲していたあの旅の自分は消え、何者かになろうと、そしてなりたいと思っている自分の姿」を自覚する。そしてパリに向かう。ベトナム−パリ−ベトナム、という流れである。

パリでも、著者はわずかなつてを頼りに、「パリの日本人」を探し当てては語り合い、写真を撮る。とにかくあくまで「語り合い」である。インタビュー、という語感がなじまない。そしてきっぱりと一枚の写真。「何者かになろうとしている」著者自身が語られ、映し出されている。そして再びベトナムに向かった=アジアに帰った著者は、「生きている」感じをつかむ。

アジアの旅や放浪に惹かれるひと、それでなくても自分探しに興味のある若いひとには、ぜひ続けて読んでほしい2冊。

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中川いさみ『大人袋2』(小学館)

これの1巻が出たとき、なかなか発見できずあせった、箱入り上製(というか中製くらいかな)本の装幀もなかなか。ぼくは月曜日はあまり(仕事以外の)「書籍」は読まない。朝キヨスクで「アエラ」を買って、行き帰りの電車で読み終えて、家路の途中でコンビニに寄って「スピリッツ」を立ち読みする習慣だから。なぜ立ち読みなのかと言えば、読むマンガが最大でも3本しかないから。それは『美味しんぼ』と『おたんこナース』と『大人袋』。これらはだいたい欠かさず立ち読みしているはずなのに、単行本も買って再読までしている。他のマンガは、ときどき目を通してはみるのだが、今のところはどれもぼくの世界ではないみたいで、結局読まない。『美味しんぼ』は、まあ慣性で(「惰性で」というのが決まり文句だけれど、語感と語意的に「慣性で」というのが好き)。あまり料理のヒントにはならないが(かかりつけの歯医者においてあった『クッキングパパ』はずいぶん役に立ったが)。『おたんこナース』はあの佐々木倫子さんの作品だし、取材がしっかりしていて、もとネタがそもそも面白い。

さてと。ようやく(^^;『大人袋』である。うーん、すごく面白いんだけれど、どこが面白いのか説明しようとすると、この分野はそんなに詳しくもないし、難しい。たとえば以前、ヤングジャンプの『和田ラヂヲのここにいます』を、別に同姓のよしみというわけではないが、よく読んでいた。でも飽きた。たぶん一発芸だからだと思う。『大人袋』が持っている(単行本まで買わせる)魅力は、エロもグロもナンセンスも何の境界もなくさりげなく表現されているし、不条理も多いがきちんと4コマで落ちているのもあるし、といった、味わいの変化にあるのかもしれない。あまりはずしているのもないし(ってのは、すごいことだ)。それに、たぶん、実はかなり絵がうまいんだと思う。

まあマンガに素人が理屈こねるのも無粋ですから、これくらいにしときますが。ところでこの2巻では、ぼくはベランダ売りの話が一番笑えた。

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ポール・ストラザーン『90分でわかるカント』(青山出版社)

「90分でわかる」シリーズの5冊目ということである。以前にこのシリーズのプラトンはここで紹介した。他にニーチェ、デカルト、ヴィトゲンシュタインが出ているらしい。

大学の学部時代、西洋倫理学といえばまずはカントだった。ゼミで『実践理性批判』をえんえんと読み続けた。でもカントが少しわかってきたかなあ、という感じが持てたのは、教員になってカントを授業で扱うようになってからである。たぶん、なんとか少しはわかってもらわないと、何のために授業やっているのかってことになるから、それなりに必死だからである。授業中しゃべっていて新しい解釈に気づくこともある。で、ぼくはぼくなりにカント解釈を少しは深めたと思うが、生徒・学生さんたちの方はいかがなものか・・・。

ま、そういうカントが90分でわかるかどうか。何の予備知識もない人が、いきなり本書を読んでカントの学説に通じることができるとは、さすがに思えない。でももしかすると、カントってどんなヤツだったかということについては、何かわかるかもしれない(・・・もしかして、この書名はそういう意味・・・?)。

心理学者の言葉を批判的に取り上げるが、結果的にはむしろ、心理学的視点からとらえたカントの人物像が印象に残る。その哲学と同様、その生涯も、多分に構成的であった。つまり、いろいろな理屈がついているが、ちょっと見には目立って奇妙だ、ということである。

本編は面白く一気に読めるし、対話篇風の結びや原典資料もあって親切ではあるが、カント「哲学」の入門書としてどうかというと、ちょっとひっかかる気もする。

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ニーヴン、パーネル&フリン『天使墜落(上)・(下)』(創元SF文庫)

それにしても・・・、

(引用始め)
チャックはまさに、ハインラインの『異星の客』の主人公になった気分だった!チャックはその本の三分の二を完璧に記憶しており、残りの大部分も暗唱することができた。(上巻P.160)
(引用終わり)

・・・なんてところを読むと、もうこれは他人事ではなくなってしまう。『異星の客』は僕の高校時代のバイブルだった。いつも持ち歩いて、退屈すると繙いていた。

閑話休題。

氷河期が進行する地球は反テクノロジー主義者たちの支配下におかれ、軌道上で暮らす人々を敵視している。窒素を集めに来て地球に墜落した二人の軌道人の飛行士=天使たちを救ったのは、非合法化され地下に潜っていたSFファンたちであった・・・という、究極の内輪受けSF(^^;。ハードSFにもストーリーテリングにも実績のある作家たちの合作だけあって、十分に読みごたえがあるし、解説も親切であるから、本筋を追って楽しむ分には特に予備知識はいらない。でもやっぱり、SFファンダムに関心のない人にはピンとこない部分も多いかもしれない(もっとも、そういう人は最初からSFは読まないか(^^;)。たとえば、『最後の最後の最後の危険なヴィジョン:ほんとうに最後だ。だましはしない』というタイトルとか。

万人には勧められないし、かといって読むべき人はもうとっくに読んでいるであろう、という類の本。考えてみればそういう本って多いな。

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加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)

加藤先生は最近、応用倫理学の一般向けの紹介でとりわけ積極的に著作を発表されている。「倫理学」と聞いて腰が引けてしまう人にも、まあとりあえずこの本の目次を見てくださいよ、と言いたい。「10人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかないとき、誰に渡すか」、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」、「正義は時代によって変わるか」、「科学の発達に限界を定めることができるか」などなど、これらが章のタイトルである。面白そうでしょ(実際、面白い)。これらの答えを「知りたい」方というよりは、これらの問題を「考えている」方に、特に向いています。

もともと放送大学のテキストとして書かれたものを加筆したということで、たいへん分かりやすくなっている。ただし、加藤先生はあまり接続詞をサービスしない(^^;ので、正接か逆接かは注意しながら読んだ方がよい。それから、やっぱりカントや功利主義については高校倫理程度の基礎知識はあったほうが、スラスラ読めるでしょう。

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リンドクウィスト&ウェステル『あなた自身の社会』(新評論)

副題にあるとおり、これは「スウェーデンの中学教科書」の翻訳。たいへん面白い。

まず、法律をかなりていねいに扱っている。例えば「町中である少年が暴行を受け、加害者の少年が逮捕され、裁判が進行し、判決が出るまで」を詳細に解説する。「何が一部の人に犯罪を繰り返させるのか」、「どの犯罪が重い犯罪か」など、例を挙げて考察させる。

アルコール、麻薬、性、離婚、差別など、ネガティヴな社会問題を実例を挙げながら論じている。同性愛者の結婚と養子縁組の問題まで実例として取り上げている(私も『倫理』の授業で扱っているが、これは中学2年生が対象である)。 経済は、家計と消費者教育から入っている。もっとも妥当な入り方だと思う。「銀行は貸し付けの担保としてどんなものを取るか」、「現金がないときのものの購入方法としてどれが最善か」などを論じさせる。

地域社会(コミューン、ランスティング)について相当詳しく扱っている。「どのようにしてみじめな給食を少しでもマシにできるか」など、生徒にもできる政治的行動が学ばれる。「予算編成作業がどう進んでいくかをまとめよ」などが課題に出される。

社会科・公民科のあり方を考える上で重要な示唆に満ちているが、それ以前に、人々が社会にコミットメントする方策が基本として明確であるから、読んでいても面白いのである。例えば、地方分権が進まないと政治参加の意欲は高まらないし、そのための訓練もなりたちにくい。教科書作成や採択も自由化されないと、思い切った例も出しにくい。・・・まあ彼我の違いを論って嘆くのも情けないからこのくらいにしておくが、少なくとも内容的には、この教科書で扱われているようなことは、わが国でも少なくとも「高校」レベルまでには比較的取り上げることも多くなってきたと思う。問題は、それをすぐ応用できる場があるかどうかなのではないか。

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コードウェイナー・スミス『第81Q戦争』(早川SF文庫)

コードウェイナー・スミスの、これはまあ落ち穂拾い的な短編集。コードウェイナー・スミスは、本名ポール・M・A・ラインバーガー、1966年、わずか53歳で亡くなったとき、中国の専門家にして心理戦争の研究者、政治学の教授で合衆国の外交政策顧問であったことが明らかにされた。第二次世界大戦中は中国にいた(そこで普通小説もものしている)。中国名、林白楽。

あくまで落ち穂拾いだから、スミスを初めて読む人には勧められない。〈人類補完機構〉シリーズの既刊の3冊の翻訳、『鼠と竜のゲーム』・『ノーストリリア』・『シェイヨルという名の星』を読んだ後で読むべきである。けれどもたとえば、「夢幻世界へ」の悲しさ、「西欧科学はすばらしい」の奇抜さなどに、スミスの作品を貫く特徴はよくあらわれている。つまり、物語の巧みさはもちろんだが、その持ち味を私は「奇抜な悲しさ」と表現したい。それは、スミスの人生そのものに重なるのかもしれないなどと、私はかってに思い込んでいる。

それにしても、帯に「エヴァンゲリオンの原点」みたいな惹句が書いてあったのにはちょっとショック。〈人類補完機構〉のタイトルを借用されたからと言って、スミスの作品を『エヴァンゲリオン』とやら(「とやら」、と言うのは、見たことがないからで、別に揶揄しているわけではない、と念の為言っておこう(^^;)の人気絡みで売ろうとするのは、彼の小説の信奉者としてはどうもやりきれない・・・というのは、ま、やっかみですけどね。このおかげでスミスのファンが少しは増えることでしょう。ところでそんなに『エヴァンゲリオン』っておもしろいんですか?

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養老孟司『臨床哲学』(哲学書房)

解剖学者養老孟司の、なかなかの大部の単行本である。まずタイトルが強烈。私自身この「臨床」+「哲学」という発想にはちょっとこだわりもある。かつて中村雄二郎が「臨床の知」という概念を持ち出したときには、文字どおりハタと膝を打った(^^;ものだったが、養老の「臨床哲学」はその裏返しのようなものである、と私には思える。しかし、ちょっともの足りなかった。実はこのタイトルは第一章のタイトルで、残りの4つの章はこのテーマに必ずしも沿っているわけではない(ってことは、まるで我が「〈航空〉高専」みたいだ(^^;)。

養老の本は、『唯脳論』以来ずいぶん読んできた。唯脳論は、ものごとの見方に大きな転換をもたらしたと思う。しかもこむずかしいパラダイムではなくて、「言われてみりゃそうだよなあ」的なものだったから、かえって新鮮だった。しかも確かに、どの本もおもしろい。おもしろいのだが、どうも肝心な部分になると、繰り返しが多い。本書のタイトルを見ると、いよいよまとめに入ったか、と期待させられる。しかし、やはり肝心な部分は繰り返しである。ただ、養老の本の怖さは、何を言っても「それが脳ってもんですよ」と返されてしまいそうなところである。というか、その「肝心な部分」が「それが脳ってもんですよ」で一貫しているわけだから、繰り返しになるのが当然といえば当然である。むしろ第五章あたり、発生と解剖の話などの方が、かえって読みごたえがある。

なんだかケチをつけたみたいになってしまったが、しかしいつものように、分かりやすくてためになるし、解剖学的ジョーク(?)もあいかわらず快調、分厚い本なのにすぐに読めてしまうほどおもしろい。全体を通してみると、思想家養老の全体像が比較的とらえやすい本である。

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斉藤啓一『よくわかるギリシア哲学』(同文書院)

率直に言って、理科系の学校で「倫理」の授業を持つというのは、けっこうつらい。と言うか、私はここで3つめの学校なのだが、基本的に「倫理」の授業というのはどこの学校でもメインストリームではないから、どこへ行ってもつらいと言えばつらいのである。でもまあ、何とかお互いにあまりつらくないような、できたらちょっとは面白い時もあるかなあ、くらいの授業にはしたいと思って、あれこれやるというのが、実は私の一番の楽しみでもあったりする。

だから、「倫理」に関係のあるムツカシイ本はもちろん読むのだが、「やさしい」本も意識的に探す。自分の授業で使えるネタ探しのためでもあるし、たまに興味を持った学生さんに勧めるためでもある。で、「どう説明したらいいかなあ」というところを突き詰めていくと、案外同じような説明に至るものだということが、例えば『ソフィーの世界』や、あるいはこの『よくわかるギリシア哲学』などを読んでいると、気づくことになる。

本書は「超教養シリーズ」の一冊。著者は大学の先生ではなく、市井の神秘思想家(なのかな?)。でも内容は穏当で、文章はとても分かりやすく、よく整理されている。特に若い人に向けたギリシア哲学の入門書としては、積極的に勧めたい本である。

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銀林みのる『鉄塔武蔵野線』(新潮文庫)

この本は、単行本の時にぱらぱらと立ち読みして、気になっていた本である。ちらと書名が目に留まったときに、私が毎日通勤に使っている「JR武蔵野線」の話か、と思って手にとったのである。そうしたら、送電線の鉄塔の話なので、驚いた。お金のあるときに買おう、と思ってそれっきりになっていた。

私が今住んでいるあたりも、空地が多いせいか鉄塔は目立つ。肺炎で1週間ほど入院したときに、病室の窓から、延々と連なる送電線の果てをぼんやりと想像したりもした。家族で車に乗っていたときに、あの送電線にぶら下がるように作業している人たちを見つけて、みんなで驚嘆したこともあった。確か『メタルカラーの時代』にも、鉄塔だったか送電線だったかの話があったはずだ(本が見当たらないので確かめられない。だれかに貸したんだっけ・・・?)。

何はともあれ、この小説は前代未聞の「鉄塔文学」というジャンルを打ち立て、日本ファンタジーノベル大賞受賞、映画化されて近日公開、というわけで、文庫本に入ったのでさっそく読んだ。確かに「鉄塔」というオブジェが目を引くのだが、ジャンルとしてはむしろ少年文学であろう。結末は、解説によると単行本と文庫本は違うのだそうだが、私には何だかピンとは来なかった。少年が捕まるまでのリアリズムの方が、むしろファンタジーだった、という感じがする。でもとにかく面白かったことは確か。主人公と同世代の息子たちの行動や言葉を思い出しながら、また自分の「あのころ」を思い出しながら読んだ。

蛇足ながら。私はこれを読んでいて、バラードの「監視塔」という、とてもこわい短編を思い出した(『永遠へのパスポート』所収。バラード邦訳作品リストはこちら)。

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