バラードと言えば、かつてニューウェーブSFの旗手とされ、創元推理文庫から訳出されている一連のいわゆる破滅小説でよく知られた作家であった。そこでは、世界が「なぜ」滅びるのかについては詳しくは語られないまま、「どのように」滅びるのかが淡々とつづられていく。私にとってはその豊かでありながら硬質なイメージと、抑えの効いた登場人物の語り口が魅力だった。その一方で、いずことも知れぬ気だるいリゾート地、ヴァーミリオン・サンズを舞台とする短編群もまた、読み返すたびに味わいの深まる作品ばかりだった。 その後の作品も、SFプロパーとは微妙な距離を取りつつ、同様の手触りを持ち続けている。そしてあの『太陽の帝国』(国書刊行会)。きわめて思弁的な作家であるバラードの作品が、何とスピルバーグによって映画化されるというので、そのミスマッチが(ごく一部で?)話題を呼んだ(興行的にはどうだったのだろうか?)。これは、少年バラードの第二次世界大戦中の上海での収容所体験をもとに創作された作品であった(言い忘れたが彼はイギリス人である)。これを読むと、戦争、殺人、上海、原爆といったイメージが彼の小説を産み出してきた経緯が分かる。
『女たちのやさしさ』は、バラードのいわば「創作された半生記」である。出発点はやはり上海、それ以来の時々の女性との出会いが物語の縦糸である。バラードによると奥さんと子ども以外は実在のモデルはいないということである(小説の中では事故死になっている奥さんは、実際には肺炎で亡くなったらしい。男手で3人の子どもたちを育てたのは実生活と同じ)。とりわけ興味深いのが、彼のこれまでの小説の背景となってきた出来事がわかる(と思わせる)構造になっていることである。ドラッグ、飛行機、交通事故、精神分析、セックス、美術展、テレビ、映画といったイベントやオブジェが物語の横糸であり、これらがバラードという作家をからめ取っている。「バラードの世界を読む」という作業が、この作品によって完結する(あるいは、そのように思わせる世界が創作されている)。一方で「バラード読み」ではない読者にとって、この小説はどのように読めるのか。訳者あとがきにもあるように、一種の教養小説として読まれるかもしれない。文体は紛れもなくバラードの文体であり、それは冷静で残酷なほど客観的である。構成上はフラッシュバックもなく、人々や出来事はそれぞれに魅力的で、かつ突飛である。
しかしそれでもこの小説は「バラード入門」としてはやや重いかもしれない。これから読んでみようとするなら、短編集なら『ヴァーミリオン・サンズ』、長編なら『奇跡の大河』などはいかがだろうか。
エリスの論理療法の本としては、一応一般向けに書かれているが、論理療法についてまったく予備知識なしにいきなり読む本ではないように思われるので、「お勉強!」の分類とした。論理療法とは、一言で言えば、神経症レベルの心理的不適応は、不適切な思い込みによって生じているので、その思い込みを適切なものに変えてしまえば良くなる、という理論に基づく療法である。現代のカウンセリング理論の中では、クライアントの「認知」に焦点を当てるものは多いが、その草分け的なものの一つである。興味のある人は、國分康孝「自己発見の心理学」(講談社現代新書)をまず読まれることをお勧めする。
けっこう地味なタイトルの多い岩波科学ライブラリーの中にあって、タイトル通りの味のある本だった。著者は通産省電子技術総合研究所主席研究官・東大・筑波大教授。生理心理学関連の部分は、私の授業ネタにかなり重なるので、本当はあまり学生さんに読まれると困るかも?しかし脳型コンピュータの基本思想は、直接そういうことに興味がなくても、新しいテクノロジーがどのように生まれてくるかという観点で読むと、その発想の形式を学ぶことができる。そういう意味でも、ぜひ学生さんに読んでいただきたい。心、愛、宗教といったテーマの扱いは、我が意を得たりの感がある。演繹と帰納の調和の取れた思想だと思う。
これは面白かった。一言で言ってしまえば、ネットワークを侵すプログラム「蟻」は、やがてそれにとどまらず・・・という話。理科系の作家(と一括りにしてはいかんけれども)の書くSFって、時々論理が走って情理がついていけないことがあるけれども、これはそんなことはなくて、ユーモアと視覚的なイメージが豊かで、いったん流れに乗ってしまえば読み進むのが楽しい。ラッカーの小説は長編も短編もこの調子・・・ハッカーもクラッカーも総登場、もちろん作者お得意の西海岸風俗も。というわけで、今月お勧めの一冊!
幼女連続殺人事件の論告求刑に際して、多重人格の精神鑑定をめぐる話題がマスコミでもしばしば取り上げられた。多重人格の鑑定そのものについて意見するような専門性を私は持ち合わせていないが、精神鑑定の困難さはそれなりに理解しているつもりである。
鑑定医の義務は、予想される処遇や世論の趨勢に惑わされることなく、目の前の一人の人間を、そしてその示す症例を、医師としての能力を賭けて診断することであろう。ではそれは普段医者がやっていることと同じではないかと言われそうだが、私が理解するところでは、普段医者は治療するために診断するのであり、程度の問題はあるにせよ治療しながら診断を繰り返していくのである。裁判を左右する一定の診断を要求され、しかもその結果をさらに精神医学には素人である裁判官が判断材料にすることになる精神鑑定は、精神科医の仕事としてはあくまで例外的なものなのである。
本書は、ある裁判における鑑定そのもの、およびその鑑定の扱いの適否を振り返ろうとするものである。著者の論じるところは始めから明快であり、その論拠をつかむためにはほとんど読み進む必要もないほどであるが、本書の価値はやはり一つの事件をめぐる公開可能な資料が徹底的に集成され(それゆえの大部である)、判決にいたるプロセスが手に取るように分かるところにある。裁判や精神鑑定にはまったく無知と言ってよい私のような学校カウンセラーにとっても、精神分裂病はそれほど縁遠いものではない(あまりにも縁遠いのでは困る)。であるからこそ、このような本は貴重である。
國分康孝先生は、私のカウンセリングの先生である。我が国のカウンセリング界の第一人者であり、現在日本カウンセリング学会の理事長である。アメリカで学位を取られ、論理療法やカーカフのヘルピングなどを日本に紹介された先生は、終戦までのわずか5カ月であるが、陸軍幼年学校の生徒として過ごされた。そして、その時経験された教育を、人間教育の原点としてとらえられている。
陸軍幼年学校というところがどういうところであったのか、私は全く知らない。だから、ちょっと戸惑うところも、確かにある。そもそも、先生が陸幼のエピソードを時々お話になったことはあるが、まさかこのような題名の本をお出しになるとは思いもよらなかったので、驚いたというのも正直なところである。しかし先生が挙げられているエピソードの一つ一つが、私にとっては「軍隊の学校」に対して十把一からげに持っていた漠然とした先入観を払拭するものであることは確かである。そのあたりは、「陸幼って、いったいなんだ?」という方々にも参考になると思う。
しかし、この本はもちろん、何やら昨今目立つ昔はよかったおれたちは悪くない的な趣旨の本では、決してない。先生の教育理論を、陸幼という一貫した素材を軸に説き直したものである。当然、問題点の指摘もある。つまり、あくまで教育書なのである。先生が大学院やフルブライト交換研究教授として経験されたアメリカの教育が「陸幼の教育と一致するところが多く全く違和感がなかった」とおっしゃるところに、教育者のはしくれである私は考えさせられる。
副題として「世界文学からの20の声」とあるように、編著者の沼野充義(下に紹介した『屋根の上のバイリンガル』著者)が出した、主に旧ソ連・東欧圏の作家・文学者への手紙の返事をまとめたものである。
僕としては、その中にスタニスワフ・レム、言わずと知れたSF界の巨星の「なぜ私は書くことをやめたのか」があるのに惹かれて読み始めたのだが、民族や言語や国家などが揺れ動く中での創作という、とてつもなくよりどころのない生き方をする人々の真摯さに励まされたり考えさせられたりすることになった。
ある日S先生が「これ読んだ?」と見せてくれました。ストールの前著、『カッコウはコンピュータに卵を産む』はけっこう面白くて、校内のメールグループで感想を流したこともあったと思いますが、こちらもなかなか面白かったです。
話題になった本ですし、タイトルからおよそ主題は分かってしまいますから、内容の概略はあえてここで紹介するまでもないでしょう。でもハッカー追跡サスペンスの前作でも同じだったと思うのですが、実はその主題と堅く結びついているのが、結局のところ作者のライフスタイルであり、「人間が好き!」な点なのだろう、と思います。ストール自身と彼を取り巻く人々、そしてその人々との交流が、愉快な(時にはちょっと塩辛い)エピソードとしてちりばめられていて、その合間合間にストールの主張が書かれているから、僕にとっても面白いのだと思います。つまり、一日中「ねっとさーふぃん」している人にはなりたくないし、おともだちにもなれない、って事だと思います。
ちなみにS先生も、何やら難しい研究をなさっているようですが、ホームページの主題(?)はきれいな花の写真だったりしますから、きっと面白いエピソードがあるだろうとにらんでいます。チベットの洞窟で瞑想していて背中に宇宙線をピピッと感じると宙に浮くとか・・・。
何と言ってもズバリこのタイトル・・・。もともと僕はギリシア倫理学の出なので、本当にプラトンが90分で分かるか興味津々で読んだ。本当にだいたい90分で読めたし、面白かった。プラトンのこころの動きから歴史上の意味まで、大胆な意見も含めて倦きさせない展開はみごと。たまに不穏当?な表現もあるが。年表や原典資料もついていて便利。
この「90分でわかる」はシリーズらしい。楽しみなのはカント。学生時代に格闘したというか、愛憎相半ばするというか・・・、カントを90分で分かったらさぞかし痛快だろうな。いずれここでご報告することになるかも(^^;。
久しぶりに出たラファティの短編集の翻訳。ラファティの短編のおもしろさは、それが途方もない「SFホラ話」である、というところにある。あまり小技とかひねりとかを利かせた小話よりも、きっぱりと潔い「ホラ話」に徹した作品が私の好みで、『九百人のお祖母さん』(早川SF文庫)に収められている「せまい谷」や「うちの町内」などは大好き。それで行くと、この短編集は、ちょっと技が細かいというか、ひねりすぎのものも多いように感じる。タイトル作も確かにとんでもないホラ話なのだが。
私にとっては、やっぱりいまだに net surfin' よりは bookshelf surfin' のほうが楽しいのだが、この本も通りがかりの本屋の書棚を流しているときに見つけたものである。そういうときに見つける本というのは、まず、タイトルがおもしろくなければならない。平積みではないので、装幀はあまり関係ない。著者自身が「よく意味が分からない」というこのパロディ風タイトルは、編集者の作品なのだが、単なるゴロ合わせではない、なかなか意味深いものがある(その訳は読めばわかる)。
さて、まずタイトルで目を引いたこの本だが、さらに著者の沼野充義の名前に気づくと、思わず手にとってみた。故・吉上昭三とともに、ソ連・東欧文学(私の趣味から、とりわけSF)の翻訳で、おなじみというかお世話になったというか、そういう人だったからである。
英語だとか、ドイツ語だとか、自分でも噛ったことがある西欧系の言語ならともかく、ロシア語やポーランド語となると、なんでまたそういう言葉を専門にしたのか、興味は必然的に湧いてくる。そんな興味に引かれて、沼野氏の滞在記や旅行記を楽しく読み進むうちに、言語・民族・国籍・居所のいずれもが「ニッポン」であるというお気楽さの危うさに、いやでも気づかされることになる。