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最近の更新(15年7月〜)
☆このページは映画などの感想ですので、特に断りなくネタバレあります。悪しからず。☆

月刊「根本宗子」第14号 『スーパーストライク』作・演出 根本宗子  2017年10月16日(木)@下北沢ザ・スズナリ 魚釣りの話ではないが・・・釣りと言えなくもない  

 生のお芝居を見に行くなんて久しぶり! 演劇のカテゴリを作っていないから映画のカテゴリに入れ込んで、さて「play」の画像も久しぶりに貼りつけた。
 これを見に行こうと思ったのは、一つには月刊「根本宗子」というか根本宗子に興味があったのが一つ。きっかけは何となく見たBSスカパーの『演劇人は、夜な夜な、下北の街で呑み明かす…』で根本宗子や長井短が出ていて、面白そうだなと思ったこと。それはそれで、実際に足を運ぶまでは行かなかったのだが、オワリカラのMV「ラブリー」に見覚えのあるこの人は、と調べたらこれが長井短で(容姿も名前も忘れようがない)、そう言えばと調べてみたらこの公演がまさに上演中だったわけである。
 ちょうど翌日の夜が空いていたので、これはチャンスと調べてみると、前日予約という手があったので申し込んでみた。実際、行って並んでいたら当日券はすぐ売り切れてしまい、帰って行く人もいたから、これは運が良かった。ただ注意書きにあったように、上手直前のパイプいすという、なかなかの席だった(席番X-1て、ちょっとかっこいいけど)。舞台全体を見渡すことはできない代わりに、役者さんたちがまさに目の前である。
 出会い系アプリでつながった女性3人と男性1人、女性同士の関係はありがちなカーストで絡んでいるところに、男性の友人観恋愛観が規格はずれなために、人間関係、男女関係のもつれがどんどんひどくなっていくようなストーリー。根本宗子、長井短、ファーストサマーウイカの女性陣が素晴らしく役柄にはまって、田村健太郎が一見とてもまともなのに次第にとんでもなく感情移入しにくい男にズレていくところがとても面白い。そしてあの驚くべき展開!
 久しぶりに見る演劇、本当に楽しめたし、役者さんたちの目の前の演技が迫力だった。帰りしな、上方から振り返って、こんな風に見えていたんだなと改めてその違いを感じて、特別な一夜の偶然に感謝した。今日を手がかりに、もっと見に来たいと思う。

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プリズン・エクスペリメント('15 アメリカ) 「善い人間」がどのようにして悪魔にかわるのか  

 1971年に行われたジンバルドーのスタンフォード監獄実験は、現代の社会心理学実験の中でもっとも「悪名高き」ものの一つである。ジンバルドーはこの実験について、2007年の著書「ルシファー・エフェクト」で詳しく振り返っているが、彼の実験は恐るべきものであったというだけではなく(もしそれにとどまっていたとすれば、ジンバルドーは「悪名高き」心理学者になっていただろう)、人間性の危うさについてのもっとも信頼のおける研究として価値のあるものであったことは間違いない。  それだけに、たとえば「エス」('00 ドイツ)のように、映画化される時に誇張された表現が使われるのも仕方ないのかもしれない。「エス」はドイツ映画ということも影響しているだろう。「ウェイヴ」('08 ドイツ)でも、実際にはなかったラストシーンが衝撃的だったが、やはりナチス・ドイツの問題意識と強くリンクしているからではないか。そういう意味では、本作は「ルシファー・エフェクト」に依拠して、実際の実験にかなり忠実な再現を試みている。それにもかかわらずというか、それだからこそというか、かえってそこで起こっていたことの恐ろしさが伝わってくる。つまり「エス」よりもこちらの方がかえって怖いのだ。心理学の講義で「エス」は見せられないので、これはどうかなと思ったが、やはり紹介だけにとどめようと思う。私自身、二度見たい映画ではない。「ルシファー・エフェクト」の方は何度も読み返すべき本であると思うが(こちらはまた改めて感想を書くつもり)。

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『メッセージ』('16 アメリカ) 子育てについて考えさせられるドラマでもある

 『ブレードランナー2049』が話題のヴィルヌーヴ監督、日本では宇宙船の造形がおせんべいの「ばかうけ」にそっくりということでも評判となったが、原作小説のファンからは必ずしも良い評価を得ているとは言い難いようだ。確かに、原作と映画ではストーリーが異なっているのだが、私が見たところでは、映画は映画でこれはアリだな、という意見である。原作の面白さと、映画の面白さは、それぞれの特性を大いに生かしきっていて、それぞれの驚きと感動にあふれていた。
 原作『私の人生の物語』は、そのタイトルが生きた短編である。映画の方にも、小説と同じいわば人生の振り返りシーンは挿入されるが、小説は並行するエピソードとしてその比重が大きい。言語学や物理学の説明も詳細で、素人の読者にもなるほどと思わせ、それが「人生の物語」を織りなしていく構成にカタルシスがある。
 一方で、映画は原題が "ARRIVAL" 、これを『メッセージ』というタイトルにしたのは、ややネタばれ感もあるものの、まあそれほど悪くないという印象。宇宙船の造形はさすがにすばらしい。そもそも異星人とのコンタクトの舞台は、原作では「ルッキンググラス」という物体(実は単なる石英)で、出現数も100以上である(宇宙船本体は軌道上に在るという設定)が、映画では世界中に10いくつか現れた巨大な「ばかうけ」の内部である。やはり映画としては巨大宇宙船は見ごたえがあるし、その中に短時間しかいられないという設定も、息詰まる効果がある。命令に背いて異星人を抹殺しようとする者が現れて危機一髪とか、国際的な対立からあわや異星人との全面戦争にとかいう映画のメインストーリーは、原作にはまったくない。この展開が原作ファンにはいかにも映画的な「やりすぎ」感を与えることは否めないものの、実際には戦闘シーンが出てくるわけでもなし、スペクタクルSFにはまったくなっていないところはさすがであるし、宇宙戦争を止めた理由も、非常にうまく設定に組み込んであって、むしろ「そう来たか!」と感動すら覚えた。
 映画では物語に重要な役割を果たす「フェルマーの最小時間の原理」の説明が十分に浸透しない。どちらかと言えば言語学の「サピア=ウォーフの仮説」の方に焦点が当てられている印象である。このあたりは物足りないが、しかし数学的にデータの不足の理由を見つけて、それがストーリーに絡んでくるところもなかなか良くできていると思う。
 そんなこんなで、原作ももちろん面白かったが、映画は映画で面白かった。あの原作がなければこの映画はなかったわけだが、両方楽しめるという意味で、満足のできる映画化ではなかったかと思う。

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『ドリーム』('17 アメリカ) それはそうとジャネール・モネイはとにかくかっこいい

 良い映画だったが日本ではタイトルで揉めた。原題は "Hidden Figures" 、恐らく「隠れた公式」と「陰の功労者の姿」というような意味をかけているので、確かに直訳が難しい。そこで最初に付いたのが『ドリーム 私たちのアポロ計画』というもの。これに、「アポロ計画じゃなくてマーキュリー計画じゃないか!」という批判が強まって、ただの『ドリーム』になったというドタバタがあった。
 私も実際に見るまでは、まあ何とも頓珍漢だなあと思っていたのだが、終り近くになって言われた決めセリフにアポロ計画が出てきて、「ああこれのことだったのか!」と、いったん合点が行きかけたのだが、しかしそれはもう夢ではないという意味で言われたのだからむしろ『ドリーム』だけにしてしまうと(してしまわなくても、だが)よけいにおかしなことになってしまっていて、やはりダメなものはダメか!というところであった。しかも大切なせりふを副題でほのめかしてしまうという、これまたダメ邦題あるあるのネタばれ感も少しある。それもまた最初にもめたときの配給会社の説明があいまいだった理由かもしれないのだが。
 一方でNASAにおいては当時人種差別や性差別はかなり解消されていたという指摘もあって、たとえば抜擢された主人公が何百メートルも離れた黒人用トイレに行かなければならないというようなことはなかっただろうという。
 そうはいっても、今とは比べ物もないほどに黒人女性の立場は弱かったはずで、その中で才能と努力で宇宙計画に貢献した主人公たちが称賛に値することに間違いはない。3人の女性たちはそれぞれに魅力的で、ユーモアやロマンスの描き方も好ましく、映画の喜びを堪能できる傑作だった。

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『花戦さ』('17 日本) 芸能の異種格闘技

 単独であれば見る機会がなかったであろうが、池坊の華道を習っている妻のチケットノルマ的なもの?で行ってきた。久々の妻との映画館デートというのも楽しいわけだが、映画も思っていた以上に楽しめた。とにかく池坊の方は相当に力が入っていて、映画の中の花はそうとう凄い人たちが活けているらしい(妻に説明されたが忘れた)。
 信長が討たれ秀吉の威光が高まる時代に、京都に現れた花僧、池坊専好が主人公。人の顔と名前が覚えられないというハンデを負いながら、花を生けることには天才的。前田利家や千利休、秀吉の知己を得、やがて秀吉と対立する。池坊専好の人物像はたぶんに創作が入っているのだろうが、重要なエピソードとなるような花については、史料に基づいている。
 役者は豪華で、主人公は野村萬斎、豊臣秀吉に市川猿之助、織田信長に中井貴一、前田利家に佐々木蔵之介、千利休に佐藤浩市などなど。野村の演技は狂言の、市川の演技は歌舞伎の持ち味を残しながら、それが役にうまくはまっているから面白い。たとえば野村萬斎は狂言師のふるまいだから、それだけではやはり大仰である。秀吉が利休の頭を踏みつけるシーンでは、役者の佐藤がもっと強く踏んでくれというのだが、猿之助はなかなか躊躇してできなかったという裏話もある。まさに拠って立つ基盤が異なる一流の役者たちのぶつかり合いと溶け合いである。
 それにつけても、これだけの役者を揃えながらも花の力は圧倒的である。話の要とも言える松の大砂物が全貌を見せる二度のシーンでは、私のように何の心得もない者でも、不覚にも目頭が熱くなるほどだ。すでに命を絶たれた花だからこその命のほとばしりである。
 ストーリーも確かに面白いし、役者の演技も堪能できる。そして花の迫力はやはり映画館で見たい。

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『チャッピー』('15 アメリカ) 電池切れたら使い捨て?・・・そういう商売か

 心理学の講義で人工知能について話していたのだが、終わってから一人の学生に、この映画を見たか尋ねられた。監督が『第9地区』『エリジウム』で知られるブロムカンプだから、ぜひ見たいとは思っていたので、学生との話のタネに見てみることにした。
 犯罪抑制のために南アフリカ政府が導入したのは、人工知能をもつ攻撃型アンドロイド。開発した主人公ディオンは、ライバルのエンジニア、ビンセントに怨まれている。彼は殺傷力の強い兵器型ロボットを開発したのだが、あまりにも破壊力が強すぎて採用されなかったからだ。人工知能を高度化し人間のような感情をもつプログラムを開発したディオンは、会社に認められない実験のため、壊れたアンドロイドのボディを持ちだすが、ギャングに襲われて盗まれてしまう。脅されてプログラムをインストールし、チャッピーと名づけられたロボットは、ディオンに教育されたりギャングに使われたりする一方、ビンセントが作成したウィルスで警察のロボットは機能停止、彼が作ったロボットが彼らを襲う・・・。
 実際のところ、これまでの作品以上に突っ込みどころが多くて、最初にこれを見たら、ろくでもないB級SFにしか思えなかっただろう。だいたい、アンドロイドのバッテリー交換ができないとか、大けがをしたとはいえ先ず病院に連れていくのではなく意識を取り出そうとするとか、ちょっと(どころか、いくらなんでも)おかしいだろ!と言いそうになるのだが、ここでこれがブロムカンプ作品だということを思うと、『第9地区』や『エリジウム』の延長上に、彼のテーマが込められていると思って見るので、何となく見れちゃうのが恐ろしいところ。
 さすがにこの映画で描かれているレベルで人工知能の事を考えるのは無理があるが、だからこそかえって、人工知能をパロディにするとこうなる、という点には気づけたので、学生にもそんな話ができて楽しかった。

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『BONES 10』('15 アメリカ) 慣れてしまうのは怖いことだけれど

 テレビドラマの感想を久しぶりに書いている。BONESは日本のテレビ放映時にはあまり興味がなかった、というかやはり死体のグロテスクさにいくらなんでも無理・・・という印象だったのだが、音楽番組目的で契約した光テレビで海外ドラマをいろいろと見ているうちに、アメリカ製作のドラマでは結局これとNCISが抜群に面白い、という結論に至った。さらにアマゾンのfireTVstickを、4980円という価格につられて購入したところが、プライム会員だと追加料金なしで見られる番組になんとBONESがシーズン9まで入っていたわけである。最初はやはりグロテスクと敬遠していたはずの妻がこれにはまってしまい、シーズン1の第一話から見ているほどで、最近では「どんな死体が出るかな!」とか言いながら、食事しながらでも見ている。慣れは怖い。
 BONESに限らないがアメリカのドラマにはまるのは、基本的に45分程度の一話完結にこれでもかと詰め込まれた、本筋にサイドストーリーのスピード感である。正直なところ、私は最近ではほとんどの日本のテレビドラマ、特にミステリーやサスペンスにはもう退屈でリズムが合わなくなってしまった。本筋に関しても、サイドストーリーに関しても、どうしてこんな話を思いつくのだろう!という気持ちに、毎回されてしまい、楽しみながら舌を巻いている。
 そのような基本的な魅力と言うか中毒性をさらにこれでもかと高めるのが、登場人物たちのとんでもない性格づけと、毎回趣向を凝らした死体である。
 その死体、ものすごくグロい。埋まっているのは普通で、散らばっていたり、浮かんできたり、落ちてきたり、吹っ飛んできたり、ゴロゴロと転がってきたりするから、なんとも油断ならない。我が家では巨大チョコレートから溶け出てくるやつや、ボーリングのピンになって出てくるやつ、給食のシチューになってるやつ等の人気が高い。私はお父さんに無理やりキャンプに連れてこられた家族の上に落ちてくるやつや、離婚調停中の父親が子供を遊ばせに来る公園で遊具から頭がい骨が転がり出るやつなんかが、なかなか気にいっている。作りものと分かっていても、あまりにもよくできているので、最初の内はとても見続けられないだろうと思っているのだが、どうもこういうものは思わせぶりに隠すよりも、バーン!とさらされてしまった方が慣れてくるようである。
 さらに主人公始め主要な登場人物がほとんど、普通じゃない。FBI捜査官のブースがスクインツと呼ぶ研究所のメンバーは、自分が天才であると自負している者が多いし、実際にそうなので、台詞がとにかく面白い。入れ替わり立ち替わりやってくるインターンは曲者ぞろいだが、みなボーンズにはかなわない。一方で、ボーンズの生い立ちなどにも深い傷があり、ブースだってギャンブル依存症である。ずっと見てきて思うのは、ほとんどの場合、殺人犯の方がよほど普通の人である、ということだ。あんがい、現実もそんなものかもしれないが。
 難病や障害が重要なモチーフになることも多いし、セックスに関してもタブーがない。NCISではギブスのルールに職場恋愛禁止があったが、こちらはもうとっかえひっかえである(とはちょっと言い過ぎだが)。親子関係もやたらと複雑である。ブースとボーンズの宗教論争は、これでどうして二人が結婚できるのか不思議なほどだが、二人の子供が誕生する時のとんでもないドタバタで昇華するのには度肝を抜かれた。まさか最初から考えていたわけではないだろうな。
 NCISと共通するのは、チームの仲の良さだ。親子関係や恋愛関係などにみんなが傷を負っていて、それが研究所で働く中で実際に家族と呼んでしまうほどの結びつきを形作っている。おそらく、アメリカ社会ではこういう人間関係が職場で形作られていく事に、強い魅力があるだけでなく、驚異すら感じられるのではないのだろうか。それだけに、チームが解散したり、メンバーのだれかが死んでしまったりすることが、見ていても非常にショックだったりする。ビンセントもショックだったが、何と言ってもスイーツはかわいそうだった。デイジーは妊娠しているし。ボーンズもデイジーも、実際に女優さんの妊娠に合わせてストーリーを作ってしまうのだから、これもまた驚くべき臨機応変、しかもそれが外れなく魅力のある話になっていくのだ。
 原作者であるボーンズのモデルの法人類学者以外にも、やはりスタッフには関心を持たずにはいられない。このとんでもない死体をどのようにして作っているのだろうか。セットも含めて、キャストの出演料を除いた一回の製作費はいくらかかっているのだろうか。興味は尽きない。噂ではそろそろのようだが、終わってほしくないドラマシリーズである。

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『マエストロ!』('15 日本) miwaはかわいい、けど、そこじゃない

 録画したきり見ていない映画がたくさんあって、5月の連休にカゼをひいてしまって家でごろごろしているほかなかったので、とりあえず何本か見ようというわけで家族と見た一本。久々の映画の感想である。
 音楽映画はロックであれクラシックであれ、それなりに楽しめるものは多い。おそらく原作のコミックからはだいぶ端折って組み立てられているのだろうが、説明不足と説明的になるのとのちょうど良い境界辺りで、うまく構成されていると思った。ただコンサート二日目の設定というか、ああなる必然性が納得できず、よく分からなかった。その分、ラストシーンはさらりと終わっていて、好感が持てたのだが。音楽も吹き替えで十分楽しめるが、何よりも感心させられたのは、俳優の演技力というか、演奏しているときのもっともらしさである。miwaのフルートはちょっとどうかとは思ったが、松坂桃李のバイオリンなどはなかなか見事だった。豪華な顔ぶれだが、みな相当練習したのであろうと思うと、その想像がまた楽しい。

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『日々ロック』('14 日本) 二階堂ふみはかわいい、だけじゃない。

 コミック原作、パンクロックネタというと「少年メリケンサック」という傑作があるだけに、どうしても比べて見てしまう。しかもあっちが宮崎あおいでこっちは二階堂ふみと来たもんだから。しかしこっちは今一つ、入りこめなかった。いじめられっ子がステージで爆発する設定はいかにもというところだが、とにもかくにもこの主人公の、叫びまくり暴れまくるどたばたな痛さが、コミックではどうだったか知らないが実写ではあまりにも度を越している。一方で、二階堂ふみの両面性があるキャラクターも、途中からはかなり地味でまじめで中途半端なものになる。嵐の中で感電しながらバンドが演奏する感動の?シーンも、恐らくコミックではコミカルな画として成立するのだろうけれど、実写映画でリアリティのある場面としてはとても見られない。結局、見終わった時にはとても疲れてしまった。

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『ストレイヤーズ・クロニクル』('15 日本) 背景が見通せないもどかしさ  

 ゲスの極み乙女。がテーマ曲と挿入歌を担当、というので、せっかくだからと映画館に観に行ってきた。公開からちょっと経っていて、近くの映画館だと早朝とかラストしかやっていない。土曜日の朝8時半からの回に行ってきたが、私と妻を含めて6人という観客数がちょっと残念。おかげでのびのびと観られたし、大好きな曲が大音量かつドラマチックに聴けたのは良かったのだが。
 小説が原作のSFだから、映画になるとやや説明不足のままでストーリーが展開して行くのが、まず物足りない。最初の背景説明だけだと、SF好きにとっては設定に突込みどころがありすぎてしまう(小説の方は多分、ていねいな設定を置いているのだろうが)。そういう居心地の悪さから入るのだが、前半のアクションシーンや映像の凝り方にいったん引きこまれ、何とか持ち直す。しかし後半になると、どうしても状況や人物描写の理解が、ストーリーに追い付けなくなってしまう。物語の世界が余裕を持って描きこまれていればよかったのだと思うが、この尺では難しかったかなというのが率直なところ。
 若手の男女人気俳優を揃えていて、私のようなおっさんには成海璃子はじめ女子の皆さんが当然魅力的なのだが、なかでも黒島結菜はやっぱりかわいいなあ。髪型と思い詰めた表情であの家具会社の社長を連想してしまうのがちょっと困りものではあるのだが。

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